Chapter 4.







 あれから一ヶ月が過ぎた。

 ふたりは特別打ち解けた様子も無く、互いにそれぞれの仕事をこなしている。


 十二月も半ば。店の前の鈴懸けの並木はもう、殆ど葉が残っていない。風にさらされた枝が、寒そうに震えている。


 大学は最後の冬休みに入っていた。

 氷川は自宅から毎日「Clouds and wind (クラウドアンドウィンド)」へ通っている。

 朝早くから夜は閉店時間まで、一日をここでバイトに勤しんでいた。

 それは加賀谷も同じだった。

 他のバイトをやめ、この店一本に絞り氷川と同じくらいに朝から一日中働いていた。









 その日は朝からとても冷え込んでいた。外はどんよりと曇っている。

 まだ降ってはいないが、重たく垂れ込めた暗い雲から白い雪が降り出すのは時間の問題だった。


「すみません、遅れました」


 加賀谷が珍しく店のドアから入ってきた。からんからんと軽やかにドアベルが鳴る。

 来客を告げるはずのその音に真野は気付かず、カウンター越しにある方向をじっと見ていた。


 店の奥のピアノが鳴っている。ほぼ同時に歌声がしてきた。


 聞き覚えのある旋律メロディ。歌う声はとてもやさしく、あたたかい響きを持っていた。

 外は凍える寒さだと言うのに、店の中は暖炉のぬくもりとその歌声で春の様に暖かい。

 やさしい音の主を辿ろうとピアノの側へと近寄る。ピアノを前にして座っている、その人物に加賀谷は見覚えがあった。


「……え? 氷川くん?」


  少しだけ背を丸くしてピアノを弾く。その白く小さめの手は、クリーム色の鍵盤の上を滑る様に触れていく。

 奏でられるピアノの音色に負けないくらい穏やかな歌声がやわらかく店内に響く。

 弾き語りをしている氷川の姿に加賀谷は魅入られるようにふらふらと近寄った。

 その気配に気付いた氷川は、ふとピアノを弾いていた手を止め、顔を上げた。


「あ、加賀谷、遅かったな」


 座ったままにっこり微笑んで加賀谷を見上げる。


「そ、その曲!」


「あ、うん。……俺と加賀谷が初めて逢ったときに歌ってたヤツだよ」


 加賀谷は目を見開いて驚いたまま呟いた。


「……アメイジング・グレイス……」


「そっか、それがタイトルなのか」


 氷川は感心したように頷いた。


「ええっ!? 知ってて歌ってたんじゃ!?」


「いや、あの時一度聴いただけだよ。……あの時の加賀谷の声が俺の頭からずっと離れなくて」


 氷川は照れて頭を掻きながら視線を横へ逸らした。


「い、一度聴いただけで……完璧だったじゃないか!? 凄いよ、これって凄い事だよ!」


 氷川の思いがけない一面を見た加賀谷は、興奮して氷川の側へ歩み寄った。


「俺、貧乏だったけどお袋が旧家のお嬢様で嫁入りの時に……って言うか殆ど駆け落ちだったんだけど、お袋の母親、祖母がこっそり送ってくれたんだ、お袋が大事にしていたグランドピアノを」


「それで習ってたと……」


「うん。俺一人っ子だし、お袋の他にピアノを弾く人間がいないのも勿体無いと思ったのか、お袋ときたら仕事の合間に暇を見つけては俺にピアノを教えてくれたんだ。どんなに貧乏してても今日一日食うに困っても、ピアノだけは手放さず、ずっと大事にしてたんだ。実はこの学校へ来る前までずっとやってたんだけど。でもあの学校は音楽科なんて存在自体無いから弾くのは全く止めちまってたんだけど、な」


 加賀谷は伏目がちに話す氷川をずっと凝視していた。


――こんな才能があるなんて! 凄いじゃないか!


 自分の意志とは関係なく加賀谷の身体が勝手に動く。

 ピアノの前に座っている氷川の肩に手をかけて、覗き込むようにして問い詰めた。


「何故歌わないの? そんな才能が有るのに! 勿体無いよ」


 その問いに驚いて加賀谷の顔を見上げた氷川は、困ったような、申し訳なさそうな顔をした。


「……俺、歌うって事、そんな興味ないし、寧ろ加賀谷の歌に対する真剣な気持ちに申し訳ないと思うよ。俺、加賀谷みたいに“歌う”って事、俺の中では一番には引き上げる事が出来ないと思うから」


 氷川の歌声は音階が正確に取れていて、やわらかくよく伸びるとても良い声をしていた。

 何より聴いているとこころの中にあたたかい陽だまりが出来るような、そんな歌声だった。


 加賀谷は自分に無いものを持つ氷川にどうしても歌わせたく思い、もう一度強く勧めた。


「ねえ! 今からでも遅くないよ、だったら僕と一緒に歌おう! これなら良いよね?」


 加賀谷の突然の誘いに氷川は驚きと戸惑いを隠せなかった。一瞬、嬉しそうに目を輝かせてすぐに目を伏せる。


「……ごめん。やっぱ無理」


 申し訳なさそうに俯いた。


「……どうして!?」


 驚いて目を丸くし、興奮して半ば怒りかけている加賀谷に、氷川は顔を上げてやわらかい微笑みを向けた。


「だって俺、加賀谷が歌っているのを聴いてるのが……一番幸せだから」


 やさしく見つめるその眼差しは、飾りの無い想いに満ちていた。


「………じゃ、じゃあ、約束して。今じゃなくて……そう、今度生まれ変わったら、次は一緒に歌おう。それなら良いよね?」


 加賀谷は氷川のやさしい眼差しに急に切なくなり、自分の一存で無理強いしようとした事に恥ずかしさを感じていた。


「うん! その時は俺の方から一緒に歌って欲しいって頼むから!」


 邪気の無い笑顔で嬉しそうに答える。そんな氷川に加賀谷は眩しさを感じていた。


――彼の笑顔を見ると……何故だろう、こころが軽くなっていく……。


 いつしか加賀谷のこころの中に氷川の存在が、無くてはならないものになっていく事をこの時の加賀谷は知る由も無かった。


「一番幸せってどう言う意味……」


 加賀谷が氷川に問いかけた瞬間、店のドアベルがからんからんとけたたましく鳴った。

 同時にひとりの男がドアから勢いよく飛び込んで来た。



「さぁーせんっ!! 遅刻しましたぁ、千葉一ちばはじめでぇーす! ……あぁっ! ちょっと遅れたからって、俺、来るなりクビですかぁー!!」


 ピアノの前に座る氷川を見るなり頓狂とんきょうな声で叫ぶ。

 一週間前にピアノの弾き手が辞めて、代わりの人間を募集していたところこの男が申し出てきたらしい。


「ごほん、千葉くん、落ち着きなさい」


 真野がカウンターから出てきてピアノの側へと近寄る。


「彼はウェイターのバイトをやってる、氷川くん。そしてこっちが同じく加賀谷くんだ」


 氷川は立ち上がり、軽く頭を下げる。加賀谷も隣へ並んで会釈をした。


「あぁ、そーなんですかぁ、あー良かった。俺また、職に有り付けないかと思ったぁ」


 へらへらと笑うその顔は、どこか憎めない人懐っこさを感じさせる。着ている服はダークグレイを基調にした、黒の縦縞の入ったスーツ。薄い紫のネクタイを締めていた。明るい色の髪は少し長めで前髪の目にかかる部分が一部、色が抜けている。黒色のフレームのロイド眼鏡をかけ、見た目はとても胡散臭うさんくさそうだった。だが、そのレンズの下から覗く二重の大きな目と、少しばかり童顔だが黙っていればそこそこ色男であろう、体つきもしっかりしていて着やせしているようだ。千葉と名乗るその男は真野が採用した新しいピアノ弾きだった。


「どうぞ宜しくお願いします!」


 千葉はふたりに握手を求めぶんぶんと手を振った後、ご機嫌でピアノの前へ座って鍵盤を叩き始めた。

 その手から奏でられたのは、容姿からは想像できないような深みと色気の有るジャズだった。


「……意外」


 加賀谷はぼそっと呟くと仕事につこうと裏口傍にある、従業員控室兼休憩室へエプロンを取りに行く。

 身支度を整えながら先ほどのやり取りを思い出していた。


――そういえばさっきの……彼の一番の幸せって……


 そう考えた時ふと、後ろから声を掛けられた。


「加賀谷、さっき何か言いかけてなかった?」


 急に声を掛けられ一瞬びくっと肩を震わせる。悟られないよう、ゆっくり振り向いた。


「えっと……その……」


 なんとなく言いづらくて、視線を逸らし言葉を探す。その時店の方から真野の呼ぶ声が響いた。


「おーい、ふたりとも! そろそろ開店するから!」


「は、はいっ! 今行きます!」

「わかりました!」


声のした店の方へ振り向くと加賀谷は慌てて返事をした。氷川も倣って返事をする。


――あぁ、良かった助かった……。え? 何故僕はほっとしたんだ?


 加賀谷は考えながら慌てて腰にエプロンを巻きつけ、部屋を出ていく。

 その後ろで小さく、ま、いっか、と頷いて氷川が後をついて行った。















 昼のランチの稼ぎ時が一段落ついた頃。

 真野が思い出したように加賀谷に声をかけた。


「吉彦、すまん、すっかり忘れてた。大倉さんから言伝があったんだ」


 テーブルを拭く布巾を手にしたままカウンターへ戻る。

 特に身に覚えのない加賀谷は首を傾げて聞き返した。


「何でしょう?」


「今夜九時に隣町の『咲良亭さくらてい』まで来て欲しいって。大事な用らしいから必ず来てくれってさ」


「あぁ、今評判の店ですよね、確か……ハヤシライスが美味しいって。でもわざわざ隣町の店なんて……。ここでも良いのに……」


 真野はふっと笑うとぽんと加賀谷の肩を叩いた。


「大倉さん、ここには来づらいのかもな」


「何故です?」


 加賀谷は真面目な顔をして聞き返した。そんな加賀谷を見てますます嬉しそうに笑う。


「そりゃ……照れ臭いんだろうよ」


加賀谷はふと首を傾げた。


「そんなもんなんですかね?」


 その時からんからんとドアベルが鳴った。


「あ、いらっしゃいませ」


 加賀谷は傍にあった水差しを手に取るとその隣に積まれたあったグラスに水を注ぎ、トレイに乗せて客をテーブルまで案内した。

 それを見送った真野も、仕事に戻るべく、棚からコーヒー豆を取り出し、挽き始めた。





















「それじゃ、ちょっと出てきます。閉店時間までには戻りますから」


 加賀谷はそう言ってコートのボタンをかけ、襟を立てた。

 赤いマフラーを軽く巻くと、ちらちらと小雪が降る中、駆け足で出て行った。


 夜八時過ぎ。

 朝からずっと覆っていた暗い雲が、夕方になってとうとう雪を降らせ始めた。

 それでもまだ積もるほどでもなく、曇った空で薄明るい中、白い雪はふわりふわりと舞い降りていた。









「……氷川くん? 何ぼーっとしてんだ? ……ほれ、水が零れてるぞ」


「……は、はい!? あぁっ!! ああー……」


 洗い物をしていた真野に、カウンター越しに急に声を掛けられ、はっと我に返る。

 気付くと右手に持っていた水差しから注がれる水が、グラスから溢れて盆に水たまりを作っていた。


「どうかしたのか? お前さんが仕事中にぼうっとするなんて、初めて見たぞ?」


「す、すみません……」


 俯いて深刻そうにじっと考え込んでいる。ふと、意を決したかのように顔を上げると真っ直ぐに真野を見て問いかけた。


「あの……。加賀谷、もう帰ったんですか?」


「ああ?」


 急に加賀谷の話が出てきて真野は気の抜けた返事をした。思わず氷川の顔を見つめる。

 氷川は寂しそうに視線を落として呟いた。


「俺の知らない間に帰ったみたいで……」


 余りに落ち込んでいる氷川を見て、真野はぷっと吹き出した。


「何か変でしたか、俺」


 不思議そうに訊ねる氷川に真野はカウンターから身を乗り出し、笑顔で問いかけた。


「吉彦の事、好きなのか?」


「うぉあっ!?………」


 みるみる頬を赤く染め、もじもじと俯く。額には汗までにじみ出してきた。

 暫く下を向いて躊躇ためらっていた氷川は観念したように顔を上げると、小さな声ではっきりと答えた。


「……はい。俺、男なのに加賀谷の事、好きなんです。変ですよね、やっぱり。加賀谷が歌っているのを見て、最初は女性だと思って一目惚れして。でも、男だって分かってからも気持ち、変わらなくて。加賀谷には凄く迷惑がられてて……。 ホント、俺の一方的な片思いなんですけど……」


 話すその目には嘘はない。真野は氷川の澄んだ目に誠実さと想いの強さを感じた。

 仕事中いつも加賀谷の事を良く見て、常に加賀谷の仕事のしやすいよう、そしてそれを気づかせないよう、細かな気配りを施している。何よりどんなに忙しくても笑顔を絶やさず、常に加賀谷の前では笑顔を向ける。

 そんな氷川を常日頃見ていた真野は氷川の気持ちにとっくに気が付いていた。


「そうか。吉彦の事を想ってくれてるんだな」


 氷川はこれ以上赤くなれないほど赤くなった顔を俯かせた。

 真野はますます笑顔になり、洗い物をしていた手を止めてカウンターへ手を付き身を乗り出した。


「別に変じゃないさ。吉彦の事、大切に想ってくれてるんだろう? だったらその気持ち、自信持てよ」


「はい……」


 俯いていた顔を上げると氷川は真野に少し笑って見せた。

 その笑顔を見届けると真野は残った洗い物に手を付けながら言った。


「吉彦なら閉店時間までには戻ってくるから。人と会う約束があるんだよ」


「人と会うんですか…。うーん。いまさら親戚とか会ったりしないだろうし……。 誰だろう? ああ、ひょっとして大倉さんとかいう人かな?」


 何気なく口にした氷川の言葉に真野は再び洗い物をしていた手を止めた。

 些細な事では動じない真野が氷川を驚きの眼差しで凝視する。


「どうしてそれを!? ……吉彦がお前に話したのか?」


「はい? あ、あぁ……ん、その……。孤児だとは」


 真野の驚き具合に逆にびっくりした氷川は申し訳なさそうな顔をした。


「そうか……話したのか」


 濡れた手を布巾で拭きながら真野はカウンターから氷川の横へ出てきた。椅子に腰掛けると氷川にも座るよう勧めた。

 ふと氷川の顔を見た後、視線を逸らし腕を組んで考え込む。


「え? 俺、何かまずい事言いました?」


「いや、アイツが他人に自分の事話したの、初めてじゃないかと思ってな」


――何故、初めてだって分かるんだろう……?


 椅子に座った身体を真野の方へ向きなおし、氷川は不思議そうに訊ねた。


「真野さんは加賀谷の事、良く知ってるんですか?」


 一瞬、へ? と声を上げてすぐに笑い出した。


「知ってるも何も、同じ孤児院にいたんだよ、俺ら」


「ええっ!! ほ、ほんとですか!?」


 驚く氷川を尻目に真野は話し出した。


「俺は幼い頃に二親を亡くし、物心ついた頃にはその孤児院にいてな。暫くして吉彦がやってきた。あの頃のアイツは手負いの子猫みたいでな。教会で歌う以外は誰とも喋らない。ほとんど年が違わないのにアイツは誰も頼らないし、打ち解けることもしなかった」


 真野は遠くを見るようにふと窓の外を眺めた。


「ほどなくしてアイツが風邪にかかってな。教会でぶっ倒れるまで誰も吉彦の具合の悪いことに気づかなかったんだ。俺はそんな頑ななアイツが子供心に不憫で気になってな。吉彦の体調が元に戻るまでついててやったんだよ。元気になっても俺は変わらず一緒にいた。そりゃ最初は鬱陶うっとうしいとばかり邪険じゃけんに扱われたけど……それから一年ほどした頃か」


 一瞬下を向き、ふっと笑うと真野は氷川の顔を見た。


「吉彦が十二で俺が十四だったか。大喧嘩をしたんだよ、それこそ殴り合いの酷いものだった。さんざん殴り合って、疲れ切ってその場にへたり込んだんだ。その時だった。ぼこぼこになって真っ赤に腫れあがった俺の顔を見て大笑いしやがったんだよ。俺はその時の吉彦の顔を今でも覚えてる。何か憑き物が取れたような、すっきりした顔してな。俺は同じようにぼこぼこにされた吉彦の顔を見て、一緒になって大笑いした」


 苦笑いを見せる。思い出しながら話す真野は懐かしさで目を細めていた。


「それ以来アイツは俺に笑顔を見せるようになってな。遠巻きに吉彦を見ていた他の連中もそれ以来、少しずつだったが距離が縮まっていった。そのころからアイツは勉強に打ち込むようになった。小さいころから勉強のできるヤツだったんだが、たまたま教会に来ていた大学の先生の目に留まってな。今の大学の推薦を受けてみないかと勧められて。俺もそれは賛成したんだ」


 わずかに顔が曇る。今の加賀谷の状況を知ってのことだった。


「そのちょっと前だったかな。院長のところへ立ち寄った大倉さんがたまたま教会で発声練習をしていた吉彦を見かけてな。声変わりしても変わることなく出る少年のような高音域に酷く驚いて、これは逸材だといたく感動したらしいんだ。それで……吉彦を養子にしたいと申し出てな」


「えっ……」


「でもな、吉彦はそれをあっさり断った。大倉さんも一度は身を引いたんだがどうしても諦めきれなくてな。毎年クリスマス時期に孤児院に多額の寄付をしてくれて」


 真野は組んでいた腕を解くと軽く頭を掻いた。


「実はな、この店も大倉さんからの資金提供を受けているんだよ。本当に俺たちの恩人なんだ」


 にっこり笑う真野のその笑顔はやさしさと感謝に満ち溢れていた。


「一体、その大倉さんって何物なんですか?」


 真野は顎に手をやり、少し唸った。


「娯楽映画の大手製作会社の重役らしいが……俺らも詳しいことは良く知らないんだ。孤児院の院長と昔からの友人で、古くからの付き合いが有るそうだ。そういや海外の映画を日本へ輸入したりとかもしてるって言ってたっけ。……ここら辺はお前の親父さんの分野になるのか?」


「へっ!? 俺の親父?」


 突然、父親の話を振られ氷川は戸惑う。

 真野は氷川を頭の天辺から足元までをじろりと見た。


「氷川世界貿易の跡取り息子だろうが、お前さんは」


「ななな、なんで知ってるんです!? あ、ひょっとして……加賀谷から聞きましたか?」


 氷川は驚いて立ち上がり、頓狂とんきょうな声を上げて後ろへ後ずさりをした。

 ほんの少しだけ呆れた顔をした真野はふうっとため息をひとつついた。


「吉彦はそんなこと話さないさ。冷静に考えれば分かるこった。あの学校に通っているとなれば、そこいらの金持ちじゃお話にもならん。『氷川』と聞けば、あの名高い『氷川世界貿易』しか思い当たらんしな」


ふっと笑って氷川を見る。


「それに……お前さん見てると……吉彦みたいに特別頭が良さそうでもないし」


 頭の天辺からつま先まで見下ろして、確信したようにうむ、と頷く。


「まぁ……確かに。遊んでばっかですけど」


 否定もせず苦笑いをして頭をかき、誤魔化す。

 真野はそんな氷川から視線を逸らし、目を伏せて少し考えた後、ふっと笑った。

 椅子から立ち上がると、ぼうっと立っている氷川の傍へ歩み寄り肩をぽんぽんと叩いた。


「吉彦の事、宜しくたのむな」


「俺、あんまり良く思われていないんですけど……って言うか、その、多分嫌われてると思う……」


 少し悲しそうに俯く。

 そんな氷川を不思議そうに見て、真野はすぐにニヤリと笑った。


「ん? 嫌いなヤツを同じバイト先に誘うもんか? 嫌なら別のバイト先、押し付けるもんだろうが」


「はい?」


 氷川は間の抜けた返事をして顔をあげた。

 それを見た真野はふははは、と声に出して笑いながら残りの食器を洗うため、カウンターの向こう側へと戻った。

 あっけにとられて氷川がぼうっとしていると不意にドアベルが鳴り、客が入ってきた。


「い、いらっしゃいませ!」


 氷川は考える間もなく、盆に水の入ったグラスを乗せ足早にテーブルへと向かった。















 夜十時を告げる柱時計の鐘の音が店内に鳴り響く。


「それじゃあ、お先に失礼しまぁーす! 千葉一、明日も頑張りますぅ! では、ごきげんよう!」


 千葉がご機嫌で店を出ていく。


「んー、それじゃ俺たちも帰るとするか」


 真野はコートを羽織り、帽子をかぶると戸締りの点検を始めた。

 その間に氷川はマントを羽織り、青いアーガイル模様のマフラーを首に巻き付け先に裏口へと向かう。

 真野が一通り見まわった後、店内の灯りを落とし、外は入り口の外灯をひとつだけ残して裏口から出てきた。


「鍵、表の入り口の右側の植木鉢の下へ置いてきてくれ」


 氷川が真野に言われて鍵を受け取る。


「持って帰らないんですか?」


「ああ、明日ちょっと遅れるんでな。加賀谷に先に来てもらうよう頼んであるんだ」


「俺、もう少し待ってます。戻ってくるって言ってたんでしょ?」


 氷川は笑顔で真野にそう言うと、鍵を詰襟の右ポケットへと入れた。


「うーん、かなり冷え込んでるから、いい加減に帰るんだぞ。鍵は置いておけば良いからな」


「はいっ! 分かりました」


 氷川が元気良く答えるとそれを見届けた真野は店を後にした。


 残された氷川は店の表に回り、ただひとつだけ灯っている入り口の外灯の下へ、うずくまる様にしてしゃがんだ。

 軒が出ているため雪は直接被らないものの、目の前の舞い散る雪を見ながら外で待つのは、かなり無謀とも言える。

 白い雪がひらひらとまるで無限に降ってくる空を見上げて氷川はひとつ、ため息をついた。


「早く戻って来い、加賀谷……」


 ぶるっと肩を震わせて身を縮めると、氷川はマフラーに首を埋めなおした。




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