Chapter 6.








「おはようございます……」


 あくる朝、加賀谷は店内に入るとまず、氷川の姿を目で探した。


――昨日は起こさないであのまま別れたけど大丈夫だったのかな。風邪とかひいてなければいいんだけど……


 いつもは先に来ている筈の氷川の姿が今日はまだ見当たらない。

 少し心配になった加賀谷はそれとなく真野に訊いた。


「あの……今日は氷川くん、まだ来てないみたいですけど……」


「ああ、多分来れないと思うよ、なにせ……」


 真野が全てを話し終える前に遮るようにカウンターの一番ピアノ寄りに座っていた千葉が大きな声を出した。


「貿易会社の社長、倒れる、だって! へぇー……」


 千葉の手には朝刊が広げられている。


「んー? 何々、日本屈指の『氷川世界貿易』の社長、昨日未明倒れる。業務にはその妻が代理社長として勤める事となった為、運営などには特に影響が無いものと思われる……ふーん、凄いなぁ……」


 千葉が何気なく読んだその記事に、加賀谷は驚いて新聞を取り上げた。


「ちょっと貸して下さいっ!」


「おおーい、何するのォ? 全く……」


 新聞を取られて手持ち無沙汰になった千葉は呑気にコーヒーをすする。

 真剣に新聞に目を通す加賀谷を他所に、千葉はコーヒーカップを手にしたままふと思い出したように大きな声で呟いた。


「そう言えば……もうひとりのアルバイトくん、確か『氷川』くんって言ったよね? えらい違いだよなぁ、かたや財閥、かたや小さい店のアルバイト!」


「……小さい店で悪かったな」


 いつの間にか横に立っていた真野がぼそりと呟いた。


「んぐっ! ごほっ、ごほっ! き、聞いてたのォ……失礼しました」


 飲んでいたコーヒーが気管に入ったらしく大きくむせる。

 何とか呼吸を整えて、一息つく千葉に真野が呆れるように続けた。


「お前さん、もうひとつ失礼だぞ」


「はい?」


「アルバイトの氷川くん、その『氷川世界貿易』の御曹司」


「はいぃー!?」


 何を言っているのか分からないと千葉は目を白黒させた。


「何でそんな財閥の御曹司がこんなボロい店のアルバイトをー!?」


 信じられないと、素っ頓狂な声を上げる。真野はじろりと千葉を見ると低い声で脅かすように言った。


「ボロい店だって? ……そんなに仕事辞めたいのか?」


 押し殺したような低いその声の迫力に、千葉は冷や汗を流し固まった。ぶるぶると頭を振り慌てて否定する。


「め、め、滅相も無い! ワタクシが生活出来るのも全てマスターのお陰で御座いますぅ」


「お前さん、人から『口は災いの元』って言われた事無いか?」


 揉み手をしながら繕うように、ふにゃっとした笑顔を向けて、仰るとおりです、と頭を下げた。

 そんなやり取りを他所に加賀谷は、新聞に目を通してひとつ大きなため息をついた。


――悠一、大丈夫かな……


 加賀谷の大きなため息に気づき真野が加賀谷のそばへと歩み寄る。加賀谷の横に立つと肩をぽんとひとつ叩いて耳打ちをした。


「気になるのか、氷川くんの事」


――え!? どうして……!?


 急に氷川の事を聞かれ、胸がドキドキしだす。加賀谷は見透かされたのかと思い、返事に戸惑った。


――下手に否定すると返って変に思われるかも……


 いたって冷静を装って答えた。


「……まあ、同じバイト仲間ですし……。それだけです」


 真野は顎に手をやりながらニヤリと笑った。


「……本当にそれだけか?」


「……っ!」


 言葉に詰まりかぁっと頭に血が上る。

 加賀谷は顔を赤くして、むきになった。


「……それだけです!」


 真野に言い放つと、手にしていた新聞を千葉へ突き返しくるりと背をむけ、掃除道具のあるロッカーへ真っ直ぐに向かう。その後姿にあっけにとられた千葉は思わず呟いた。


「他に何があるんだ……?」


「色々あるんだよ、色々、とな」


 首を捻る千葉を他所に、真野はにやにやしながらカウンターへと戻る。

 掃除道具のモップを手にしたものの、加賀谷はふとその場で考え込んでいた。


――悠一、今頃、どうしているんだろう……


 ふいに窓が木枯らしでがたがたと音を立てる。

 その音にはっと我に返ると、加賀谷は掃除を始めるべくロッカーの前を離れた。


















「じゃ、親父、大事にして、無理するなよ」


 氷川は付き添いの看護婦に会釈をすると皆川と一緒に部屋を出た。


「……昨日はほんとに驚いたよ」


 父親を見舞って寝室から出てきた廊下で氷川は皆川にこぼした。


「響、大袈裟なんだよ……ったく」


 ふうっとため息をひとつつくと、まいったな、と言わんばかりに頭を掻く。氷川がぶつぶつ言いながら歩く後ろを皆川は追いかけて言った。


「お、大袈裟だなんて……。本当に昨日は大変だったんですよ!」


 まとわりついて皆川が食って掛かる。氷川はさも鬱陶うっとうしそうに手をひらひらと振った。


「ああー、はいはい」


 そんな氷川を見て皆川はふと立ち止まり、俯いてぼやき始めた。


「ご主人様が倒られて、奥様が俺の親父と……じゃない、執事と重役とで暫く会社を切り盛りするって話を聞いて、これは悠一様にもご自分の将来の事を少しはお考えになった方が良いのでは、と思っただけなのですが……」


 氷川がふと立ち止まる。一度天井を仰いで何かを考えていたが、すぐに振り返ると笑顔で答えた。


「ああ、分かってるさ、前から考えていた事だから……」


「え?」


 皆川は大きな目をより見開かせて聞き返したが、氷川はすぐにきびすを返した。

 何かを決心したかのようにその眼差しは真っ直ぐに前を見詰めていた。



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