Chapter 9.









 初夏の陽気で汗ばむ額をハンカチで拭いながら、スーツにネクタイを締めた氷川が同じ姿の皆川を連れ立って歩く。

 ふたりは都内のとある大学へと来ていた。


「本当に変わってるらしいですよ? 大丈夫なんですかね? ……って、聞いてます? 悠一様?」


 大学の構内の長い廊下を氷川が先に歩く。その半歩後ろから皆川がついていく。

 

 長い廊下の壁には鉄格子の入った大きな窓が白い壁と交互に続いている。

 その窓から見える中庭には、けやきの小枝が明るい緑の葉をつけ、時折吹く風にその身をさわさわと揺らしていた。

 加賀谷が旅立ってから一ヶ月。

 窓から差し込む眩い光に氷川は目を細めた。


「“その道の第一人者” なんてみんな変わりもんだろう。じゃないとやってけないだろ?」


 皆川はふと歩みを止めて考え込んだ。


「ま、高柳さんの紹介だし……良い人だと良いんですが……」


 頭を掻いて呟く。

 その間も前を進む氷川に皆川は置いていかれては不味いと慌てて後を追いかけた。



「あ、どうやら此処みたいです」


 ある部屋の前でふたりは立ち止まった。

 真鍮の板に食刻エッチングを施されたその部屋の扉のプレートにはこう書かれてあった。


 『気象工学開発研究室』


 扉の前に立ち、氷川が深く息を吐く。右手を握り目の高さまで上げると、とんとん、と扉を叩いた。


「はぁい、開いてますー」


 部屋の中から、その古い趣のある扉からは似合わない、少しのんびりした声がした。


「……よし、入るぞ……!」


 真鍮のドアノブに手をかけ、そっと回して扉を開く。

 いきなり目に飛び込んできたのは、壁一面に広がる……空。よく見るとそれらは、数え切れないほどの『雲』の写真だった。


「うわぁ……」


 皆川は声を出した口を手で押さえ、息を呑む。

 思わず入り口で立ち尽くすふたりを、机の上の山ほど積まれた本の隙間から見て笑顔で立ち上がる男がいた。

 和服を着たその男は人懐っこい笑顔で歩み寄ってくる。


「どーも、ようこそ。あなたさんが氷川世界貿易の?」


 はっと我に返り氷川が会釈をする。


「そうです……あなたが薬師丸教授……ですか?」


「そうです、どうぞよろしゅう」


 にこにこと人懐っこい笑顔で握手を求める。

 差し出した氷川の右手を両手でしっかり握りしめ、さらににこにこと微笑む。

 続けてあっけにとられて隣でぼうっと立っていた皆川の手を取り、同じように固く握手をした。


「どうぞ、お座りください」


 本の山の隙間にかろうじてソファが見える。机の上に山積みにされていた本は床の上にも積まれていた。その足の踏み場もないほどの本の隙間をすり抜け、氷川と皆川は腰を下ろした。



 薬師丸慎一郎やくしまるしんいちろう、彼はこの大学の教授で専攻は『気象学』。

 頭はほとんど丸刈り。その所為か、またはその人懐っこい笑顔の所為か、随分と若く見える。丸刈りの頭とよく馴染む紺の着物に腰の低い位置で締められたこげ茶の帯。羽織を着ていて手は懐に入れている。足元は素足で雪駄を履いていた。立ち上がって歩く様は売れない作家のようだ。一見して誰が大学教授だと思うだろうか。

 しかしその風貌とは裏腹に、気象学の他に、機械工学、物理学の博士号を持つ天才でもあった。



 ふたりが座るのを見届けて向かいのソファに薬師丸が座る。

 身を前に乗り出して、肘を膝の上へ付きながら顎に手をやり、やんわりと話を切り出した。


「海軍の高柳大佐から話は伺ってます。……なんでもこんな実にもならんような研究に投資して下さるとか?」


 穏やかに笑顔ではあるが、氷川の訪問が不思議でならないという、訝しさが時折覗く。そんな薬師丸に対し、氷川はゆっくりと丁寧に話し出した。


「私の父が……いえ、社長が常日頃から感じている不満、不安がありまして」


 浅くソファに腰掛け、身を少しだけ前に倒し、薬師丸の目を見る。


「貿易という仕事柄どうしても『天候』に左右されまして……」


 氷川は安全でかつ正確に荷物を納期通りに納入できないものかと、常時こぼしている父親の話を耳にしていた。

 悪天候によって予定外の時間がかかり、納入先へ多大な損失を与えた事が何度かあって、考えた末それを解消するには、船の安全、船体の強化向上は勿論の事、移り行く天候を先に予測できないかと考え『気象の予測』に着眼したのだった。


「で『天気予報』ならこのボクだと?」


 にっこりと薬師丸が笑う。


「はい、我が社でも最大手の取引先でもある国の機関……海軍の推薦を受けまして、今日お伺いした次第です」


 氷川世界貿易は海外から軍事用の鉄鋼材の輸入も手がけていた。その殆どが国に買い上げられ、事実上氷川世界貿易が独占しているも同じであった。軍と関係が親密になるのは事の流れの上で自然とそうなっていったもので、偶然、会社に海軍の視察で高柳大佐が訪れていた時に『気象学』に関する人物で力になる人間はいないかと氷川が訊ねたのが、今回の事の発端だった。


「……まだまだ未知の領域なんで、なんとも言えへんのですが」


「教授の開発していらっしゃるレーダー、あれに是非投資させて頂きたいのですが」


「へ? あの金食い虫に? あんまり金が掛かるんで海軍もよう進めへんかったあの研究に?」


 薬師丸の開発しているレーダーとは、雲のソナーのようなもので、海上から電波を発し、雲に当てる事でその水蒸気の量、温度湿度などを計測し、その後その雲がどう発達していくかを予測する装置であった。

 しかし、その測定のための強力なマイクロ波を起こす装置に金がかかり、開発が暗礁に乗り上げていた状態だった。


「はい、それさえ完成すれば今までの広範囲から必要な狭い範囲での予測が可能になり、なお正確な時間……分単位での天候の移り変わりが予測出来ると伺っています。これは広い海上を航行するうえで非常に有益になると思っています」


「まぁ……金さえあれば出来てた装置やさかいに……そもそも軍人さんたちにとっては兵器の強化の方に金を掛けたいのが本音やろうしね」


 坊主頭に手をやり、苦笑いをする。薬師丸自身は軍との関係をあまりよく思っていないようだった。

 氷川は浅く腰かけなおし、身を乗り出した。


「自然の驚異の前に我々は無力ではあります、が、それを否定して覆すのではなく、共存していきたいと思ってます……何よりも船の乗組員の安全が最優先です。その為にはより安全に、海難事故を未然に回避する為にも是非、この研究の完成を願ってます!」


 氷川は立ち上がって深く頭を下げた。慌ててそれに倣う様に皆川も立ち上がり、深々と頭を下げる。

 そんな生真面目なふたりの態度を見た薬師丸はにっこり笑ってゆっくりと立ち上がった。


「こちらこそ、よろしくお願い致します。……これでもう、あの装置は完成したも同じですわ。今週末からでも開発を再開します」


 氷川が頭を上げる。顔には嬉しさを隠そうともせず、満面の笑みを浮かべていた。


「ありがとうございます! 本当にありがとうございます!!」


 氷川は薬師丸の手を取り、何度も礼を言った。

 そんな氷川に対し、薬師丸はただただにこにこと笑っていた。


「まあまあ、取り敢えず座って下さいな」


 薬師丸に勧められ、改めて腰かけなおす。

 話がまとまり、気持ちに余裕が出てきたのか、氷川は改めて壁一面に飾られている写真に目をやった。


「それにしても……凄い数の『雲』の写真ですね」


「……雲にはそれぞれ名前があってその写真なんですよ、ホラ、下に入ってるでしょ?」


 それぞれの写真の下に小さな文字で雲の名が入ってる。

 沢山の『雲』の写真はどれも同じようでいながら、全く同じものは一枚も無かった。


「彩雲、積乱雲、高積雲……雲の名前は気象学上では十種類しかないんやけど、 実際はひとつの雲が形を変えて複雑な形状になる事から、雲の種、雲の変種、雲の副変種と細分化されるんや、でもよく耳にする雲の名前は大抵最初の十種類に入るんやで」


 そう言いながら写真一枚一枚の名を読み上げて行く。


「『筋雲』……これは巻雲の俗称。『鰯雲』……こっちは巻積雲。『綿雲』……こいつは積雲」


 殆どの写真が雲しか写っていないのに、氷川が座っているソファの向かいの壁の中央に飾られている一際大きな写真にだけは、大地と雲がひとつのフレーム内に納まっていた。


「この写真だけ、どうして地面が写っているんですか?」


 目を写真に向けたまま氷川は訊ねた。


「これはな、『光』の名前……かな」


 その写真は厚い雲の間から幾筋もの光の柱が地上へと降り注ぐ、とても幻想的なものであった。


「とても神々しい感じがするんですけど……」


「あ、やっぱり分かる? これはな『ヤコブの梯子はしご』、別名『天使の梯子はしご』いうてな、ヨーロッパじゃこの光を天使が上り下りして地上の御霊みたまをお迎えにくるんやて言われてるんよ」


「天使の梯子はしご……」


 皆川がなるほど、と頷く。

 その隣で氷川はふとドイツにいる加賀谷を思い出した。


――あっちじゃそんな風に言うのか……今頃加賀谷、頑張ってるんだろうな……


 一瞬加賀谷の顔が脳裏によぎる。最後に逢った時のあの笑顔。

 思わず湧き上がる淋しさを紛らわせるように薬師丸に訊ねた。


「これだけ沢山のお写真を撮られているところをみると、薬師丸教授はかなりカメラにはお詳しいんですね?」


「あはは、もう、仕事もプライベートもあらしまへん! カメラ、ボクの分身です。 いや、全て、かな?」


 目を細めてにっこりととても嬉しそうに笑う。写真を撮ることが本当に好きだと伺える屈託の無い笑顔がとても印象的だった。


 つられるように氷川も皆川も微笑む。そんな和やかな空気の中、ふと気付いたように薬師丸が言った。


「あのー、ボクの事、薬師丸教授とか呼ぶの、止めて欲しいんですわ、どうにも堅苦しくって」


「え? じゃ、なんてお呼びすれば……」


 薬師丸はここぞとばかりに子供っぽい無邪気な笑顔で答えた。


「やっくん! やっくんって呼んだって下さいな、ボクも氷川さんって良う言われへんし……悠一はんって呼ばせて貰ってもええですか?」


 親しみを込めて呼ばせて欲しいと薬師丸がせがむので氷川は断る理由も無く、自分も『やっくん』と呼ぶことを承知した。

 それを横でじっと聞いていた皆川は何処と無く、不機嫌そうである。


「ホント、変わってる……」


 思わずぼそっと呟いた。


「へ? なんか言わはりましたか?」


「いっ!? い、いえ、なんでもありません……」


 にこにこと笑顔で訊ねる薬師丸に思わずたじろぐ。

 そんな皆川にふっと笑ってから皆川は改めて薬師丸に今後ともよろしくお願いします、と立ち上がり頭を下げた。薬師丸も笑顔で挨拶を返す。


「いやぁ、あの氷川世界貿易の二代目言うから、どんなやり手のいかつい兄ちゃんが来るかと思ったら、やさしい色男やないですか」


 氷川は思わず苦笑いをした。頭に手をやり少しだけ俯く。


「いえ、まだまだです。俺なんか社長の足元にも及ばない……。だけど俺なりに会社の、親父の力になれれば良いと……。また近いうちに打ち合わせしたいんで、後日連絡入れさせて頂きます。……うちの皆川がお邪魔するので宜しくお願い致します」


「わかりました。またよろしゅうたんのます」


「それでは今日はこれで失礼します」


 氷川が一礼する。皆川も倣って頭を下げると部屋を出ていく氷川について部屋を後にした。




 ドアの外で廊下を歩きながら下を向いて思い出すように皆川が呟いた。


「………本当に、本当に変わってましたね」


 並んで歩く氷川は、皆川の肩を軽くぽんっと叩くと笑顔で答えた。


「そうか? 面白い人じゃないか。それにあの雲の写真見たろ? 生半可な情熱じゃあそこまで出来ないよ……」


 ふと考えるように言葉が切れる。皆川は不思議そうに氷川の顔を覗き込んだ。


「それに……やっと第一歩って感じだな。これからだよ……頑張らなきゃ、な」


 氷川はどこか遠くを見るような目で、自分に言い聞かせるようにして呟いた。その横で皆川はうんうんと頷いて氷川の横をついて行く。


 氷川の二代目としての仕事が今、始まったばかりだった。




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