Chapter 8.
「加賀谷くんの無事と健闘を祈って……かんぱーいっ!!」
かちんとグラスのぶつかり合う音が辺りに響く。
「さあ、今日は店は休業、吉彦の壮行会と氷川くんの送別会、両方で思う存分楽しんでくれ」
四月の初め。
加賀谷の旅立ちを明後日に迎えて、真野は店をふたりの為に開放した。
店内には真野と千葉、大倉と何故か皆川まで来ている。
皆は各々に雑談と真野の用意した料理と飲み物で楽しんでいた。
「あぁっ!!」
いきなり千葉が
「な、なんですか、急に!? あやうくサンドイッチ、喉につかえて窒息するかと思いましたよ」
皆川が極めて丁寧に千葉に抗議する。
「ゴメン、ゴメン。たった今思い出してさ。忘れてたのよ、アレ」
千葉とテーブルを挟んで向かいに座っていた真野が訊ねた。
「……アレ、じゃわからんぞ。なんなんだ?」
座っていた椅子の背もたれと背中の間からかばんを取り出した千葉は中をごそごそとかき回して封筒を差し出した。
「加賀谷くーん、氷川くーん、コレ、遅くなってゴメンねぇ」
ピアノの前で話していたふたりが、ふと気付いて千葉の傍まで近寄ってきた。
にっこり笑う千葉からふたりはそれぞれ一通の封筒を受け取る。加賀谷と氷川は不思議そうに千葉を見た。
「……これ、あ! ひょっとして……」
氷川が中から一枚の紙切れを取り出した。それは今年の初めに千葉が撮った写真だった。
「どぉ? 上手く撮れてるでしょぉ? ねえ?」
その千葉の問いには答えず、加賀谷は写真を眺めながら目を細めて嬉しそうに微笑んだ。
――ふふ、この日の事だったね。ようやく自分の気持ちに気付いたの……
思わず微笑んだ加賀谷を氷川は嬉しそうに眺めている。
――加賀谷の笑顔を見ると、ほっとするよな……
いつしかふたりの間には、やさしい空気が満ちていた。そんなふたりの様子を見ていた真野は、ふと立ち上がってふたりの後ろへとやって来た。そして千葉には聴こえない程度の声でふたりにそっと話しかけた。
「……お前ら……出来てるだろう?」
「!?」
ふたり同時に肩をすくめる。ゆっくりと真野の方へと振り向いたふたりの顔は赤くなっていた。
加賀谷は黙って俯き、氷川はおろおろと取り繕う言葉を探した。
氷川がバイトを再開したあくる日から、ふたりの様子が少しずつ変わっていった事に真野は気付いていた。
加賀谷の氷川を見る眼差しが、日ごとにあたたかくなっていった事。
氷川の加賀谷への態度に、それまであった遠慮のような迷いが無くなっていった事。
ふたりの関係を確信した真野は嬉しそうに続けた。
「良かったじゃないか! お前ら、仲良くやれよ。……でも、アッチの方は程ほどにしとけよな、腰に来るぞ?」
「……ま、真野さん!? まだそんなじゃないですっ! ……あっ!」
突然の言葉に思わず本音を漏らし、しどろもどろになる氷川と、ますます俯く加賀谷。
「ふははは、冗談だよ、冗談!」
真野が大きな声で笑うと、その声に気付いた大倉が手にしていたワイングラスをテーブルへ置き、加賀谷に向かって声を掛けた。
「おーい、加賀谷くん、一曲歌ってくれないか? 暫く君の美声も聴けないからね……聴き納めにひとつ頼むよ」
「よし、伴奏はオレに任せとけ」
千葉は意気揚々とピアノの前に腰かけた。かるく両袖をまくると加賀谷に訊いた。
「何、歌う? なんでもオッケーよ」
加賀谷は何の迷いも無く答えた。
「『アメイジング・グレイス』を歌います」
「……加賀谷」
思わず加賀谷の顔を見つめる。出逢った時に歌っていた、あの歌。氷川の顔にやわらかな微笑が
加賀谷はかるく氷川に向かって頷くとピアノの横へ立つ。氷川は傍にあった椅子に腰掛けると加賀谷の方へと視線を移した。
千葉が最初の音を鍵盤を叩いて教える。
響いた音の余韻が消えると、加賀谷はすうっと息を深く吸い込んだ。
Amazing Grace! How sweet the sound
-アメイジング・グレイス- その素晴らしい響き
That saved a wretch like me!
私のような者にまで、救いの手を差し伸べてくれる
I once was lost, but now I am found
見失っていた道を、今、私は見つける事が出来た
Was blind, but now I see
盲いていた私の目が、今は見えるように
ぴんと空気が張り詰める。その緊張は決してつらいものではなく、心地よく研ぎ澄まされていて、まるで朝日が昇る少し前の山林の空気のよう。高音の伸びと深みは澄み切っていてなおかつ穏やかで。
強さとやさしさを併せ持つその声は、それを聴く人のこころまで癒していく。
加賀谷は丁寧にこころを込めて歌い上げた。
「素晴らしいっ!!」
最後の一音の余韻が消えたと同時に大倉が叫ぶ。次の瞬間わっと拍手が起こった。
「……オレ、初めて聴いたけど……ここまでスゴイとは思わなかった!」
椅子から立ち上がり、手を叩きながら千葉が言った。
皆が加賀谷を讃えて惜しみなく拍手を送る。そんな中、加賀谷の視線は真っ直ぐに氷川を見つめていた。
「えー、皆さん、楽しんでおられる事と思いますが、吉彦の準備もありますので、この辺でお開きにしたいと思います」
真野が声を上げた。
まだ外は薄明るい。穏やかな春の日の夕暮れ。
真野はふたりに気を利かせて時間を早めに切り上げた。
「……今夜はふたりで大事に過ごせよ」
「……真野さん……止めて下さいよ」
加賀谷は恥ずかしそうに答えた。
「……何言ってんだよ、半年って短いようで待っている人間にとっちゃ長いもんだぞ? 氷川くんの為にも、な?」
真野は加賀谷の肩をぽんぽん叩くと、ワインを飲んで上機嫌になっている皆川の方へと近寄っていった。軽く耳元で響く低音で囁く。
「今夜は坊ちゃん、羽伸ばしても良いよな? 皆川くん?」
肩を軽く掴んでにっこり微笑みながらにじり寄る。どちらかと言えば脅迫に取れるその行動に皆川は萎縮してただ、はいっと頷くしか無かった。
次に真野は千葉に今日は思う存分飲んで食べてってくれて良いからと、まだ店でゆっくりするよう勧めた。
それは大倉にも同じで、真野は最近流行っている『
残った三人にワインを勧めながら真野は氷川と加賀谷に横目で手を振りながら、早く出て行けと態度で促した。
真野の気遣いに氷川と加賀谷は一礼して静かにそっと店を出た。
「……ありゃ? 悠一さまは何処へ……」
ろれつの回らない口で皆川が呟くと真野はトイレだよ、と言って誤魔化した。
――本当に良かった……吉彦のあんな顔、今まで見た事無かったから……吉彦には幸せになって欲しいからな……
真野はひとり微笑むと、よし、今夜はとことん付き合うさ、と三人のグラスにワインを継ぎ足していった。
店を出て歩道を歩く。加賀谷が氷川の半歩前を歩いていた。その加賀谷がふと振り返る。
「ねえ、悠一、今から寄りたいところが有るんだけど……」
「え? 加賀谷も? 俺も行きたいところが有るって言おうと思ってた……」
空を真っ赤に染める夕日でふたりの影が長く道路へと伸びていく。
何処か近くに桜の木が有るのか、風に乗ってふわりと薄桃色の花びらがふたりの周りに舞い降りる。
あたたかで穏やかな夕暮れの中、言葉を交わすまでも無くふたりの気持ちは通じていた。
「……多分同じところだと思うよ」
加賀谷はにっこり微笑んで少しだけ歩く速度を緩める。
氷川は加賀谷の横へ並んで歩こうと、少しだけ歩く速度を速めた。
並んだ影が夕闇に紛れて溶けていく。辺りが薄暗くなった頃、ふたりは目指した場所へと到着した。
「やっぱり、ここ、でしょ?」
「当たり。んー、やっぱりまだ枝が目立つな」
そこは学校の中庭。
ふたりは二度目に出会った時の
ところどころかろうじて小さな葉がつく、ほとんど枝だけの
それでも、ふたりにとっては大切な場所だった。
懐かしむように穏やかな眼差しで
「ねえ悠一、もう一回聴いてくれる? 僕の歌」
「ああ! 勿論! だって俺、加賀谷の歌う姿に一目惚れしたもんな! 何時も何度でも聴きたいと、聴いていたいと思ってるし、願ってる」
その言葉を聞いてにっこり微笑むと、その
加賀谷はありったけの愛を込めて氷川に向けて歌った。
氷川は真っすぐに加賀谷を見つめ、その想いを全て余すことなく受け止める。
夕暮れの中、あたりの空気を震わせ、深い余韻を残し加賀谷の歌が終わる。
「……悠一、聴いてくれてありがとう」
「俺の方が礼を言わなくちゃ。俺の為にありがとう」
加賀谷は照れて下を向く氷川の肩を両手で掴んだ。
ふいに目の前に加賀谷に立たれて顔を上げると、そこには今まで見せたことのない顔で加賀谷が氷川を見つめていた。
「悠一……僕……」
加賀谷の目が潤んでいる。
「……そんな泣きそうな顔、するなよ。俺ずっと待ってるから」
「……うん。この
氷川は今にも泣きそうな顔をしている加賀谷の頭を抱えるように抱き寄せた。
「今夜、加賀谷の部屋へ行ってもいいよな?」
「うん……悠一がいいのなら……」
見つめ合い自然とふたりの唇が重なり合う。
辺りはもう、日が落ちてオレンジ色の空のスクリーンに黒い街並みのシルエットが浮かび上がる。ふたりのいる中庭には数本有るガス灯に明かりが灯り始めた。
時の流れがそこだけ止まった、そんなひと時。そっと唇を離すと、ふたりは気持ちを確かめ合うように頷きあい、歩き出した。
「悠一…ホントにいいの?」
「ぷぷっ……今更何言ってんだよ?」
テーブルの上に有るランプの明かりがやわらかく部屋に広がる。その淡い光に照らし出されてシーツのひだに影が出来る。
小さなベッドの上で、生まれたままの姿でふたりは腰掛けていた。肩を寄せると氷川が加賀谷の肩へ頭をもたれかけてそっと呟いた。
「何も無いまま加賀谷と離れ離れになる方が俺はヤダな」
「悠一……」
そっと頬へ手をやる。改めて加賀谷は氷川の目を見つめた。
そこには真っすぐで迷いの無い、ずっと変わらないままの氷川の眼差しがあった。
その瞳に答えるように加賀谷も素直に氷川を見つめた。
「うん……僕も離れたくない……」
「何言ってんだよ、加賀谷の夢が叶うんだろ!? 応援してるから頑張ってこいよ」
「ありがとう……」
もう片方の手を頬へ添えて自分の方へと引き寄せるとやさしくくちづける。
自然と氷川の腕が加賀谷の背中へとまわされる。次第にどちらとも無く深くなっていくそれは、互いの身体の奥に火を点けた。
「……んっ……うぅ……」
重なり合うくちびるからはどちらのものともつかない唾液が零れ、氷川の喉を伝う。それに気付かない程ふたりは求め合っていった。
「はぁ……加賀谷……息が……」
思うように呼吸が出来ず、息が上がる。肩を上下させて息をする氷川を加賀谷はやさしく体重を掛け、押し倒した。濡れている喉元に唇が触れる。びくりと顎をそらして氷川が反応した。
「嫌だったら嫌だって言ってね……無理にしたくは無いから……」
加賀谷の唇が鎖骨から胸へと下りていく。固くなったその先にそっとくちづけた。
「……はっ! あっ……うぅ……」
思わず身体を強張らせる。時折零れる艶めいた声と吐息。声を上げぬよう堪えている氷川に加賀谷はやさしく囁いた。
「……もっと身体、楽にして……ちから抜いて……ね?」
その問いに目を閉じて頷く事で返す。加賀谷はやわらかく微笑むと右手を腰へと伸ばした。
「ひぁっ! ……んっ」
骨盤の辺りから太ももの内側へするりと手を滑らせる。下から撫で上げる様にして加賀谷は氷川の其れを確かめた。
「……感じてくれてる……?」
触れた其れは既に固く熱く加賀谷を求めている。焦らす様に触れる加賀谷の手に氷川はもう、我慢ならないと訴えるように声を上げた。
「んんっ……うっ……! 分かるだろ……」
加賀谷は右手で固くなっている其れを握り込むとゆっくりと扱き始めた。
「あぅ……はぁ……うぅ! んんっ……」
背を仰け反らせ、加賀谷の手で快楽を与えられるがままに、
まだ、呼吸も上がったまま、身体を投げ出している氷川の額にそっとくちづけると目を見つめた。
「なるべく痛くしないように注意するけど……痛かったり、嫌だったりしたらすぐに言ってね」
加賀谷はやさしく囁くように言うと、氷川の放った其れで濡れた指を後ろへと滑り込ませた。
「……っ! えっ!?」
締まったその部分の周りを円を描いて指を滑らせる。段々と核心の部分へと指先を這わせると、ゆっくりと侵入させた。
「あ!? んなとこ……んん、うっ!」
初めての異物感に氷川は反射的に腰を引いた。
「っ! ……やっぱり……やめよう」
首を振り慌てて否定する。
「んっ! 違う……ただ、ちょっと驚いた、だけ」
初めての事での不安。だがそれ以上に加賀谷を求める想いの方が強かった。
「加賀谷だから……大丈夫」
顔を紅潮させて熱い吐息を漏らす。身体のいたるところから汗を流し、所々小さく花が咲くように赤い痕の付いた白い肌がしっとりと濡れている。額には汗で黒く艶の有る髪が張り付いていた。
「……受け入れてくれてありがと……悠一」
加賀谷はこれ以上無いと言うくらい、やさしく指を動かし始めた。
――乱暴に扱ったら壊れてしまう……
大切に、守るように。それでいてこころの何処かでめちゃくちゃにして壊してしまいたい、そんな風に思う自分がいる事を加賀谷は不思議な気持ちで感じていた。
受け入れるべく入り口を丁寧に指でほぐす。其処は徐々に熱を帯び、やわらかく加賀谷を迎え入れるよう、花開く。
「痛くなかった?」
「んん、何かヘンな感じ……」
向かい合い、上から覆いかぶさるようにして氷川を見つめる。膝の裏を軽く掴むと加賀谷は確かめた。
「いいね……?」
加賀谷の熱い眼差しを見て氷川はひとつ頷く。
それを確認した加賀谷はそっと足を開かせると、ゆっくりと自分自身を氷川の入り口へと当てがった。触れた熱くて硬い其れは一瞬反射的に氷川の背を反らせた。
――来るっ!
加賀谷の腰がその体重を掛け氷川の中へと沈み込んでいく。ゆっくりと侵入してくる其れは指の比ではなかった。焼けるような熱い痛みを伴い、じりっと奥へ入り込んでくる。
「痛たっ!!」
「だ、大丈夫?」
思わず漏れた氷川の悲鳴にも似た叫びに加賀谷の腰の動きが止まる。
「いてててっ!」
「やっぱりやめようか……?」
心配そうに加賀谷が訊く。
「んんっ! つ、続けろよ……つつっ! ……いてて、足までつってきた……」
痛みの為に浅い呼吸を繰り返す。額には汗を
腰の動きを止めると加賀谷は埋まっていた自身をそっと引き抜き、くるりと氷川をうつ伏せに寝かせた。
「急に何だよ!? あっ……!」
腰を持ち上げ引き寄せる。改めて後ろから繋がった加賀谷は右手で氷川自身を握り込んだ。
痛みと快楽の境を
その手の動きとは対照的にゆっくりと腰を繰り出す。その瞬間、急に氷川が背を仰け反らせた。
「……はっ!? 何、今の感じ……あっ! ああっ!?」
繰り出す腰の動きと同時に声を上げる。今までの苦痛で上げる声とは明らかに違うそれは、氷川が今まで感じた事の無い、鼻に抜けるような、くすぐったいような、不思議な感覚によるものだった。
「そっか、悠一、ここが感じるんだね……」
加賀谷はやさしく微笑むと、まるで無数の花が散りばめられたかのように背中に幾つもくちづけて赤い痕を散らす。
握りこんだ右手はそのままに、左手を氷川の腰に添えると、反応した角度を重点に強く腰を繰り出した。
「……え!? 感じるって……ひゃあっ!? ああっん!」
氷川の好いところを突いていく。
次第にはっきりと脳天へ突き上げて来る快感に、氷川は無意識のうちに加賀谷自身を締め付けた。加賀谷に扱かれている其れもみるみる固く体積を増していった。
「くっ……! 気持ちいい……?」
加賀谷の問いにただ首を振って頷く。緩急をつけ不規則に繰り出すその動きに氷川は何時しか痛みを忘れ、その与えられる快感にのみ呑まれていった。
身体の奥に点いた火はふたりを熱に犯していく。
氷川は生まれて初めて加賀谷の奉仕で生み出されたあの時の熱に再び焦がされる。
加賀谷はその湧き上がる熱に突き動かされるように氷川を求め続ける。
外は春特有の穏やかな暖かさが漂っていた。
冴えた月明かりが緩やかな空気を刺すように路面を照らす。
部屋の中はふたりの激しいまでの営みが、熱を帯びてより一層燃え上がる。
後から後から止め処なく湧き上がる熱で、ふたりの身体は溶けてひとつになろうとしていた。
「はぁっ……んんっ……かが、やっ…」
ふるふると細かく震える身体が、限界が近いことを訴える。
「……う、うん……イっても、いいよ……僕も、すぐに……」
その囁きが
その熱がふたりの間に放たれて、後を追うように加賀谷も尽きる。
ふたりだけの世界への階段を上り詰め、楽園へと辿り着く。この世にふたりだけしか存在しないその瞬間。
ほんの暫くの意識の開放の後、加賀谷は遠のいたそれを引き戻し、そっとふたりの繋がりを解くと向かい合うように横になった。
目の前でまだ浅い呼吸を繰り返している氷川の、汗で額に張り付いた髪を指で軽く
「……悠一、愛してる」
ふと、汗とも涙ともつかないものが赤く染めた頬を伝う。
加賀谷は氷川の頬のそれを添えた手の親指で軽く拭った。
濡れて潤んだ黒い瞳を加賀谷に向け、氷川はそれに答えた。
「……俺も……愛してるよ」
軽く氷川を抱き寄せると額を合わせて加賀谷が呟いた。
「……なんだか、ますます離れられなくなっちゃった……」
「また、そんな事言って。……俺だって同じなんだから、我慢しろよ」
ふと顔を見合わせ、微笑む。
「悠一も……寂しい?」
「……そりゃ……正直なところ、ついていきたいくらいだけど」
ふと目を逸らして呟く。
少しだけ寂しげな眼差しを見せると、視線を上げてじっと加賀谷を見つめた。
「でも、大丈夫。心配なんてご無用。俺の気持ちは変わらないから……ただ、加賀谷に愛想尽かされないよう、俺も頑張る」
加賀谷の目が僅かに潤む。熱い想いが眼差しから零れたかのように氷川をじっと見つめ返す。
「……僕はずっと悠一を、悠一だけを愛する……愛想尽かすなんてあり得ないから……」
加賀谷はきつく氷川を抱きしめると肩に顔を埋めて
「今夜だけは僕の
氷川の返事を待たずに加賀谷は、その赤く濡れたくちびるを自分のくちびるで塞ぐ。
くちびるが、手が、身体が、そしてこころが、その互いをひとつに溶け合わさろうと再び求め、与え合う。
ふたりはこころと身体の両方に互いを深く刻み込んだ。
晴れ渡った夜空に浮かぶ、明るい満月。
春の穏やかな空気の中、凛とした透明な光が窓から差し込む。
何時の日も、空に浮かぶ月だけが、そっと遠くからふたりを見守っていた。
加賀谷の部屋でともに一夜を過ごしたあくる日の朝、氷川は加賀谷を見送ろうと共だって歩いていた。
外洋船が出る横浜港まで前日のうちに着いておかないと大変だからと大倉に聞かされていたので一日前の今日から加賀谷は旅立つ事となっていたのだった。
大きな桜の木が歩道に沿って何本か並んでいる。日当たりが良いのかもう満開を過ぎたあたりで、淡い色の花びらがはらはらと緩やかな風に吹かれて舞い降りていた。
「悠一、もうこの辺で良いよ。……真野さんとこにも寄らなきゃいけないし」
ほんの少し先を歩いていた加賀谷がふと立ち止まる。
振り返ると手にしていたトランクを下ろして氷川の前に立ち、両手を取って話し出した。
「僕、前に悠一に言ったよね? 歌う事が生きてる証だって」
「うん……」
「今なら言える。僕は悠一と出会うために歌ってたんだ、きっとそうだよ」
「……じゃ俺と出逢うために生きていた……って事?」
「……そう」
加賀谷は深く頷くと穏やかに微笑んだ。
ふと氷川は思い出したように呟いた。
「俺は……加賀谷を探してた、ずっと探してた。加賀谷が歌ってくれてたから、見つけられた、出逢えたんだ!」
改めて加賀谷の手を両手で包み込むように握り返す。
僅かに見上げる氷川の眼差しが加賀谷の瞳を捉える。
「悠一、ありがとう、僕を見つけてくれて」
「いや、加賀谷の方こそ……生きててくれて、歌ってくれてありがとう」
加賀谷はやさしく氷川の肩へ腕を回し抱き寄せる。
加賀谷の背中へ腕を回した氷川はきつくしがみつく様に抱きしめた。
それに答えるように加賀谷の腕にも力が入る。
さぁっと風に吹かれ花びらが舞い上がった。抱き締め合ったまま耳元で囁くように告げる。
「……悠一、行って来る」
「ああ、頑張って来いよ……加賀谷の声なら何処でも通用するから、俺が保障する!」
「うん……悠一……」
「何?」
少しだけ身体を離し、顔を見つめた。
「愛してる、何時も何時も想っているから」
「俺も何時も想ってる。愛してる、誰よりも」
それを聞いて加賀谷がやわらかくやさしく微笑む。真野が見ていないのが残念なほど穏やかで幸せに満ち
桜の淡い花びらが風に
それをこころの底から見守る。
加賀谷を信じ、己を信じ。
氷川は加賀谷の後ろ姿を再び逢うその日まで、目に焼き付けておこうと息を止めて見つめていた。
次第に遠ざかるその背中。
それが加賀谷と言葉を交わした最後になるとは、この時の氷川には知る術も無かった。
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