Chapter 7.
木枯らしが吹く中、加賀谷は何時も通りに店へと足早に歩いていた。
歩道に連なる鈴懸けの木々はその風にさらされ、震えている。
石畳を歩く加賀谷とすれ違うように、凧を手にした子供たちがはしゃいで行く。
あれから三週間が経った。年も越え一月も半ば。
加賀谷はひとり『Clouds and wind (クラウドアンドウィンド)』で働き続けていた。
あれ以来、氷川は一度も顔を出していない。
加賀谷のこころの中も外と同様に、冷たい風が吹いていた。
――それにしたって…連絡のひとつくらいよこしてくれたっていいじゃないか……
それは昨日の事。
「加賀谷くーん? どしたの? 物思いにふけっちっゃてさぁ?」
ふとテーブルを拭く手を止めて、窓の外を見ていた加賀谷に千葉が声を掛けた。
「え? 今何か言いましたか?」
振り返り、真面目に千葉に問いかける。
カウンターでコーヒーを飲んでいた千葉は、とぼける加賀谷の有様にぷっと吹き出して、からかうように言った。
「こりゃ重症だぁーー……ぶぶっ」
顔を背け、口を手で覆いながら笑いを堪える。
「何なんです?」
千葉のその態度に思わずむっとする。その加賀谷の怪訝そうな顔を無視して千葉はおかしいと言わんばかりに続けた。
「だってさぁ、最近加賀谷くん、ヘンよ? 仕事中にため息、何回ついてると思う?」
「えっ……?」
思いもよらない質問に加賀谷はドキッとした。
「今日なんかまだお昼過ぎなのに六回よ、六回! もう、こころここに有らずって感じ」
ニヤっと笑うと千葉は、じっと加賀谷の顔を見た。
「……一体誰の事、考えてるの?」
「だ、誰って!?」
加賀谷の
手に取るように、細部まではっきり浮かんだ氷川の笑顔に、加賀谷は思わず戸惑ってしまった。
そんな加賀谷を見てニヤニヤしながら千葉はすぐ傍まで歩み寄り、耳元で
「好きな人、いるんでしょ? どんなコよ、教えてよ!」
くいくいっと肘で突付いて戸惑う加賀谷をからかう。
「す、好きな人!?」
――えっ!? 僕、彼の事が好きなのか!?
思わず胸の中で叫んだ。
「そうよ、今の加賀谷くん、まさしく『恋煩い』! 片思いなんでしょ? そうなんでしょぉ?」
さも嬉しそうに加賀谷に
「そ、そんな人いませんっ!! そんな事より千葉さんこそ、仕事、さぼってませんか!?」
顔を赤くして否定する加賀谷にますますニヤニヤして千葉がにじり寄ろうとした時、ふと後ろから声がした。
「何時まで一休みしてるんだ、千葉くん。仕事はどうした? ピアノはどこにあるんだろうな?」
「ひぃっ!? マ、マスター!? す、すみません……」
さっきまでの浮かれ気分はどこへやら、すごすごとピアノの前に戻って大人しく鍵盤を叩き始めた。
それを見届けた真野は、さり気なく加賀谷に耳打ちした。
「氷川くんなら心配しなくても大丈夫だよ、ああ見えても結構しっかりしてるから、な」
ふふんと鼻で笑うとカウンターの中へと戻っていった。
「ま、真野さんっ! 僕、彼の事なんて……!」
加賀谷は慌ててカウンターへ歩み寄り、両手をついて身を乗り出して否定した。
「なあ、吉彦、少しは素直になったらどうだ? んー? 嫌いじゃないだろう、氷川くんの事」
カウンター越しににっこり笑って訊ねる。
「な、何で僕が悠一の事を……彼、男だし、そ、そんなんじゃないです!」
必死で否定するが顔は正直。真っ赤なまま取り繕う加賀谷の姿に真野は少し意地悪そうに問いかけた。
「あれ? 何時の間に『悠一』なんて下の名で呼ぶようになったんだ?」
「あっ……!? えと、その……」
口ごもる加賀谷を見てにっこり笑った真野は、満足そうにコーヒー豆を挽き始めた。
加賀谷はというとその場で固まったまま、俯いている。
――だって彼ときたら……気が付くといつも僕のそばにいて……そんなだったから、いないと急に、その……
暫く
千葉に話しかけられて中途半端だったテーブルの上を改めて拭きなおす。
――悠一、本当に大丈夫かな……
ふと、頬にあたる冷たい風が、こころの中にまで入ってきたような気がして加賀谷は首をすくめた。
「おはようございます……」
加賀谷がいつものように裏口から店に入ると、今日は何時にも増して騒がしい。
千葉の声が店内にけたたましく響き渡っていた。
従業員控室でエプロンをつけると加賀谷は店内へと急ぐ。そこにはカメラをもった千葉が自慢げに説明をしていた。
「あ、加賀谷くん、おはよーさん! これで全員そろったねぇ! さぁ、記念撮影だ!」
「いきなり記念撮影ってなんですか……」
真野がそっとフォローを入れた。
「お、吉彦おはよう。あ、あれか……新しいもの好きなんだよ千葉のやつ。なんでも知人が持っていたのが羨ましくて羨ましくて、拝み倒して譲って貰ったらしいんだ」
大きな作りのそれは三脚で固定しないと撮影できない、とても扱いにくいもので、フラッシュもマグネシウムを載せた箱のようなものを使用する、それは大袈裟なものだった。
「写真屋でも始める気ですか」
加賀谷がぼそっともらすと千葉は自慢げに話し出した。
「いやいや! 是非、みんなを撮ってあげたいと思ってねー! ……遠慮しないで、ホラ!」
袖を引っ張る千葉を他所に加賀谷はふとピアノの前に誰かが座っているのに気が付いた。
「あっ…!! 悠一!」
声を掛けられて顔を上げる。そこには確かに氷川が座っていた。
「あ、加賀谷、おはよ」
氷川が加賀谷へいつもの変わらない笑顔で笑いかける。
その久しぶりに見た氷川の笑顔が酷く眩しくて加賀谷は一瞬目を伏せた。
どうしようもないほど胸が高鳴ってくる。加賀谷は視線をあげ、氷川の顔を見た。
「ごめん、連絡いれなくて……あ、でも俺、全然、元気だったから!」
「悠一……」
その笑顔につられるようにして加賀谷も笑顔になる。次の瞬間、はっとして顔を手で覆ってしまった。
――何笑ってるんだよ、僕!
つられて緩んだ顔を敢えて引き締めると、自分自身を落ち着かせるように氷川に訊ねた。
「……君のお父さんの事、新聞で読んだよ。大変だったんじゃ……」
「あ……ありがとう、心配してくれて。ん、たいした事無かったんだけど、親父の身体の具合よりも、仕事の事でちょっと色々有って……」
照れるようにして頭を掻きながらやさしく微笑む。氷川のやさしい眼差しは真っ直ぐに加賀谷を捉えている。
何時からその真っ直ぐな瞳に目を離せなくなっていたのか。
氷川の変わる事のない、加賀谷への想い。
その笑顔に胸が高鳴るのを止められず、加賀谷は思わず視線を逸らした。
――まさか……こんなに好きになっていたなんて……!?
こころの中で何かが溶けていくように、硬い殻を破り何かが生まれるように、曇り空から一筋の光が射す様に。
加賀谷の中で生まれたその感情は、ようやく自覚を伴ってこころの中で花開いた。
「でも……連絡ひとつよこさないで! 病気でもしてるのかと思ったよ!」
素直に気持ちを認めた加賀谷は、急に気恥ずかしくなったのを誤魔化すように強い口調で言った。
「本当にごめん……。これなくてごめん。加賀谷の助けになりたいって俺、一方的にアルバイトの手伝いさせてもらってたのに、これなくなって……。しかも、ずっと連絡もなしに……ほんとにごめん」
氷川は椅子から立ち上がって深く頭を下げる。
――え、そんなにきつく言ったつもりは無かったのに……
「あ……ごめん、そんな責めるつもりは……」
加賀谷が謝りかけた時、ふいに千葉が飛び込んできた。
「ホラホラホラ、何やってんのぉ? そんな隅っこでー! さあさあ、並んで、並んで!」
何時もの口調で千葉がまくし立てる。ふっとその場の空気が軽くなる。
このときばかりは千葉に感謝した加賀谷だった。
「ん、行こうか?」
「あ……うん」
やさしく氷川が誘う。
加賀谷はにっこり笑うと、氷川と並んでカメラの前へ立った。
今日もいつも通り、何事もなく閉店の時間が来た。
「お疲れ!」
千葉が加賀谷の後ろから声を掛けた。
「あ、お疲れ様でした」
振り向くと嬉しくて仕方がないという顔をした千葉が立っている。
「今日の写真は暫くしたら、現像して持ってくるから楽しみに待っててねー♪」
言うだけ言って上機嫌で加賀谷の肩を叩いて店のドアを勢いよく開け、けたたましくドアベルを鳴らして出て行った。
「いい記念になったな」
帰り支度をしていた真野は加賀谷に笑いかけて続けた。
「暫く日本から離れるお前さんにとっちゃ、あっちで暮らすのに、いいお守りが出来たよな」
「……ええ、そうかも知れませんね」
加賀谷が嬉しそうにくすっと笑う。
「……俺と加賀谷、その後ろに真野さんの三人しか映ってないのに?」
氷川が不思議そうに訊くと真野は嬉しそうに言った。
「……俺、邪魔だったかな?」
一瞬頬を赤くした加賀谷を真野は見逃さなかった。
「……真野さんには敵いませんよ」
加賀谷は諦めたような苦笑いをした。
「おお!! そうか、加賀谷! やっと……」
真野はうんうんと大きく頷くと、氷川の傍まで歩み寄り背中を思いっきりばんばんと叩いた。
「きゅ、急になんなんですか!? 痛いじゃないですか……」
叩かれた痛みで顔をしかめる。
「いやぁ良かった、良かった!! 今日はいい日になった!!」
真野はひとり、嬉しそうに笑って氷川の問いには答えようとはしなかった。
氷川は納得がいかなかったが、諦めてコートを羽織り、帰り支度を整えた。
「それじゃ、失礼します」
加賀谷が店を出ると後を追うようにして氷川が慌てて出てきた。
「加賀谷、待って! 俺、話があるんだ」
外は良く晴れていて、空には無数の星が瞬いている。寒さで冴え渡る空気が、より一層遠くの星々まできらきらと輝かせている。今にも空から星が降りそうな、澄み渡る寒さの夜だった。
振り向いた加賀谷はふと一瞬考えて、言葉を選ぶようにゆっくり言った。
「外じゃ何だし……。僕の部屋まで来る?」
「加賀谷の部屋……!」
氷川の脳裏に最後に会った時の失態が蘇る。
「……やっぱりいやかな?」
加賀谷が苦笑いをして訊きかえした。
「いや、そうじゃなくて……。行ってもいいのかな?」
戸惑う氷川に一瞬だけ加賀谷が真剣な目を向けた。
「……僕も大事な話があるんだよ」
ふっと笑うと加賀谷はそれじゃ行こうか、と氷川の半歩前を歩き出した。
黙って歩く、ほんの数分。
氷川は加賀谷に伝える言葉を、加賀谷は氷川に告げる言葉を、お互いに胸の中であたためながら歩いていた。
ほどなくして加賀谷の部屋につく。
「どうぞ入って。今すぐにストーブつけるから」
二度目のその部屋は前に来た時と何一つ変わっていない。加賀谷はストーブに火を点けるとやかんをかけた。
和箪笥の上の蝿帳からコーヒーミルと豆を持ってきて、目の前のテーブルに置き豆を挽き始める。
「あ……すぐに済むからいいよ」
遠慮して突っ立ったままの氷川をみて加賀谷はにっこり微笑んだ。
「遠慮しなくてもいいよ、これ店のお古だし、豆も分けて貰ってるし」
兎に角上がってよ、と加賀谷は氷川を促した。
氷川はコートを脱ぐと軽く椅子に掛け、遠慮がちにストーブのそばへ近寄り手をかざして暖を取った。
そのそばで加賀谷はカップにフィルターをセットする。その当時日本では珍しいろ紙を使ったフィルターだった。
「手馴れてるみたいだけど……真野さんに教わったの?」
氷川の問いに笑顔で答える。
フィルターに挽きたてのコーヒーの粉を入れ、湯を注ぐと挽いた豆の香ばしい香りがあたりに広がり始めた。
手際よくコーヒーを淹れると加賀谷は氷川にカップを差し出した。
「……何時まで突っ立ってるの? 座ってよ」
その一連の手馴れた動作に見惚れていた氷川は慌てて椅子に腰掛けた。
それを見届けて加賀谷もテーブルを挟んで向かい合うようにして腰掛ける。
氷川はカップを両手で包み込むようにして持ち、手元に視線を落として、ぽつりぽつりと話し出した。
「俺、今日までバイトに来れなかったの、実は親父の仕事の手伝いしてたんだ。本当は親父の仕事なんてこれっぽっちも興味無かったんだけど……」
ふと顔を上げて加賀谷の顔をじっと見つめる。
「自分の将来の事、親父の仕事の事、親父が倒れて改めて考えさせられて……俺、 親父の後を継ごうと思うんだ、あ、今すぐとかじゃなくて、そのうち……なんだけど、今は補佐って形で勉強したいなって思って……」
両手でカップを持ったまま、ひとくちコーヒーを含むと目を伏せて話を続けた。
「こんな風に思うようになったのも、いや、思えるようになったのも、あの店で働いたから。 加賀谷と一緒に働いて、俺、色んな大切な事学んだし、忘れてた事も思い出したし。加賀谷がいたから、俺……」
「悠一……?」
俯いて言葉を探している氷川に、切羽詰ったような緊張した空気を感じた加賀谷は少し不安になって声を掛けた。
「どうしたの……? どこか……」
ふっと顔を上げて真剣な眼差しで見つめる。
加賀谷はその眼差しにはっとして言葉を呑んだ。
「ずっと加賀谷に会えなかった事、正直言えば寂しかったし……凄く凄く会いたかった。こうして暫く会えなくて、改めて感じたんだ。俺、凄く加賀谷の事が好きだ。嫌われててもいい。振り向いてくれなくてもいい。こんな風に傍に居させてさえ、くれれば……。その加賀谷の歌う声を、こうやって傍で聴いていられるだけで……俺は生きていける。加賀谷の事想ってどんな事でも、乗り越えられる。俺は俺を、この想いを信じられるから……」
「悠一!」
がたんとテーブルに両手を付いて立ち上がる。そんな加賀谷を見ずに俯きながら続けた。
「ただ、俺の想いを知ってて欲しい。好きだ、加賀谷……ずっと」
――悠一! 君って人は……!
加賀谷はそのまま氷川の横まで歩み寄った。
「……? 加賀谷?」
氷川が顔を見上げる。
椅子に座ったまま身体を加賀谷の方へ向けると、加賀谷は氷川の両手をカップからそっと取り、軽く両手を繋いだまますっと
下から氷川の顔を覗き込むようにして見上げると、やさしく微笑んだ。
「悠一、今まで冷たくあたってごめん。僕、悠一に惹かれて行くのが怖かったんだ。……正直に言うよ、僕も悠一が好きだよ」
「え……!? 今何て!?」
目の前での加賀谷の言葉を飲み込めず、ひたすら戸惑う。
そんな氷川を見て加賀谷は両手を取りながら立ち上がった。つられて氷川も立ち上がる。
向かい合って加賀谷は右手を氷川の頬へと伸ばした。
「悠一、好きだよ」
加賀谷は自分が映っている氷川の目をじっと見つめる。
次第に事を把握し始めた氷川は驚きと喜びと戸惑いの入り混じった瞳で加賀谷を見つめ返した。
「……本当に? いいの? 俺の想い……報われた……わけ?」
頬に添えられた加賀谷の手を上から恐る恐る握る。
加賀谷はにっこり微笑むともう片方の左手も頬へ添えて、氷川の顔を自分の方へ引き寄せた。
「……え?」
くちびるにやわらかい感触が伝わる。
くちづけられたと気付いた時にはもう、加賀谷の顔は離れていて、やさしく微笑んでいた。
「加賀谷……」
名を呼んだとたん、目の前の視界が遮られる。
身体をぎゅっと締め付けられた、と思ったら抱きしめられていた。
「悠一……」
耳元でやさしい声が聴こえる。
その抱きしめられた腕の強さと、腕の中のぬくもりの心地よさで氷川は 暫く加賀谷に抱きしめられるがまま身体を預けた。いつしか加賀谷の背中へと自分の腕を回す。
ふたりはお互いの存在を確かめ合うかのように固くきつく抱きしめあった。
「うふふ……」
ふと加賀谷の笑う声が耳元をくすぐった。
「何だよ、急に」
身体を離すと氷川は不思議そうに訊いた。
「だって……僕が悠一に落とされたんだと思うと……悠一の粘り勝ちかな、なんて思ったりしたら、何となく
その言葉を聞いた氷川は下を向いて微笑んだ。
「……落とされたのは俺の方。初めて逢ったときから加賀谷の事で俺の中はいっぱいだったよ。俺、本気で加賀谷の事、好きだから」
俯く氷川をやさしい眼差しで見つめる。
「僕も本気だよ、悠一の事、離さないから」
ふと改めて初めて出逢った夜の事を思い出す。今となっては懐かしささえ感じるが、ほんの数ヶ月前の事。
「……あの時はこんな風になるなんて思いもしなかったよね?」
加賀谷が微笑んだ。
「……そりゃ……そうだよ、な?」
ふふっと鼻で笑う。氷川は顔を上げて加賀谷の目を見つめた。
「あの時……俺を拒絶せず、ずっとそばにいさせてくれて……ありがとう」
「ううん……僕の方こそ、ずっと僕の歌を聴いててくれて……ありがとう」
互いに見つめう。その目が互いに互いを映し出す。
ほんのしばらく微笑みあった後、自然とふたりの唇が重なりあった。
外はまだ木枯らしが吹く真冬。
空には無数の星々が瞬く、澄み切った空気の夜。
ようやくふたりの気持ちがひとつになって、部屋いっぱいにやさしさとあたたかさが溢れ出た、そんな冬の夜だった。
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