Chapter 3.









「おはようございます」


 加賀谷が店へやってきた。


「おう、お疲れさん。例の坊ちゃん、もう来てるぞ」


 真野が顎で店の奥を指す。

 そこにはモップを持って床を磨く氷川の姿が有った。





 氷川がバイトを手伝い始めて三週間が過ぎた。

 もうすっかり秋もすっかり深まった、十一月の中旬。

 店の前の鈴懸けの並木は風にさらされ、葉はかさかさと音を立てて舞い散る。



 今日は日曜。

 朝早くから氷川は店へとやってきて真野が来るのを店の裏口で待っていた。

 あまり早くに来ているのを真野が驚いて訊ねると、氷川は少しだけ照れながらじっとしていられなくて、と答た。

 ドアの鍵を開けるとすぐに店内へ飛び込み、真野に言われるまでも無く掃除を始める。


「意外と骨があるじゃないか。誰だっけ、すぐに飽きて止めちまうって言ってたのは」


 にこにこと笑いながら言う真野に苦笑いを向けた加賀谷は、特に反論するでもなく流して仕事の準備にかかった。



 この二週間、加賀谷は何時しか氷川の姿を目で追っていた。

 最初は、どうせ楽を覚えた上流階級の人間に勤まる筈も無く、すぐにサボるだろうと目を光らせていた。

 ところが何時まで経っても、初めて店へ来た時と同じペースで、生真面目に仕事をこなしている。

 しまいには何時トイレ休憩を取っているのかさえ気付かせないほど店の中、外で働いていた。



「それじゃ、店、開けるからな、今日も一日よろしく頼むぞ」


「はいっ!」


 氷川の元気な声が響く。

 真野のその声で加賀谷が店の入り口に開店を告げるプレートを置いた。


 ほどなくしてドアベルのからんからんと軽やかな音が響き、今日一番目の客が二人連れで入ってきた。














 秋の日差しが穏やかな昼下がり。

 ランチの客が一息ついた頃だった。


「おーい、氷川くん、これ裏のゴミ箱へ捨ててきてくれないかー」


「はーい、今行きます!」


 手が離せない真野が氷川を呼ぶ。

 残飯が入った銅製の鍋を受け取り店の裏へと急ぐ。


「ああ、これも……ん、一足遅かったか」


 ふと仕込みの手を止めて、真野が残りの残飯を木製のボウルに入れて氷川の後を追うように店の裏へと行く。


 そこで真野は意外な光景を目にした。


「………ありがとう、ごめんなさい」


 ゴミ箱の前に真っ直ぐ立ち、左手を立てて顔の前へと持って行き目を閉じ、少しだけ俯いて拝む。

 一息ついてから氷川は右手で持っていた鍋の中身を、そっとゴミ箱へ空けた。

 もう一度ゴミ箱に向かって軽く会釈をすると、くるりこちらを向いてやってくる。

 真野はすっと壁に身を寄せて、その場をやり過ごした。


「……残飯に謝ってた…? ひょっとして、食べ物を粗末に扱う事を躊躇ためらったのか?」


 氷川が去った後ひとしきり考えて悩んだ真野は、唸りながら店へと戻った。

 店内では加賀谷がすぐそばのテーブルを拭いていた。

 真野は考えながら加賀谷の傍まで歩み寄った。


「なあ吉彦、アイツ、本当にいいとこの坊ちゃんなのか?」


 何の脈絡もなく投げかけられた問いかけに、テーブルを拭いている手を止めて加賀谷は顔を上げた。


「……あの学校に通ってるって事はそうなんじゃないですか?」


 眉をしかめ、嫌悪を露わにしている。


「確かに。そうなんだがな……」


 真野は不思議でならないといった風に顎に手をやり、首を捻っていた。


「実は……さっきな、残飯に謝ってたんだよ、食べ物を粗末に扱って申し訳ない、そんな感じだったんだが」


「え……?」


 加賀谷は驚いて目を丸くした。

 それを見た真野は苦笑いしながらカウンターの中へと戻って行った。


――あんな大金をポンと無造作に出せるくらいの金持ちなのに、何故……?


 テーブルへと視線を落とし、加賀谷は氷川と出逢ってからを振り返った。

 他の学生たちとは何処か違う。それは薄々感じてはいた。

 でも、あの夜の人を見下すような態度は、常に優位に立つもののそれである。

 だが、あのけやきの下での告白以来、自分を見る瞳が常に真っ直ぐで、偽りの無い澄んだ眼差しを向けられている事に加賀谷は気づき、はっとした。

 ふと氷川を見やる。

 奥の開いたテーブルの上を端から端まで丁寧に拭いている姿はとても真面目で誠実なものだった。


――今の彼がありのままの彼なんだろうか……


 加賀谷はふと自分が何時の間にか氷川の事を考えている事に気付き、驚いた。


――……いや、この事はもう考えないでおこう。とにかく今は期日までにお金を用意しないと……。


 テーブルについていた手をぎゅっと握り、拳を作ると、よし、と気合を入れなおしてテーブルを拭き始めた。














 午後三時過ぎ。

 ゆったりとしたお茶の時間を過ごす客たちとは対照的に氷川たちはテキパキと与えられた仕事をこなしていく。


「あ、加賀谷、これ何処へ持っていけば良い?」


 手には瓶が何本か入った木製のケースを抱えていた。

 それは酷く重たそうで、持っている氷川の手が少しだけ震えていた。


「ワインなら、こっちだよ」


 加賀谷は氷川に店の奥を指して言うと、氷川の向かいに立ち、箱の反対側を支えた。


「半分、持つから。無理しない」


 素っ気なく言う。

 その加賀谷の顔が突然目の前に飛び込んできて、氷川は思わず見惚れてしまった。

 さらさらで真っ直ぐな赤みかがった髪、伏目がちの切れ長の目。

 肌の白さが眩しくて、急に胸がどくんと鳴り出した。


「うわっ! い、いいよ、俺ひとりで大丈夫だから」


 慌てた氷川はぐいっと力を入れて箱を持ち直した。……それが災いした。


「つ! 痛っ!」


 手に鋭い痛みを感じ、箱を足元に下ろす。左手の人差し指の先から赤い筋がつつっと手首へ伝っていった。


「あ……木の箱だったもんな、ささくれだっててやっちまった」


 氷川は痛みを紛らわせようと、血の流れている左手をぶんぶんと振った。


「待って、振っちゃダメだよ」


 加賀谷は氷川の手を取ると、血の流れて出ている指先をそっと口に含んだ。

 流れ出た赤い血を綺麗に舐め取ろうと加賀谷の舌が氷川の指を這う。

 まるでそれはあの夜の加賀谷と同じで、どこか妖艶な眼差しで指先をみつめているように見える。

 薄い唇から出ているその赤い舌はとても艶かしく、白い肌と相まって氷川を視覚で刺激した。


――どくんっ!


 氷川の心臓が急に早鐘を打つ。

 それは警鐘けいしょうのように、得体の知れない不安を沸き立たせた。

 あの夜の感覚が蘇る。


――ヤバいっ……!


 身体の奥にずんと何かが疼いた。と同時に全身が熱くなってくる。

 ゆっくりと確実に、身体の中心が硬くなってきているのに気づき、はっとした。


「も、もう良いから、自分で手当てするから! 加賀谷は仕事に戻って!」


 振りほどくように手を離し、氷川はトイレへと駆け込んだ。


「……。チクショウ、反応しちまって。………んん……くうっ!」


 あの夜の出来事が色鮮やかに蘇る。

 どうしようもないほど昂った熱を、氷川は自分で解放した。











 客の姿もなくなった夜十時。

 仕事の終わりを告げる柱時計の鐘が鳴る。


「今日もお疲れさん。氷川くんのお陰で随分と楽になったよ。また明日も宜しくな」


 真野が肩をぽんと叩く。

 氷川は嬉しそうにお辞儀をした。


「はい、こちらこそ宜しくお願いします! それじゃ、また明日」


「それじゃ僕も失礼します」


 加賀谷も軽く会釈をして、首にマフラーを軽く巻くと氷川の後に続いて店の裏口から出て行った。



 外は昼間の天気の良さから、とても冷え込んでいた。

 その分空気が澄んでいて、空に浮かぶ月がとても明るく鮮明に輝いている。

 月明かりで照らし出される鈴懸けの並木の陰が、くっきりと石畳の歩道へと伸びている。

 あたりは街灯もまばらで頼りは月明りのみ。

 氷川は少し寒かったのか、学生服のポケットに手を突っ込んで歩いていた。

 その後ろを数歩離れて学生服に赤いマフラーを巻いた加賀谷がついていく。


 ふと前を歩く氷川の背中を見つめる。

 加賀谷はぼんやりと昼間の出来事を思い出していた。


――あの時、気が付いたら彼の指を……。何故そんな気になったんだろう? 彼が怪我したところで、別に放っておけば良かったのに……。


「ん? 加賀谷、どうかしたのか?」


 いきなり氷川が振り返る。


「あっ!? いや、何でもないよ……」


 急に振り返り声を掛けてきた氷川の、澄んだ瞳にふいに胸が高鳴った。


――あぁ、驚いた……急に振り返るから……そうだよ、急に振り返るからドキッとしたんだ……それ以外何もない……はず。


 加賀谷は俯いてその胸の高鳴りを否定した。

 ふと視線を感じて顔を上げる。

 立ち止まって加賀谷を真っ直ぐ見つめる氷川が目の前にいた。


「何でも無いようには見えるけど……まさか何処か具合でも悪いのか?」


 心配そうに訊ねてくる氷川に、訳も無く恥ずかしくなった加賀谷はそれを誤魔化すように話題を変えた。


「あ、あの、今日の昼間、真野さんが見たって言ってたんだけど……ゴミ箱の前で拝んでたって。どうして?」


 突然の質問に暫くポカンとした氷川はすぐに恥ずかしそうに俯いた。


「あ……あれ、そっか、見られてたんだ。んー、その、食べ物に悪いと思って、さ」


 頭に手をやりながら申し訳なさそうに微笑んだ。

 その笑顔が酷くやさしくて、加賀谷はまた胸が高鳴るのを感じた。

 それをまた誤魔化すように問いかける。


「何故? 君はずっと裕福に暮らしているんだろう? 食べる事に困るなんて有りえないだろう?」


 月明かりがふたりを照らす。

 そのやわらかい光に照らされた氷川の眼差しが真剣なものに変わった。


「……俺、本当は貧乏してたんだ。子供の頃はその日の食事にも困った事もあったんだよ」


「えっ!?」


 加賀谷は驚きを隠せなかった。


「じゃなんであんな学校に通ってるの!」


 普段は歌う以外で大きな声を出さない加賀谷がたまらず訊く。


「親父が頑張って稼いで、それが国にも認められて。俺、大学からあの学校に通ってるんだけど……聞いた事あるかな、氷川世界貿易って会社なんだけど……」


「氷川世界貿易……あの大企業の!? 日本の三大貿易会社のひとつだよ!? 君がそんな財閥の……御曹司!?」


 氷川世界貿易とはここ十数年の間に急激に発展した貿易会社で、主に鉄鋼材や石炭などの第二次産業向けの品を扱い、外国間との輸入ルートを開拓し、安定した資材供給を確立させた。それらは軍や国にも貢献したとして、その業績を認められ爵位を授かり男爵家として『氷川家』は上流階級の一員となっていたのだった。

 今もその貿易で扱う品は第二次産業向けにとどまらず、日本の繁栄や豊かさにつながるような娯楽品も手がけ、業績は拡大の一途をたどっている。


 その財閥の跡取り息子……それが氷川悠一だった。

 その御曹司が申し訳なさそうに俯いて答える。


「凄いのは親父であって俺じゃないし……俺だって好きであの学校へ入ったわけじゃないんだけど……」


 加賀谷は余りの身分の違いに驚いた。

 例え成り上がりでも氷川は爵位を持っている。


 改めて自分との境遇の差に、言い知れぬ劣等感にさいなまされた。


「じゃあ、君にとっちゃ僕みたいな労働者、見てて哀れだろう。同情でバイト手伝うって言ったんだね」


――僕は何でこんな事言ってるんだ!? どうしてイラついてるんだ!?


 加賀谷は何時の間にか感情を抑えられなくなって、きつく氷川に問いただした。


 驚いて顔を見る氷川の目が酷く悲しそうに加賀谷を見つめる。だがその視線は真っ直ぐのままだった。


「同情なんてそんな事、思った事もないよ、ただ、俺……加賀谷の為に何かしたくて、ただ、それだけだった」


 一度視線を落とし、もう一度加賀谷の顔を見つめる。月明かりを受けてその澄んだ瞳がきらりと光った。


「今じゃ俺、凄く加賀谷に感謝してる。だってあの学校へ通い始めてすっかり忘れてたんだ、働く事の大切さを。小さい頃、親父は一生懸命になって俺らを楽にさせたいって、その一身で働いてて、俺も親父のそんな姿を見て子供ごころに手伝わなくっちゃって思って、それこそ、子供なりに出来ることは一生懸命手伝ったさ、今からじゃ考えられないくらいに。俺、額に汗して働く事、思い出させてくれた加賀谷に改めて礼を言うよ、本当に有難う」


 氷川は加賀谷の前に向きなおし、深く頭を下げた。

 思ってもみなかった氷川の過去を聞いた加賀谷は、驚きで暫く声が出せなかった。

 氷川が頭を上げる。そこには加賀谷をやさしく見つめる眼差しと、冷たい外気を物ともしない、あたたかな笑顔があった。

 その笑顔が眩しくて加賀谷は横を向いて視線を逸らした。


――何処までお人よしなんだか……


 胸の中にもやもやとした不快感が広がる。加賀谷は吐き捨てるように言った。


「僕は生きてく上でどうしても働かなきゃなんないしね。お金が全てだよ」


 ふと氷川が目を伏せる。つらそうに一度きゅっと口を結ぶと遠慮がちに呟いた。


「こんな俺が言うのもなんなんだけど、お金じゃ買えないものも沢山有ると思う……」


「っ……!」


 カッと頭に血が上る。しかしそれはすぐに引いた。

 氷川のその言葉に加賀谷は冷静に怒りという感情を押し殺しながら答えた。


「僕が受け継ぐはずだった家や財産、家族をも奪われても、かい?」


 月明りに照らし出される加賀谷の顔は硬く、氷川を見る目は冷たく青い炎が点っていた。

 押し黙って立っている氷川を無視して加賀谷は語りだした。


「僕の父の実家は田舎の大地主でね、それこそ山や土地をたくさん持ってた。でもね、僕の父が…祖父の反対を押し切って母と駆け落ちしたんだ。父は一人息子でそれはもう祖父に可愛がられて育ったらしいんだけどその結婚には猛反対で父を勘当したんだ。だけど……どうしても諦めきれず父を無理やり母から引き離し、別れさせた。でも……その時にはもう母のお腹には僕がいた。僕は母と二人でその日の食べるものに困るような暮らしをずっとしてた。でも僕が九つになった時。突然祖父の使いだという男がやってきて、僕を引き取りたいと言ってきたんだ。父は母と別れさせられた後、断固として再婚を拒否し続け僕以外子供を作らなかった。そしてある日、荷馬車の荷物が崩れその下敷きになって亡くなったんだ。父が亡くなり、祖父は今度は僕と母を無理やり引き離し、自分のもとに置いた」


 加賀谷の目の奥に青い炎が揺れる。


「そんな祖父を許せると思うかい? 祖父は手のひらを返したように僕に接したよ。忘れ形見? そんなの勝手な言い分さ。僕はずっと祖父を恨んで暮らした。でもそれはそんなに長くは続かなかった。一年後祖父は病気で亡くなったんだ」


 氷川ののどが緊張でごくりと鳴る。


「そうしたらどうだい。今度は親戚中が祖父の遺産に群がったんだ。僕は身一つで母の元へと追い返された。母はまた僕と暮らせると喜んだけど……僕がいない間に母は結核にかかって。僕と一緒に暮らし始めてすぐに療養所に入れられて。そしてそのまま帰らぬ人になった」


 加賀谷はふっと息を吐き、悲しそうに続けた。

 いつの間にか怒りは収まり、冷静さを取り戻していく。


「その後僕は養護施設に入り、とにかく一生懸命に勉強した。何も持たない僕には知識だけが味方だった。その甲斐あって僕は推薦という形であの大学に入ることが出来た。なんでも国が人材育成のための基金を大学に出していて、優秀な人材を募っていたとか……」


 加賀谷が、ふと、深くため息をついた。


「ほとんどただで……奨学生ってことで通わせてくれるって言うから入学したのに……」


 両手でこぶしを作る。その手は怒りを力に変えて手の中に握りつぶしていた。


「歌なんか歌っているくらいなら、奨学金を返せなんて言うんだ。入学以来一度だって首席から落ちてないのに……」


 ふふっと鼻で笑うと加賀谷は続けた。


「結局は金、なんだよね」


 加賀谷の話を辛そうに聞いている、それは聞いているのが辛いのではなく、加賀谷の想いが辛かったから。

 ただ黙って聞いていた氷川が、ふと不思議そうに訊ねた。


「でも、加賀谷にとって歌う事は、お金以上に大切なんだろ?」


「えっ……!?」


 思いもよらぬところを突かれ、加賀谷ははっとして顔を赤くした。

 確かに……歌う事だけは何物にも変えられない。


「母の葬儀の後、ふらふらと歩いていたらふと耳に美しい音色が飛び込んで来て。吸い寄せられるようにその音を辿ると、一軒の教会の前へたどり着いたんだ。誘われるように扉を開けるとそこには大勢の人たちが、それこそ、男も女も大人も子供もみんなで楽しそうに歌ってて……」


 思い出しながら話す加賀谷のその顔にはわずかに微笑みが零れた。


「入り口で僕がぼうっと見惚れていたら、ひとりの女性が僕に気付いて一緒に歌わないかと誘ったんだ。恐る恐る仲間に加わり一緒になって歌いだすと、今までの嫌な事もみんな忘れてしまった自分がそこにいて。その時に思ったんだよ、音楽は、歌だけは人を差別しない、選ばない。無条件に救いの手を差し伸べてくれる。僕にとって歌は唯一僕を裏切らない大切な物だって」


 加賀谷は遠くを見るように顔を上げた。


「そのまま僕はそこの教会がボランティアをしている孤児院へ入ったんだ」


 遠くを見ていたその目は、目の前にいる氷川へと向けられた。

 真っすぐに氷川の目を見る。


「僕にとって歌う事は、生きている事と同じ。歌い続ける事が出来ないのなら死んだ方がマシだよ」


――加賀谷にとって歌が全て……


 その切ないまでの歌う事への想いの強さに氷川の胸が軋んだ。

 無意識のうちに氷川の口から想いが零れた。


「死んだら俺が困るよ。俺、歌ってなくても加賀谷の側にいたいんだ……」


「か、勝手にすればいいよ!」


――どうしてそこまで僕に構うんだよ、僕は君に何をしたって言うんだ? 僕は君の何なんだ!?


 氷川のそのやさしい言葉に急に胸が熱くなる。

 何故か酷く罪悪感を感じた加賀谷は、自分がいたたまれなくなって氷川に背を向け歩き出した。

 その時、するりと加賀谷の首からマフラーがすり抜け落ちる。


「あっ、待って!」


 後ろからそれを拾った氷川が慌てて加賀谷の前へと回り込んだ。


「ほら、明日も頑張ろうな」


 両手でふわりと肩へマフラーをかける。

 腕の長さひとつ分の至近距離に氷川の顔が飛び込んで来る。

 間近で見たそのやさしい笑顔に加賀谷は胸が高鳴るのを抑えられず、目を伏せた。


「じゃあ、また明日!」


 にっこり笑うと氷川は道路を横断して道の反対側へと駆けて行った。

 ひとりその場に残された加賀谷はマフラーに頬を寄せる。


――あ、あたたかい……


 そのぬくもりが胸の中へと伝わる。

 どこかあたたかい気持ちで加賀谷は月を見上げて歩き出した。



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