Chapter 1.




 氷川が加賀谷の歌声をはじめて聴いてから二週間ほど経った、ある日の朝。

 いつもの様に寮から校舎へ向かう途中の中庭の小道で、氷川はあるうわさを耳にした。


「なあ、学年トップの加賀谷っているだろう? アイツ、裏じゃ相当な事やってるらしいぜ。なんでも“金”の為ならなんでもするって、さ」


「何でもって……例えば何?」


「何でもって何でもさ。“金”さえ払えば、男とも寝るらしいぜ?」


「ホントかよ! ……アイツ、女みたいな顔してるから売れるかも、な? くくっ、あっははは」


 ばかばかしい、と肩をすくめ笑いながら氷川の目の前を、学生たちが歩いていく。

 暫くは耳を疑ったまま、その場に立ち竦んでいた。


――まさか!? アイツが? そんなハズ無いだろ!? ……でも、あんな店で唄ってたしな。裏じゃ何やってるか分からないってのは事実かもな……。ひょっとしてこの間の余計な恥をかかされた、借りを返す思ってもみないチャンスかも? ……ま、根も葉もないうわささ、どうせ嘘だろうからせいぜいからかってやろう……


 そう思った氷川はその日の講義の後、廊下を歩く加賀谷に声をかけた。









「ども、この間はすみません、俺、勘違いして」


「……ああこの間の。……店での事は、お願いですから学校では口外しないで下さい」


 詰襟のホックをきちんと閉めて、学生帽を脇に抱えている姿は間違いなく男性そのもの。

 しかし線の細さや色の白い肌、切れ長の目に長いまつげ、さらりとした細い髪など顔立ちには自分と同じであるはずのを感じさせない美があった。

 氷川の顔をちらりと見やり、俯いて視線を逸らした加賀谷はまるで人目を気にするように、そそくさとその場を去ろうとした。

 それを見た氷川は、にやりと笑うと自己紹介をした。


「俺、氷川悠一。みんなは悠一って呼んでる」


「僕は……」


 氷川が続きを遮る。


「知ってるよ、加賀谷吉彦って言うんだろ? なんたって学年トップだもんな。……それに色々と有名だし」


「色々と?」


 眉をしかめて加賀谷が訊き返す。


「ああ、色々と、ね。……ところでさ、話があるんだけど……大事な話なんだ。今夜、俺の部屋へ来てくれないかな。部屋番号は三二〇号室だから。 大事な話なんだ、必ず来いよ、絶対な!」


「あ、あの……!」


 氷川は加賀谷の返事を待たずに、言うだけ言ってその場を走り去っていった。

 その背中を困った顔をして見送る、加賀谷。

 しかしそれもほんのつかの間で、すぐに廊下を歩き出した。

 まるで、ほんの少しの時間も惜しんでいるかの様に。


 それは加賀谷がバイトを幾つも抱えていた所為せい

 今日もこれから国立図書館の司書の補佐をする為、一刻も早く図書館へ向かいたいと思っていたところだった。

 “歌姫”も数あるバイトのひとつに過ぎなかった。

 ただ、加賀谷にとっては、唯一“本当”の自分をさらけ出す場所でもあった。

 歌う事だけは……加賀谷にとって、特別な事だった。











「あの……大事な話って、何ですか?」


 その夜遅くになって、加賀谷は氷川の部屋を訪ねた。


 寮の学生はひとりに一部屋があてがわれ、その時代にはまだ珍しく洋風の造りでホテルのような贅沢さがあった。

 それなりに高価な家具が置かれ一般階級の人間には物珍しいものばかり。

 氷川の部屋にも、いかにも高価そうな重厚で落ち着きのある木製のデスクと一緒にあつらえたであろう椅子が置かれ、窓には刺繍が金糸銀糸で彩られた分厚いカーテンが下がっていた。

 壁際には大きなベッドが置かれ、その横には猫脚のサイドテーブルに、ステンドグラスで出来たシェイドのランプが置かれている。

 ベッドに腰掛けている氷川は、ドアの前に落ち着き無く立っている加賀谷に話を切り出した。


「突然で何だけど……こんな話を耳にしたんだ。……君って“金”の為ならなんでもするって。……それホントなのか?」


 凄く真面目な顔をして氷川が尋ねた。


 加賀谷は黙って立っていた。

 部屋へ入ってきた時の、落ち着きの無い態度は一変して、急に顔から表情が無くなった。

 落ち着いたと言うよりは、冷めた眼差しで氷川を見つめている。


「黙っているとこを見ると……ホントなのか……」


 真剣な面持ちで下を向き考え込む、そんな氷川に加賀谷は否定もせず、ただ黙ったまま立っていた。


「それじゃ、俺の言う事聞いたら、金、好きなだけやるよ。……なんでも、男とも寝るんだって?」


 氷川は今までの態度を豹変させ、にやりと笑って腕を組んで加賀谷を眺めた。

 その言葉にすら加賀谷は反応しなかった。


「いいんだな? 俺と今夜一晩、過ごして貰おうか」


 全くそんな気は無く、ただ加賀谷の困った顔を見てみたい、からかって笑いものにしてやろう、そんな程度の軽い気持ちで放った台詞だった。

 氷川は部屋の照明をサイドテーブルのランプだけ残して全て消した。

 ほの暗い部屋の中、ランプのシェイドからこぼれる柔らかい灯りに、硬い表情の加賀谷の顔が照らし出される。


「先ずは……そうだな、クチでしてもらおうか?」


――どうせ、出来ません、そんなんじゃないです、とか言って、オロオロしだすだろう……早く言えよ!


 内心そんな風に思いながら、おもむろに立ち上がるとサイドテーブルの引き出しから金を取り出した。

 その金をぽんとテーブルの上へ投げる。

 その金額は加賀谷が三ヶ月掛かって稼ぐバイト料に匹敵していた。


 無造作に投げつけられたその大金を見て加賀谷の目が、深海に沈むように深く、静かに冷めていく。


 氷川はどすっと音を立ててベッドへ座り、加賀谷をからかうように鼻で笑いながら見上げていた。

 加賀谷は無言で、ベッドに腰掛けている氷川の足元に跪き、下から顔を見上げた。


「脱いでくれますか?」


 抑揚の無い、冷めた声で言う。

 顔も完全に無表情だった。


 そんな加賀谷を見てにやりと笑うと、見下すように言った。


「脱がしてよ? それくらいサービスしてよ?」


 ますます加賀谷の眼差しが冷たくなる。

 その奥で青い炎がゆらゆらと燃えている様だった。

 温度を感じさせない、青い炎。


 加賀谷は氷川のベルトのバックルに手を掛ける。

 するりとベルトを緩め、ファスナーを下げる。

 腰に手をやり、下着ごと下へ引きずり下ろした。


「おい、乱暴にするなよ?」


――さて、どうするのかな? まさか、本気じゃないだろう?


 氷川はからかい気分で、ニヤニヤしながら見下ろしていた。

 まだ、全く硬くもなっていないソレを加賀谷は片手でつまみ、その先端をクチへ持っていく。

 先ず、くちづけた。


 その瞬間、まるで電気が背筋を走るかのごとく、快感が氷川を襲った。


「はっ!?」


 思っても見なかった加賀谷の行動に、驚き、焦り、赤面する。


 加賀谷は続けて軽くクチに含んだ。

 生ぬるい口内の温度が、ソレを包み込む。

 口内の柔らかさと、舌先が先端に当たり擦れる。

 言いようの無い快感が氷川をもてあそび始めた。

 すぐにソレは形を成し、硬く、熱く、加賀谷のクチの中で容積を増して行った。


――まさか、ホントにヤるなんて! それにしたって、なんでオトコのコイツにこんなに俺、反応しちゃってんだよ!? こんなはずじゃ……!!


「ひゃぁっ……!」


 思わず声を上げてしまった。

 はずかしめているつもりが、自分の方が快楽に翻弄ほんろうされ始めている。


 加賀谷は見せ掛けだけの愛撫を続けた。

 含んだソレをクチをすぼめて、締め付ける。

 軽く前後にクチを動かし、唇で扱く。

 動きを止めて、先端を甘噛みする。

 舌先で先端のくぼみを突付き、刺激する。

 括れた境目を舌先で、何度も繰り返し這うように舐める。


「……ひゃっ!……ひっ、くぅっ、……ひゃあっ!」


 めくるめく快感の波が氷川を襲い、抗う術も無く溺れて行く。

 羞恥も自我もプライドも全てが融かされて、ただ後から後から湧き上がる快感に呑まれるのみ。

 行為の所為せいで、生理的に身体が反応して熱くなるのとは別に、胸の奥の底の方で、何かに火が点いた様な熱いものを感じる。

 今まで生きてきた中で、氷川は始めて原始的な“生”を感じた瞬間だった。

 “性”によって覚醒した“生”、すなわち生きる本能。本能が加賀谷自身を求め始めていた。


――初めて女を抱いた時だって、こん なに……き、気持ち 良くは、なか っ た……


「んあっ……くはっ!……ひゃあぁぁっ!!」


 思考回路はとっくに働くのを止めていた。

 加賀谷から受ける快感は、氷川をひたすら堕としていく。

 ベッドへ仰向けになり、背中を弓の様に反らして仰け反る。

 呼吸は艶を帯びて荒くなり、嬌声は留まることなく、その唇から漏れていく。

 加賀谷から与えられる強い快感に、息がままならず酸欠になり涙までもが流れ出す。

 ベッドにはその涙と、締まりの無い口端から零れ出す唾液と、顔中から吹き出る汗とで大きな染みができていた。


 限界が近いのか、身体を細かく震わせはじめる。

 それに気付いた加賀谷は、一気に氷川のモノを丸呑みした。

 その瞬間、声にならない悲鳴を上げて、氷川は昇り詰めた。

 加賀谷のクチへ放たれたソレは、すべてを放ちきるまで時間を要した。

 目を伏せて、無表情のままソレをごくりと喉を鳴らして嚥下えんかする。

 シェイドからのあたたかな灯りに照らし出されるその眼差しは、終始冷たいままだった。


 加賀谷は立ち上がって氷川を見下ろした。

 ベッドの上で仰向けになり、荒い息を整えようともせず、全身を重力に預けている。

 意識が飛んで朦朧もうろうとしたその眼差しは、とろんと中を彷徨さまよい、加賀谷が視界に入っても無反応だった。

 そんな氷川に冷たく一瞥いちべつをくれると、テーブルの上に有った金を取る。

 ズボンの後ろポケットに無造作に突っ込と、そのまま振り返らずに部屋を出て行った。


 パタン、と遠くでドアが閉まる音を聞き、薄暗い部屋の中で氷川の意識は途切れた。















 あくる日。


 氷川は加賀谷を探していた。

 校舎内をくまなく探す。

 必至で探すその様は、普段のマイペースな氷川とは別人だった。


――何処にいるんだ!? 俺、加賀谷に伝えたい事が有るんだ、出て来い、加賀谷!!


 氷川は中庭へ出ていた。

 さっきまで誰もいなかった、けやきの下にいつもの姿が有った。


「加賀谷!!」


 その声にゆっくりと振り向く。


 振り向かれたその眼差しは、冷たく青く人を寄せ付けようとしない、凄みの有るものだった。

 辺りの空気が緊張して、冷たくぴんと張り詰める。


 一瞬、氷川はたじろぐが、息を呑み、言葉を放つ。


「俺の他にもあんな事、したりするのか? 金ならいくらでもやるから、他のヤツにあんな事、するな!!」


 その目は真剣で、真っ直ぐ加賀谷を見つめていた。

 加賀谷は一瞥いちべつをくれると、抑揚のない声で言った。


「……後にも先にも、あなたが初めてです。……でも、金の為なら……」


 遮るように氷川が叫んだ。


「やめろ!! やめてくれ、頼むからもう二度とやらないでくれ」


 両手を硬く握り締め、俯き肩を震わせている。

 とても辛そうだった。


「何故? あなたには関係無いでしょう?」


 冷たい眼差しの奥で、青い炎がゆらゆらと揺れている。

 加賀谷は怒りを抑えていた。

 うわさ鵜呑うのみにして、金に任せて人を支配しようとした、愚かな男に向けられるのは、冷ややかな言葉だけ。

 初めて氷川と逢ったときの彼の真剣な眼差しに、加賀谷は少なくとも悪い印象を持っていなかったのを、氷川は知る由も無かった。

 加賀谷の冷たい、射抜くような視線に、俯いて顔を赤くした氷川が小さな声で呟いた。


「……俺が嫌なんだ、俺が……」


「!?」


 加賀谷は目を見開いて驚いた。


――あんな事をしておきながら、今更何を言っているのだろう? 何を考えているんだ?


 下を向いたまま視線を合わさずに氷川は続けた。


「……俺、本気で加賀谷の事、女性だと思って。その……一目惚れだったんだ。だから、友達に笑われて恥ずかしくて……加賀谷は全然悪くないのに、俺、恥をかかされた仕返しをしてやりたいなんて、バカな事考えて……。本当に悪かったと思ってる。すまなかった……この通りだ。……俺の事、許してくれないか……?」


 力なく項垂れて唇を噛み、握りこぶしを作った手は僅かに震えている。

 自分の愚かな行動を、心底後悔しているようだった。


 加賀谷は素直に謝る氷川に黙ったまま背を向けた。


「あ、あの……! ゆ、許してくれなくてもいいから、ひとつ、お願いが有るんだ!」


 氷川は歩き出した加賀谷の背中に向かって叫んだ。

 少しだけ躊躇ためらって加賀谷は足を止めた。

 そのまま、振り返らずに聞く。


「その、昼休み、中庭で練習しているだろう? ……歌、聴いててもいいか?  邪魔にならないように木の陰にいるから」


 加賀谷は背を向けたまま僅かに頷いた。

 ぴんと張り詰めた空気が、ふっと緩む。

 加賀谷を包む空気が少しだけやさしくなった。


 加賀谷はずっと気づいていた。二週間前のあの日から。

 木の陰に隠れるようにして観客リスナーがひとり、熱心に聞き耳を立てていることを。

 それが氷川であることも、あの日から毎日来ているのも、全て知っていた。


 「そっか、……良かった。ありがとう」


 加賀谷は振り返らず僅かに唇の端を上げ、ほとんど分からないような微笑みを残し、その場を後にした。

 氷川はその背中を見えなくなるまで見送っていた。


 葉を生い茂らせたけやきの小枝が風に揺れる。

 氷川の頭の上から加賀谷の背中へ、ふわりとさわやかな風が吹いていった。


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