Chapter 5.









 氷川が小雪のちらつく中、店の軒下で待っている頃、加賀谷は大倉と会っていた。



「……くん、加賀谷くん、どうかしたのかい?」


 名を呼ばれはっと我に返る。


「いえ、何でもありません、すみませんでした」


 そんな加賀谷を気にせずに大倉は続けた。


「この店のハヤシライス、評判なんだよ、どうだい?」



 この時代にはまだ目新しいメニューとして、ハヤシライスが名物の『咲良亭さくらてい』では今夜も沢山の客で賑わっていた。

 店は『Clouds and wind (クラウドアンドウィンド)』と大して変わらないほどの広さだが、目を見張るのは窓ガラスの装飾。窓の全てが大きなステンドグラスになっていた。教会などととは違い宗教画などはないが、それに劣らないほどの美しい花や鳥や蝶がデザインされている。壁から突き出す様に取り付けられている照明のシェイドも、各テーブルの上にあるランプのシェイドも全てステンドグラス。暖色系の赤やオレンジ、黄といった色が多く使われている所為か、とても温かみのある雰囲気の店内となっている。その店内に流れる曲は弦楽四重奏の調べ。穏やかであたたかな空間の漂う店だった。



「ええ、とても美味しいですよ……」


 加賀谷は考えていた。


――今頃、彼、どうしているだろう。何も言わずに出てきたけど。


 すぐに戻るつもりが大倉の勧めで夕食を共にする事になり、思っていた以上に時間が経ってしまった。

 加賀谷はもうすでに店の閉店時間を過ぎているのを気にしながら、ハヤシライスをスプーンですくっては口へと運んでいた。


「今日は急に呼び出したりして悪かったね」


 大倉は “気持ちここに有らず” といった感じの加賀谷に申し訳なさそうに言った。


「い、いえ、そんな事ないですよ! 近況報告してないのは僕の方ですし、お金ももうすぐ予定の金額に達するところですから」


 慌てて釈明する加賀谷に大倉は少し微笑んで座っている椅子の脇から、青い包装紙に包まれた小さな箱を取り出した。


「実は今夜、此処に来てもらったのは……確かに君の近況も知りたかったのも有るんだが……」


 大倉はその箱を加賀谷の前に差し出すと、少し力を込めた声で言った。


「……どうか、何も言わずに受け取って欲しい。……クリスマスプレゼントだよ」


 加賀谷は目を丸くして、焦るように慌てて答えた。


「そんな! 僕なんかに勿体無いです! 何時もお世話になりっぱなしなのに受け取れませんよ!」


 テーブルの上に差し出されたプレゼントを加賀谷は開こうともせず、すぐに大倉へ返そうとした。

 それを予期していたのか、大倉は加賀谷に落ち着いて、とりあえず開いて見てくれと促した。

 しぶしぶ加賀谷が包みを開くと中には懐中時計が入っていた。


「これは……」


 箱の中に柔らかな赤い布で包まれたそれは、白金で出来たかなり細工の細かいとても精巧な作りのもので、一目で高額なものだと分かった。

 それを見た加賀谷は、ますます受け取れないと断ろうとしたが、とにかく話を聞いて欲しいと大倉に促され、腑に落ちない顔をしながらも、大人しく従う事にした。


「これは私の母の形見でね。元々病気がちで身体が丈夫ではなかったのに、私を生んで自らの寿命を縮めてしまって……私の物心付いた頃には起き上がることも出来ずに寝たきりになっててね。そんな母は病床からいつも『時間を大切にしなさい。人には決められた時間しか与えられていないのだとしたら、その毎日毎日、二十四時間を大切にして生きていくのよ』と、そう言って時間の大切さを教えてくれた。この時計は亡くなる一週間前に母から直接渡されたものなんだ。時間を大切にする事を忘れないように、と」


 大倉は加賀谷の手を取り、その手に形見の懐中時計を握らせた。


「大倉さん……いいんですか? こんな大切なものを……」


 戸惑いつつ加賀谷は手の中にある懐中時計を見ながら大倉に訊ねた。

 大倉の加賀谷を見る眼差しがやさしく慈愛に満ちている。


「加賀谷くんに持っていてもらいたいんだよ。どうかこれからの君の時間、私にもとても大切な時間になると思うから。留学して沢山の事を学んで、身につけて、ひと周りもふた周りも大きくなって帰ってきて欲しい。どうか、留学という、限られた時間を大切にして、君のその才能をより素晴らしいものして欲しい」


――幾見さんの想いが詰まった懐中時計……


 加賀谷の胸が熱くなる。心底加賀谷の才能に惚れ込んでいる大倉のその強い想いに打たれた加賀谷は、大倉の想いを受け取るべく、真剣な眼差しで礼を言った。


「ありがとうございます。この時計に恥じないよう、向こうでも頑張ってきます」


 改めて時計に目をやる。細かい細工の施されたそれはずしりと手に重さを感じるものの、とてもしっくりと手に馴染む。本体の側面にある小さな突起を押すと、かぱっと蓋が開いた。時計の文字盤も蓋の外側に施されたのと変わらない、細かい細工が丁寧に施されている。そのローマ数字の文字盤は年代を経た品である事を物語っていた。


 その時計の素晴らしさに暫く見入っていた加賀谷に大倉は嬉しそうに呟いた。


「その蓋の内側、何も細工がして無いだろう?」


 言われて蓋の裏を見ると、他の部分には隙間が無いほど見事な彫刻や細工がしてあるのに 何故かそこだけは平らで、蓋の外周に向かって綺麗に弧を描いている。

 不思議そうに大倉の顔を見ると、嬉しそうに微笑みながら答えた。


「大切な人の写真を入れるといいよ。……好きな人はいないのかい?」


――好きな人……


 その問いかけに、ふと笑っている氷川の顔が浮かんだ。


――な、なんで彼の顔が出て来るんだよっ!?


 急に頬が熱くなる。胸がぎゅっと締め付けられたような気がして思わず黙り込んでしまった。

 そんな俯いて赤くなる加賀谷に大倉は問いかけた。


「……大切に思う人がいるんだね?」


「えっ!? い、いませんよ、そんな人! ……僕にとって一番大切なのは歌です、そうだ、僕のこの喉です!」


 加賀谷は慌てて否定した。

 大倉はやさしく微笑んでそれ以上は訊かなかった。


 その時ふいに鐘の音が響く。十一時を告げるものだった。


「もうそんな時間か。遅くなってしまったね、加賀谷くん。今夜は無理をさせてすまなかったね」


「い、いえ、僕の方こそ、こんな大切なものを頂いてしまって……ありがとうございました」


 加賀谷は立ち上がって深く頭を下げた。


「いや、私の方こそ、受け取ってもらえて嬉しかったよ。ありがとう」


 大倉は会計を済ませると店の近くまで車で送ると言って、加賀谷を表に待たせてあった車に乗せた。


「もう、店、閉まっちゃってるだろうな……」


 揺れる車の中で加賀谷は貰ったばかりの懐中時計を見ながら小さな声で呟いた。










「それでは今夜は本当にありがとうございました」


 加賀谷が車から顔を覗かせる大倉に頭を下げる。


「気を付けて帰るんだよ」


 大倉は軽く右手を挙げて加賀谷に挨拶した。それを見届けて運転手が車を出す。

 加賀谷はしばらく車が去っていくのを見送った。

 最後にもう一度深く頭を下げると、小雪がちらつく石畳の歩道を足早に歩きだす。


――何だか嫌な予感がする……


 訳も無く焦燥感に囚われた加賀谷は小走りになって店へと急いだ。


 店の入り口の明かりがぽつんと見える。

 その下に丸い影が見えた。


 近づいていくにつれて、それが人である事が分かった。


――まさか!?


 加賀谷の予感は的中した。無意識のうちに全力で走り出す。


「氷川くん!? い、何時から此処に!?」


 息を切らして両膝に手を付き、詰問する。

 ゆっくりと頭を上げて加賀谷を見るその目は力なく、寒さで引きつった笑顔を向けた。


「え? 店が閉まってからずっと……」


「かれこれ三時間近くも!? それにその格好はどうしたの!? 薄いマント一枚で! こんな冷え込む夜にコートも着ないで!」


 小雪が降る中暖も取らずにその場にうずくまっている。殆ど風は吹いていないものの、冷え込み具合は普段の冬の夜とは比べ物にもならない。

 吐く息は白く、自分の息で眼鏡を曇らせている。歯はがちがちと音を立てていて、寒さでじっとしていられず手をすり合わせている。吐く息をそのすり合わせる手にかけても何の効果もない。話す言葉さえも、震えてたどたどしいものだった。


「……朝着てきたコート、ヘマやって水掛けちまって……中に干してある。マントはたまたま置き忘れていたのを出してきて……」


 加賀谷は半ば呆れたように、怒りながら訊いた。


「どうして中にいなかったの!?」


「え……灯りが点いてたら店が開いてるかと勘違いされるかもと思って……かと言って暗闇で待ってたら加賀谷に気付いてもらえないんじゃ無いかと思って………」


 そう言うと氷川はゆっくりと立ち上がり、震える手で詰襟の右のポケットから店の鍵を取り出し、加賀谷へ手渡した。


「まさか、鍵を渡すだけの為にずっと待ってたの!?」


 冷たい鍵を握り締め、氷川の顔を見る。


「真野さん、明日の朝ちょっと遅れるから加賀谷に先に来てて欲しいって」


「鍵なんてそこの植木鉢の下へ置いて、書置き、ドアに貼り付けておけば良かったのに!」


「あ……そう言う手もあったか……」


 震えながら力なく笑う。


「でも……こうして加賀谷、戻って来てくれたじゃん。俺、待ってて良かった」


「何を言って……」


「戻って来て誰もいなかったら、寂しいだろう? だから俺、待ってた」


 加賀谷の顔を見て安心したのか、寒さの余り体力を消耗しきっていた氷川は、自分の身体を支えきれずその場へ崩れ落ちた。


「悠一!」


 身体を支えようと氷川を抱きとめる。


「……つっ!? こんなに冷え切って……!」


 その身体は服の上からでも解るくらいに冷え切っていた。


「あ、初めて悠一って呼び捨てにしてくれた……」


 加賀谷の顔を見上げながら、力ない笑顔で呟く。


「何言ってるの!? とにかく、僕の部屋へ!」


 加賀谷は着ていたコートを脱ぎ、ガタガタと震える氷川に羽織らせた。肩を抱えるようにして氷川の身体を支えながらすぐ近くにある自分のアパートまで連れて行った。








 Clouds and wind (クラウドアンドウィンド) から五分と経たないところにあるその部屋は、一階はパン屋で、欧州風の煉瓦造りの頑丈そうな店構えをしていた。その二階に加賀谷の借りている部屋が有った。パン屋の右側から二階に直接上がる外階段がある。煉瓦造りの壁と同じ煉瓦で出来ている階段を上ると木製の扉があった。


 加賀谷は詰襟の胸ポケットから真鍮で出来た古い鍵を取り出し、目の前の扉を開けた。扉を開けた中には短い廊下があり、左右の壁に扉がある。向かって左側の店の表側の方の部屋が寝室兼居間で反対側の部屋にはトイレと洗面所があった。


 中に入ると前の道路に面している正面の壁に大きな出窓が、右側の壁に小さな出窓があった。床はこの時代には珍しくフローリングで靴のまま入る。壁も木目がそのままの白木の板だった。左手の壁際にオイルランプが置かれた古びた机とそれと同じだけ年月を経たであろう椅子に、琥珀色のつやのある木製の古い本棚がたくさんの書物を詰めて置かれていた。部屋の中央には木製の小さな円テーブルと椅子が二脚。テーブルの上には小さなオイルランプが置いてある。その隣には鋳物製の達磨ストーブがあり、煙突を天井に這わせている。ストーブの前には敷物が敷いてあった。


 右手の小さな出窓には小さなランプがひとつ、その出窓の下には小さなベッドがあった。その横の壁際に飴色をした古い和箪笥が置かれている。和箪笥の上には盆の上に載った銅のやかんに、小さなコーヒーミルとマグカップが桐で出来た蝿帳に入っていた。


 必要最低限のものしか置いていない、殺風景な部屋だった。


「とりあえず、座って」


 加賀谷は氷川をベッドへ腰掛けさせると、テーブルの上のランプに火を灯した。部屋にあたたかい光が広がる。

 しかしそれは部屋全体を明るくするには全くと言っていいほど足りないものだった。次に加賀谷は部屋の真ん中にあるストーブへ火をくべるとその上に水の入った銅のやかんを乗せた。


「さ、こっちで暖まって」


 加賀谷は羽織らせていた自分のコートを脱がし、氷川の首からマフラーを外して冷え切ったマントをそっと脱がした。

 ストーブの前には毛足の短い絨毯が敷かれていて、そこへ氷川を座らせると後ろから毛布をかけてやった。


「ちょっといい?」


 前に回り込んで靴を脱がせる。


「ご、ごめん、加賀谷……」


 もとより白い顔をさらに蒼白くして、ガチガチと歯を鳴らしながら謝る。


「いいから。とにかく暖めないと……」


 火がくべられたばかりのストーブはなかなか暖まらない。暖を取れるまでの間にも氷川の身体はどんどん冷えていく。


――このままだと命に関わるかも……


 加賀谷はきゅっと唇を噛んだ。


――悠一を……死なせるわけにはいかない……!


 加賀谷は氷川が被っている毛布をそっと取り払った。

 冷たいままの毛布を自ら肩へ羽織ると、肩を震わせて小さくうずくまる氷川のその背中を、後ろから膝立ちでふわりとやさしく包み込こんだ。

 さらに隙間を埋めるように氷川の肩をぎゅっと抱きしめると、耳元でやさしく囁いた。


「暫くこうしていれば、すぐに部屋も暖かくなるから……」


「……うん」


 小さく頷く。


 加賀谷の腕の中で氷川は体重を加賀谷に預けながら、されるがままに与えられるぬくもりに心地よさを感じて目を閉じた。加賀谷も腕の中の氷川を、やさしく大切にあたためながら、その身体の重みに心地よさを感じて目を閉じた。


 外は音も無く降り続く雪で静まり返る。その僅かに積もり始めた雪で、薄いカーテンの向こうの窓は薄っすらと明るくなっていた。

 ふたりの鼓動がひとつに重なる。その音だけが聴こえる、静かな部屋の中。


……しゅん、しゅん、しゅん……


 ふとストーブの上のやかんが湯気を立て始める。静まり返った中、その湯気の音だけが静かに響いた。


「……!?」


 うとうとしていた加賀谷がはっとして身体を少し離すと、氷川は腕の中で気持ち良さそうに眠っていた。

 起こさないようにそっと上着を脱がせ、両腕で抱き上げてベッドへと横たわらせた。


「こんなになるまで僕の事を待っていたなんて……」


 改めて氷川の顔を見る。

 すうすうと寝息を立てるその顔は完全に無防備で。

 白い肌とそれに映える赤い唇。少しだけ開いてやさしい呼吸を繰り返している。

 黒くて艶のある短い髪は見た目よりずっと柔らかい。触れるとふわりと猫の背中を思わせた。

 抱き上げた時に感じたその骨格は、男性のそれとは程遠くとても柔らかで華奢きゃしゃだった。

 加賀谷の手が頬をやさしく撫でる。


「……悠一」


 思わず名を呟いた。氷川を見つめるその眼差しは今までに無くとてもあたたかなものだった。

 氷川が落ち着いたのを確かめると加賀谷はおもむろに上着を脱いでふと考え込んだ。


「えと……どうしよう。僕、何処で寝ようか……」


 殺風景な部屋には寝るために機能しそうなものは氷川の眠っている、そのベッドひとつのみ。

 加賀谷は考えあぐねてベッドの隣へ立った。


「……悠一、となり……いいよね?」


 加賀谷は起こさないよう細心の注意を払って、氷川の身体をベッドの奥へとずらそうとした。


「……ううん……」


 ベッドが軽く軋しむと、氷川は寝返りを打ち、加賀谷に背を向ける形になった。


「ごめん……」


 背中合わせになるように横になる。ふと、背中に氷川の背中が軽く触れた。


――あ、あたたかい……


 氷川の体温が触れている部分から加賀谷へ流れ出す。ふたりの鼓動までもがひとつになる。


……とくん、とくん、とくん……


 氷川のものか、自分のものか分からないそれは、とても心地よくすぐに加賀谷は眠りに付いた。


















 あくる朝。

 窓から薄いカーテン越しに眩しい光が射してくる。

 外は朝日に照らされて昨夜までの雪も跡形も無く溶けていた。


「ううーん……」


 目を覚ました氷川が寝返りを打つと耳元でかさりと音がした。


「ん……あれ? ここは……?」


 目を開くと見慣れない部屋の中。

 ふと音がした耳元を確かめると一枚の紙切れと自分の眼鏡が置いてあった。身体を起こし眼鏡をかけるとその紙切れを手に取る。

 そこには綺麗な文字でこう書かれていた。



『氷川くん、おはよう。

昨夜はあんな無茶をして、万が一の事が有ったらどうするつもりだったの?

心配したよ、君の身体がどんどん冷たくなっていって……。

……とにかく、今日はバイト、休むって真野さんに伝えておくから、家へ帰ってゆっくり休むといいよ。

部屋の鍵は下のパン屋のご主人に預けておいてくれればいいから。

それと……昨夜は待っててくれてありがとう。   加賀谷吉彦』



「あ……そうか、俺、昨夜店の前で加賀谷の事、ずっと待ってて、そして……」


 ゆっくりと記憶を辿る。


――部屋へ連れてこられて加賀谷に背中から抱かれて……。


 そこまで思い出して思わずかっと頭に血が上った。


「お、俺、また、加賀谷に迷惑かけちまった……」


 ベッドの上で膝を立てて座ったまま、項垂れて頭を両手で抱え込む。

 次第に迷惑をかけた後悔よりも、氷川には別の想いが湧き上がってきた。


――それにしても……加賀谷の腕の中、あたたかかったな……


 ふと、そのぬくもりを思い出す。加賀谷の胸が背中に触れて、腕が肩を強く、それでいてやさしく包んでくれた……。


 思い出したようにして、はっとすると頭をふって考え直した。


――俺、嫌われてるじゃんか……。


 自嘲気味に笑うとベッドから降りて椅子に掛けてあった上着に袖を通す。テーブルの上にあった鍵を取ると氷川は部屋を後にした。

 鍵をパン屋の主人に手渡すと、氷川は加賀谷の好意に甘えて自宅へと向かって歩き出した。


 昨夜の雪がうその様に溶けて、晴れ渡っている。まだ濡れている歩道を、とぼとぼと歩きながらふと寒さで身をすくめた。

 見上げると澄み渡った青空。

 歩道に沿って並んでいる鈴懸けの枝が、高く澄んだ青い空にひびを入れている。

 ふと前を見ると、遠くから駆けてくる人影が見えた。


 それは真っ直ぐに氷川に向かって駆けてきた。


「悠一様ー!」


 駆けてきたのは小柄な青年。氷川と歳はそう変わらない。

 だだ、その顔つきは日本人離れをしていて、外人だと言ってもすんなり受け入れられるような、堀の深い整った顔立ちをしていた。特に目立つのはその瞳の大きさ。くりっとした大きな目と高い鼻が特徴的なその青年が息を切らし、腰を曲げて両手を膝についている。息を整えると改めて氷川の名を呼んだ。


「悠一様……」


「響、誰も居ない時は呼び捨てでいいって言ってるだろう!?」


「いや、その……」


 下を向いて申し訳なさそうに口を濁している。

 彼の名は皆川響みなかわひびき。氷川の世話役として氷川家で奉公している。

 主従関係ではあるが、氷川とはひとつ下の幼馴染だった。

 氷川の父親と、皆川の父親はその家の主と執事という関係ではあったが、氷川家にとって皆川家は財閥とまで言われるようになる前からの付き合いで、若い頃の苦楽を共にしてきた仲だった。

 最初は会社で働く従業員だったのを、氷川の父親のたっての望みで家で仕えて欲しいと申し出たのが執事としての仕事の始まりだった。

 執事とは言いながら、実質は秘書として仕事を支え、友として相談にも乗る、そんな間柄だった。ふたりが家庭を持つのも殆ど同時で、子にも恵まれたのも一年違い。家族ぐるみで付き合いが生まれるのも当然だった。


「……何だよ一体?」


 訝しげに訊く氷川を他所に、皆川は怒り出した。


「探しましたよ!! 一晩中、一体何処に行ってたんですか!?」


「いや……その……」


 今度は氷川が口ごもる。


「アルバイト先に連絡したら昨夜は最後に帰ったって言うし、その上今日は休むって連絡有ったって言うし、最近は夜遊びもしなくなったから安心してたのに……!」


 一気にまくし立てると腕を組んで氷川を睨みつけた。その視線から目を逸らし、苦笑いをしてその場を繕う。ふと、思い出したように氷川が訊いた。


「それで何? 無断外泊ぐらい今更じゃないだろ?」


 その言葉を聞いた途端、皆川の顔色が蒼ざめていく。深呼吸を一つして、自分の気持ちを落ち着かせてから切り出した。


「落ち着いて聞いて下さい、ご主人様が……お父様が倒られました!」


「な、なんだって……!?」


 飛び掛るようにして皆川の肩を掴む。


「と、とにかく、一刻も早くご自宅へ……」


 聞くや否や氷川は自宅に向かって一目散に駆け出した。




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