Chapter 2.
朝夕がすっかり涼しく、肌寒さを覚える十月も半ば。
あれから一ヶ月が過ぎようとしていた。
相変わらず、氷川は
ふたりの距離は一定を保ったまま、近づくでもなく、離れるでもなく、それぞれがいる二本の
ただ、ふたりを包む空気が以前よりは、ほんの少しやわらかくなっていた。
その日の昼休みもいつもの様に氷川は中庭へ向かおうとしていた。
ふと気付くと前方から人の話し声がして来る。
中庭の入り口の門の前に人が立っているようだ。
近づいてよく見るとそのうちのひとりは……加賀谷だった。
話している相手は白髪交じりの五十代ほどの中年男性で、スーツに蝶ネクタイ、ロイド眼鏡に中折れ帽をかぶり、手にはステッキと明らかに富裕層であることが伺える。
――一体、こんなところで何を話しているんだろう……。
氷川は思わず門のそばの塀に身を寄せて、様子を伺った。
「そろそろ手続きを行いたいのだか、お金の方は都合、ついたかね?」
男は優しい口調で加賀谷に問いかけた。
その問いに加賀谷はすぐには答えず、下を向いていた。
暫く、言葉を探しているように見えたが、顔を上げると真剣な眼差しで答えた。
「……今はまだ、足りません……が、必ず用意します。もう少し待って下さい、
加賀谷は深く頭を下げた。
下を向いたその顔は、何としてでもお金の都合をしてやるという気迫に満ちていた。
そんな真剣な加賀谷を見た大倉という名の男は笑顔で答えた。
「いいから、頭上げなさい。加賀谷くんの才能を見出したのはこの私なんだから。他の誰でもない、私自身が君にウィーンへの留学を望んでいるのだから。 お金の事は私が立て替えておこう。そうだね、三月の出発の一ヶ月前くらいにまで用意してもらえればいいから。……でも、考え直してくれないかな、私がスポンサーになる事。そんなに嫌なのかい? バイトが無くなればその分、歌の練習に時間もまわせると思うのだが……」
加賀谷はすまなさそうな顔をして大倉を見た。
「大倉さんには歌の指導をして頂いたり、色々とお世話になってばかりで……。その上ウィーンへの留学の件で、留学先の音楽学校への手続きや、向こうでの生活の為のホームステイ先まで面倒を見ていただくのに……。これ以上は御迷惑をお掛けする事なんて出来ません! せめても必要経費ぐらいは自分でどうにかさせて下さい!」
もう一度加賀谷は深く頭を下げた。
両手は握りこぶしを作り、力の入った肩は微かに震えている。
大倉への素直な感謝の気持ちと、赤の他人にそうまでしてくれる申し訳なさとで、加賀谷の胸はいっぱいになっていた。
加賀谷の決意を目の当たりにした大倉はそれ以上は言わずに、一言分かったからと、優しく声を掛け肩を軽く叩いて頭を上げるように促した。
「それじゃ、私はお邪魔するよ。学校まで来て申し訳なかったね。それにしても……。兎に角、身体が資本なのだから、健康だけは気をつけて、無理はくれぐれもしないように。いいね? もし、君がバイトで身体を壊すような事にでもなったら、君の意思に関係なく、私が費用の全てを面倒見るから、分かってるね? ……君のその才能は世界でも充分通用する。このままにしておくのは勿体無さ過ぎるんだよ。少なくとも私はそう思っている。……加賀谷くん、頑張るんだよ」
頷く加賀谷を嬉しそうに見つめながら、再び肩をポンと叩く。
大倉は最後に一言、無理するんじゃないよ、と告げて加賀谷に背を向けた。
「……あ、不味い、見つかっちまう」
氷川は自分の方に向かって歩いてくる大倉の視界に入らないよう、すっとその場にしゃがみこんだ。
身を潜めてやり過ごす。
暫くして加賀谷の歌声が微かに風に乗って聴こえてきた。
「留学か……。道理で金が必要だった訳だ。でも、そうまでして歌う理由って何だろう?」
氷川は考えながら、いつもの
「……くん、……氷川くん? 午後からの講義が始まるよ」
名を呼ばれて、はっと我に返る。
「えっ? あ、ああ……もう、そんな時間なのか……」
さっきの出来事を思い出していた氷川は上の空で、全く加賀谷の声が耳に入っていなかった。
「どうしたの、今日は。全然聴いてなかったみたいだね?」
苦笑いをする加賀谷に氷川は驚いて立ち上がった。
「あっ! ご、ごめん。俺……」
そんな氷川を気にも留めず、加賀谷は先を歩き出した。
暫くその場で俯いて立っていた氷川が、意を決したかのように加賀谷の背中に声を掛ける。
「ご、こめん! 加賀谷」
いきなり謝られて怪訝そうな顔で振り返る。
「何? いきなり。また僕に謝らなくちゃならない事でもしたの?」
以前よりは、やわらかい口調で聞き返す加賀谷だが、まだ氷川にこころを許した訳ではなかった。
眼差しの奥には、まだどこか冷たい光が宿っていた。
加賀谷の問いかけに申し訳なさそうに下を向いた氷川は、小さな声で告白した。
「さっき、門のところで……聞いちまった」
すっと顔色が変わる。
加賀谷の周りを包む空気が急に冷たくなる。そのまま加賀谷はじっと氷川の顔を見つめていた。
「歌の為に留学するんだな……。凄いな加賀谷って。まぁ確かに加賀谷の声は凄いと思う。聴いてて、こころが揺さぶられると言うか……。でも、何で学校から留学費用が出ないんだ? 加賀谷は奨学金、貰ってるんだろう? 学校は世話してくれないのか?」
心底不思議そうな顔で訊ねる氷川に加賀谷は、お話にもならないと言った風に頭を振って自嘲するように、吐き捨てるように答えた。
「僕はね、学力を買われて奨学金を貰っているんだ。つまり勉学の為。その勉学の妨げになるような“歌”の勉強の為に学校側がビタ一文出す訳が無いよ。 実際、学園内で歌っているのを教授に見られて、勉学に集中しなさいと、注意を受けた位だからね」
氷川を見る眼差しが少しだけ厳しい。
「そっか……! だから誰も来ないこの中庭で練習、してるんだ……」
はっと気が付き、すまなさそうに項垂れた。
氷川は何故か切ない思いで胸が締め付けられていた。
――やっぱり“金”の為、なんだよな……。“金”が欲しいから、あんな事したんだよな……。別に俺の事なんて……。え……? 今、俺……!?
氷川は湧き上がってきたその思いを消し飛ばすように首を左右に二、三回振ると、 改めて加賀谷に質問した。
「そ、それにしたって、加賀谷にとってそうまでしてまで“歌う”理由って、どんな訳があるのさ?」
思いもよらぬ質問に加賀谷は少しだけ間を取った。
――別に彼に言う必要は無いのだけれど……。
頭の中ではそう思っていても、こころの何処かで氷川に聞いてもらいたい、そんな気持ちに加賀谷はまだ気付いていなかった。
「僕にとって歌うって事は、生きているって事と同じ。歌う事に
そんな風に語る加賀谷の眼差しには、先ほどまでの冷たさや厳しさは無かった。
周りを包む空気も心なしか穏やかになっている。
加賀谷はそれだけ言うとくるりと背を向けて中庭を後にした。
しかし、ふと気付いたのか振り向くともう一言、付け加えた。
「歌い続けるって事は、僕がこの世に生きているっていう、唯一の証なんだ」
――ここまで言う事も無かったかな……
ほんの少し、
思わず見惚れていた氷川もその言葉に我に返り後をついて行く。
――俺、そこまで入れ込んで出来る事って、なんも無いよなぁ……。 いつも二番目でいいと思っている俺なんか、加賀谷の足元にも及ばないよ……。やっぱ、凄いわ、加賀谷って!
氷川は立ち止まり、ひとつ大きなため息をついてから眩しそうに空を仰ぐと、前を歩く加賀谷の背中へと駆けて行った。
いつしか顔はほころんで、こころの中には熱い思いがこみ上げていた。
――俺にも何か、加賀谷の為に出来る事、無いかな?
氷川は加賀谷のバイトを手伝おうとこころに決めた。
「本当に君にそんな事が出来るの?」
あくる日、氷川は加賀谷にバイトを手伝わせて欲しいと申し出た。
「俺、加賀谷の応援がしたくて……さ」
少し照れて俯きながら、頭を掻く。
曇り空の所為で少しだけ肌寒い、いつもの中庭。
気付くと落葉樹である
「だって……人からお金をタダで貰うって事はしたくないんだろう? ましてや、俺の小遣いなんて絶対受け取らないだろうし。それなら俺が少しでも労働して、加賀谷と一緒に働いて、一緒に稼いだ金なら受け取ってくれるよな?」
氷川は独自の変な理屈をこねている。
加賀谷はただ呆れて聞いていたが、ふと、何かを思いついた様に視線を落とした。
――箸より重いもの、持った事の無いようなお坊ちゃんに、勤まる様な仕事じゃ無いんだけどな…… そうだ、むしろきつい仕事させれば、それに懲りてやがて僕に近づかなくなるだろう……
ふと、こころの奥に何かが引っかかったような感じがしたが、加賀谷は気に止めずに氷川に言った。
「良いとこの御曹司には向かない仕事だよ? 本当に良いんだね?」
「こころの準備は出来てる……何でもするさ、何でも」
少しだけ身を硬くして構える。
しかし、眼差しはどこまでも真剣だった。
あくまでも加賀谷の為に何かしたい、そんな気持ちが加賀谷に向ける眼差しを、強く熱くしていた。
「……それじゃ今日の放課後、またここで。僕のバイト先を紹介するよ」
目を伏せて考えながら答える。
言い終えてふと顔を上げると、目を輝かせた氷川が加賀谷を見つめていた。
「ああ! ありがとう。俺、頑張るよ! じゃ、また後で」
氷川は軽い足取りでその場を後にした。
冷たい木枯らしが吹き、辺りに枯葉が舞う。
そんな中、氷川の後姿を複雑な思いで見送っている。
――何故彼は僕に……。いくら女性と勘違いして一目惚れしたからと言っても、もう僕は男だって解りきっている筈なのに……。
加賀谷は氷川を拒絶しきれない自分に疑問を感じていた。
拒絶すれば出来るであろう、そんな自分にこころの奥で何かが引っかかっていた。
――僕は彼を受け入れようとしている……のか?
ふとよぎった考えに、加賀谷は軽く頭を振って否定した。
下を向き、ふっ、と小さく息を吐くように笑うと、さっさと校舎へ戻って行った。
「宜しくお願いします!」
加賀谷の紹介で意気揚々と挨拶をする。
詰襟を脱ぎワイシャツの袖をひじの上まで捲り上げ、加賀谷と揃いの黒いジレを身に着けている。腰には真っ白なギャルソンエプロンを巻いていた。
「氷川くんって言ったね? 特別扱いはしないから。例え超有名大学に通うお坊ちゃまでも、な」
白い前開きのシャツに黒いズボン、こげ茶色のソムリエエプロンを腰に巻いたがっしりした男が 、顎に手をやりながらとても低い、少しくぐもった声で言う。髪は短く角刈りに近い。眉は男らしく太く、目は二重で薄く
彼はこの店の主人で、名を
彼の店の名は「Clouds and wind(クラウドアンドウィンド)」。
昼間はカフェテリア、夜はカクテルバーの二つの顔を持つ。
その店は学校から少し離れた、静かな通りに面して立っていた。
通りには鈴懸けの木の並木が、紅葉で赤や黄色に染まっている。
赤い煉瓦で積まれた店の壁と、大きなガラスのはめられた木製のドア。
壁の前にはウッドデッキが広がり、白いテーブルと椅子が置かれている。
店への入り口のドアを真ん中に、壁には左右へ大きな窓が幾つも並ぶ。
赤い煉瓦の落ち着いた壁の色に、緑色のアイビーが所々這い色鮮やかに映えていた。
店へ入ると中は大きな窓から入る日差しで明るく、清潔感に溢れている。
入り口に対面してカウンターがある。そのカウンターの奥の壁の棚には、沢山の種類のアルコール、リキュール類の瓶が整然と並べられている。店の主の人柄だろうか。どこと無くお洒落な感じが漂う。
中にはウッドデッキに置かれてあるものと同じテーブルが幾つか並んでいる。
左奥のカウンターの切れたところに、古びたアップライトピアノが置いてあった。
年代物の落ち着いた古いものでは有ったが、綺麗に手入れされ現役で使われていた。
夜になると店内に心地よい
その音は決してでしゃばらず、客の憩いの邪魔をもせず、穏やかではあるが存在感を持って
その美しい音色に耳をかすものも少なくなかった。
店は昼前から軽いランチサービスを行っていて、客もそこそこに入るらしい。
夜は夜でカクテルバーとして良い雰囲気を出しているとの事。
「氷川くん、真野さんは若くしてここのオーナーでもあるんだ。僕の
嫌味交じりで言ったつもりの加賀谷だったが、氷川は全くその部分には気にも留めなかった。寧ろ、まじまじと真野を見て、不思議そうに訊いた。
「え……? お幾つなんですか?」
じろりと睨んで真野は答える。
「…二十一。二十一になったばかりだが?」
「ええっ!? 俺とふたつしか違わないのか!? 本当かよ……」
思わず本音が零れる。それを聞いた真野は
「……何か?」
「い、いいえ、な、なんでも有りません!!」
まだ労働もしていないのに、焦りから額にうっすらと汗を
そんな氷川に目もくれず、仕事に掛かるように促された。
「それじゃ、詳しい事は加賀谷くんに訊いて」
「は、はいっ、宜しくお願いします!」
氷川はもう一度頭を下げた。
秋の日の昼下がり。午後のお茶の時間で店は少しずつ客も増えていた。
ふたりのアルバイトと店の店主はすぐに仕事に追われ、彼らの一日はあっと言う間に過ぎていった。
店はあくる日の昼間も営業しているため、さほど遅くない時間で閉店する。
今日も夜の十時頃には閉店となり、後片付けに追われた。
「今日はお疲れさん。どうだ、結構きつかっただろう?」
腰に巻いていたソムリエエプロンを外しながら真野が問いかけた。
その問いかけられた当の本人は意外にも元気に答えた。
「えと、そんな事ないです。まだまだ頑張れます!」
しかしその声とは裏腹に、先ほどから歩く足取りが重くなっている事に加賀谷は気付いていた。
「……明日もあるんだよ、やせ我慢も程ほどにしたら?」
加賀谷が見かねて言うと氷川はとりわけ元気な声を出して答えた。
「いや、本当に大丈夫だから!」
そう言いながら足元が僅かにふらついたのを加賀谷は見逃さなかった。氷川の頑張りは空元気にしか聞こえなかった。
「無理して早速明日から休まれたりしたら困るからね。今夜はしっかり休んで、また明日からに備えてくれる?」
加賀谷は極めて穏やかに言うと、氷川はようやく納得したのか、じゃ、また明日、と告げて店を後にした。
からんからんと真鍮で出来たドアベルが鳴り、ドアが閉まったのを見て真野がつぶやいた。
「……吉彦、友達なんて珍しいな。人と関わりたくないって言ってるお前さんにしちゃ……アイツは特別なのか?」
真野は顎に手をやりながら、にこにこと嬉しそうに訊ねた。
「……彼、しつこいんですよ、冷たくしても
吐き捨てるように言いながら腰のギャルソンエプロンを外す。
「うーむ、そうか?……」
真野は腑に落ちないと言った風に首を傾げたが、加賀谷は時間の問題だと笑って答えた。
「それじゃお疲れ様でした。また、明日」
加賀谷は足早に店を後にした。
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