Amazing Grace ―再会の約束―

Prologue.



 それは古びたピアノのある、落ち着いたバーでの事。

 俺は同級生の悪友たちと一緒に連れられて入ってきた、だけだった。

 まさか、俺の一生を左右する出来事が起こるとは、夢にも思っていなかった。

 初めて逢ったときの、あの胸の高鳴りは、今でも忘れない。





 「Amazing Grace ―再会の約束―」






 時は太正、一九二〇年代のこと。

 文明が欧米化の波に呑まれ、男性の頭からは髷が無くなり、代わりに短髪で帽子をかぶり、 服装は羽織袴から、蝶ネクタイ、ベスト、スーツへと換わり、女性も結っていた髪を短く切り、着物の変わりにワンピースを着て、日傘をさし、ヒールの高い靴を履く。

 そんな華やかな衣服で街を歩く若い人々が増え、往来は馬車と車が同時に行きかい、賑やかさが道一杯に溢れていた、そんな時代。


 街は活気に溢れ、新しい文化がどんどん広がり、それを吸収して、また成長する。

 文明の発展もさることながら、経済の発展も著しく成長を遂げる。

 色んな方面で成功したパイオニアが新しく華族階級へ昇格し、爵位を授かる事も珍しくなかった。



 そこは由緒有る名門校。

 今で言う、有名私立大学に匹敵する歴史有る学校。

 高校三年、短大二年のエスカレーター。

 ここを卒業して後、士官学校へ行き、陸海空の各軍隊の高官になる者も少なくない。

 軍隊へ入隊せずとも、各々の家の後継者として、将来を約束されている者が殆どである。

 そんなエリート学校へ入学できるのは華族、または裕福な上流階級の子息のみ。

 学才を買われ、奨学生として入学するものもいるが、それは殆ど稀な事。


 彼もそこの学生だった。





「おーい、悠一! 今夜空いてるか?」


 呼ばれて振り返る青年。


 背丈は高くも無く、低くも無く、中肉中背。寧ろ痩せ気味で、特別運動もしてなさそうな、ごく普通の体格。

 ただ、ひとつ目を見張るのはその色の白さ。

 肌が露出している部分は、透き通るように白く、張りが有る。

 顔は良く見ないと分からない程度のそばかすが有るくらいで、白い事には変わりが無い。

 その顔も整っていて、目はつぶらで黒目がち、鼻筋は真っ直ぐ通っていて、唇は少しだけぽってりと厚く、艶やかで綺麗な赤い色をしている。

 髪は少し硬いのか、それとも長さの所為か少しだけはねている。

 その長めの黒髪は、白い肌に良く映えていた。


 全体的な印象は、これと言って特別、美男子と言う訳でもなく、どちらかと言うとおとなしい、穏やかな感じの青年だった。ただ、赤色のフレームの眼鏡の奥に有る眼差しは、何処と無く覇気が感じられない。


「んー? 何か用?」


 明らかに興味がなさそうな、そんな返事をした。


 彼の名は氷川悠一ひかわゆういち

 昨年の春にこの大学へ編入し、上流階級の一員として学生生活を過ごしていた。


「今夜、いいとこ、連れてってやるよ、空いてるだろ?」


 全寮制の学校で、夜、出歩くとなると、明らかに規律違反である。

 しかし、そんな事はお構い無しに誘いを掛ける。


「……別に、いいよ。どうせ、暇だし」


 これと言って何の目的も無く、ただ、毎日を過ごしていた彼にとって、その誘いは苦にはならなかった。


「よし、じゃ夕食の後、何時もの所で。じゃ、またな」


 氷川は中でもランクが下の方の連中といつもつるんで遊んでいた。

 言わば『不良グループ』に当たる連中である。


 今夜もいつもの様に、外をうろつく、ただそれだけの事だった……はずだった。






「おう、こっち、こっち」


 氷川はいつものメンバー三人と、とある店の前へやってきた。


 時間は夜十時を少し過ぎている。

 夜風が涼しく心地よい秋の初め。

 夜空には丸い月が高く浮かんでいた。


「此処の店、なんか有名らしくして、さ」


 外観は重厚な煉瓦作り。

 窓も厚いガラスがはめ込まれ、欧風な作りになっている。

 外の歩道も石畳で、店に沿ってガス灯が灯っている。

 その淡いガス灯にぼうっと照らし出される店構えは、まるで日本に居る事を忘れさせるようなそんな趣さえ感じさせる。


「じゃ、行くか」


 飴色をした、古い木製の重みの有る扉をそっと開ける。

 中には大勢の客が居た。


 扉と同じくらい古い木製の、いい飴色をした、丸いテーブルがいくつも並んでいる。

 テーブルの真ん中には、銀で出来た品のいい燭台が白いろうそくを立てて、柔らかな明かりを灯している。

 その横には一輪挿しが、赤い薔薇を挿してさりげなく置かれていた。

 それらのテーブルには、それなりにきちんとした身なりの男女がそれぞれにグラスを手に取り、酒を酌み交わしくつろいでいる。


「おい……。場違いじゃねーのか?」


 氷川は明らかに自分がいていい場所ではないと思い、扉へ戻ろうとしたその時だった。


「おおー“歌姫”の登場だ!」


 にわかに客がざわめき立つ。

 その大勢の客の視線の先を辿った。


 中央に小さなステージがある。

 ステージと言っても、フロアから少しだけ高くなっている程度で、舞台袖などは無い。

 そのステージの左側に古いグランドピアノが蓋を開けて置いてある。

 その陰からひとり、ステージの中央へ歩いていく姿があった。

 とたんに拍手が大きくなる。


 どうやら“歌姫”の登場である。

 ステージの真ん中で深く一礼すると、大きく息を吸い込み、胸に手を当てて、ゆったりと歌い始めた。


「………これが……人の声!?」


 氷川の身体に電気のような衝撃が走った。


 あたりの空気を振るわせるその声は、とても澄んでいてやわらかい。

 時に強く、時にやさしく。何処までも高く伸びて、天にも届きそうな、その高音。


 この世のものとは到底思えなかった。





    Amazing Grace! How sweet the sound

    -アメイジング・グレイス- その素晴らしい響き


    That saved a wretch like me!

    私のような者にまで、救いの手を差し伸べてくれる


    I once was lost, but now I am found

    見失っていた道を、今、私は見つける事が出来た


    Was blind, but now I see.

    盲いていた私の目が、今は見えるように





 歌うその姿は、今流行のショートカット。

 さらさらの髪が少しだけ赤みががっていて、白い綺麗な肌に映える。

 細身のスレンダーな身体が背筋をピンと伸ばし天に向かって唄う様は、さながら教会に有る女神像のようで。

 大きめのゆったりとした白いシャツに、細身の紺のパンツを穿き、片手を胸に当て、もう片手を天に向かって伸ばす。


 その儚げで、繊細な容姿とは裏腹に、高く、綺麗で尚且つ、 凄みさえ感じさせるその声は、氷川のこころを一瞬で捕らえた。


「……おい、どうした? 悠一?」


 僅かに肩が震えている。

 目はステージの人物に釘付けとなり、回りの声も耳に入らない。完全に“歌姫”の虜になっていた。


「俺……感動した。……話してくる!」


「お、おい、悠一、待てよ!」


 氷川は友人の声も聴かずに走り出した。その後を少し遅れて、友人たちが追いかける。

 ステージから降り、フロアを客の声援に応えながら歩く“歌姫”に、後ろから声をかけた。


「あ、あのっ!」


 息が切れている所為か、それとも緊張している所為か、次の言葉が出てこない。

 膝に手を付いて呼吸を整える氷川に“歌姫”は振り向いた。


「……何か?」


 不思議そうに見つめるその眼差しに、氷川は自分の想いをぶつけた。


「お、俺、氷川悠一と言います。……感動しました、貴方の歌に。 ……この世のものとは思えませんでした。……。俺、貴方の事がもっと知りたくて……お願いします、俺と付き合って下さいっ!」


 一礼してすぐに頭を上げる。

 氷川の眼差しは真剣に“歌姫”を見つめていた。

 口から出た素直な思いは、“歌姫”のこころを動かしたかのように見えた。


「えっ!……」


 “歌姫”は一瞬驚いて目を丸くしたが、氷川にやさしく微笑むと、すぐに困惑した顔をした。


「お、おい、悠一!? お前何言ってんだよ?」


 友人のひとりが氷川に声をかけようとしたが、他のふたりが笑いながらそれを止めた。


「何が可笑しい? 俺、本気なんだよ!」


 眉をしかめて氷川が言うと、ますますふたりは笑い出した。

 止めに入った友人はバツが悪そうに氷川を見ていた。


「あの……。“歌姫”なんて呼ばれているので、よく間違えられるんですけど、 ……その、ごめんなさい、僕は……男です」


 “歌姫”が申し訳なさそうに答える。

 氷川はすぐにはその言葉が飲み込めなかった。


「……へ? 今、何て? ええっ!? お・と・こ……!?」


 鳩が豆鉄砲を食らった、とはこの事か。

 氷川は目を丸くし、口を半開きにして、訊き返した。


「……はい」


 改めて“歌姫”を見る。


 確かに身長は、自分よりほんの少し高い。

 頭から顔、胸元へと視線を移す。


――あ、あれ? はだけている胸元が……まっ平ら!? いいっ!? の、喉仏が……!?


 ぽかんと開いた口が塞がらない。

 苦笑いをして答える“歌姫”と間抜けな顔をした氷川をみて悪友たちは堪えきれずに大笑いした。


「ゆ、悠一! しっかりしろよ、男も区別、つかねーのか!?」


「あんまり笑わせるなよ、悠一!」


「……っ! 畜生!」


 氷川は自分が男に告白した事をやっと自覚し、笑われている事に急にに恥ずかしくなって、いたたまれずにその場を飛び出した。


――あれで男かよ!? 畜生、余計な恥かいちまった! くそっ!


 店を飛び出し、暫く勢いのまま走っていたが、息が上がってふと、足を止める。


「ふう……。おとこ、なんだよな……。なんでこんなに胸がドキドキするんだろう?」


 ふと、“歌姫”の事を思い返してみる。


――あの、全身に走った衝撃は……? いいや、気の迷いさ。動悸だって、走ってきたからさ、そうだろ、そうさ!


 氷川は気付いていなかった。

 走り出す前から胸は高鳴り、頭は“彼”でいっぱいになっていた事を。


「ええーい! 帰ってさっさと寝ちまおう!」


 胸の高鳴りを押さえ込み、氷川は寮へと帰っていった。










「昨日はどうしたんだよ、先に帰って」


 あくる日。

 昼休みの食堂で氷川がひとりで食事をしていると、何食わぬ顔で、悪友のひとりが隣に座る。


「……何言ってんだよ、俺を嵌めたくせして」


 氷川は横を見て呟くと、ついっと前へ向きなおし、食事を続けた。


「……いや、俺もアイツがあんなところで唄ってるなんて知らなかったからさ」


 頭をかきながら申し訳なさそうに言った友人に、氷川は驚いて叫んだ。


「し、知ってるのか!? 何処の誰なんだよ、アイツ!」


 思わず腰が浮いて半ば立ち上がって訊く氷川をなだめてその友人は言った。


加賀谷吉彦かがやよしひこって言うんだよ、名前くらい、聞いた事あるだろう?」


――加賀谷吉彦……。確かに何処かで聞いたような……。


 氷川は思い出せないと言った風に首を傾げた。


「……お前、試験の順位表のトップ、見たこと無いのか? 学園始まって以来の秀才と言われる逸材だとか。……お前の隣のクラスだぞ?」


 一瞬、ぽかんと口を開けて、すぐさま我に返る。


「え? ええええーっ!? 学年一位!? っつーか、俺の隣のクラスのヤツなのか!?」


 呆れる友人に真顔で訊く。


「何でも学才を買われて、奨学生としてここに通ってるらしいんだ。全寮制のこの学園では特例らしいが」


 上流階級の子息が殆どのこの学園で、一般の人間が通うとなれば、かなり異例の事である。

 そのうえ、寮にも入らないとなると尚更の事。

 これだけ色んな意味で目立つ人物を、氷川は知らずに一年と半年を過ごしてきた訳である。


「それにしても、本当に悠一って、してるよな、アイツを女と見間違えるし。お前ぐらいじゃないのか、アイツの事知らねーの」


 軽く笑われ、昨夜の恥ずかしさがまた込み上げて来る。


「……フン、悪かったな」


 顔は至って冷静を装っていたが、内心、穏やかではなかった。


――畜生、この借りは必ず返してやる! アイツが女みたいな格好で、あんな声で唄うからだよっ! くそっ!


 そうそうに食事を終え、氷川は友人を後にし、食堂を出た。





 頭に血が上ったまま、何処へ行くでもなく歩いていたが、ふと我に返って気付く。


「そう言えば、寮に忘れ物してたっけ。午後からの講義に参考資料が必要だって言ってたよな……。 取りに戻るか」


 授業のある昼間はほとんど通る事の無い、寮へ続く中庭を目指して歩く。

 校舎と寮はすぐ側に、背中合わせに立っていた。

 校舎の表門からはちょうど陰になり、寮の建物は見ることは出来ないが、校舎と寮の間を繋ぐ小道があり、寮生はそこを毎朝通って学園まで通っていた。

 その小道を挟むように、けやきの林がある。

 下は芝生が植えられ“中庭”として寮生の憩いの場となっていた。


 寮の煉瓦作りの壁の渋い赤と、生い茂るけやきの緑が鮮やかに目に飛び込んでくる。

 秋の空は青く澄みきって何処までも高く、やさしく吹く風は涼しく、頬を撫でていく。


 氷川が中庭に足を踏み入れたとたん、何処からかその澄んだ風に乗って、微かに歌う声が聴こえてきた。


「……ん? この声どこかで……あ、アイツの声だ!!」


 あたりを見回す。

 無意識のうちに氷川は真剣に声の主を探していた。

 風のって聴こえる微かな声を頼りに中庭を歩く。


 寮に近い、一番大きなけやきの下にその声の主が立っていた。

 氷川はゆっくりと近づく。

 そっと木陰から様子を伺った。


 大きな幹に背を向け、伸ばす背筋は、天に向かって伸びている。

 その様は、けやきとひとつになり、自然に溶け込んでいた。

 まるで頭の天辺から発しているその声は、あの夜と同じ、高く、何処までも澄んでいる。

 ただ昨夜と違うのは、自然の光の中で歌うその姿が、木漏れ日を受けきらきらと、とても眩しかった事。


 氷川はその眩しさに目を細め、暫く見惚れていた。


「……。 誰?」


 ふと視線を感じ、加賀谷が振り向いた。

 慌てて幹の陰に隠れる。


 加賀谷は暫くこちらを見て首を傾げていたが、ひとつため息をつくと向き直り、すぐに歌い始めた。


――ああ、びっくりした。見つかるかと思った……。って、別に俺、 何にもしてないじゃねーか。何でこそこそしてるんだ?


 氷川は頭を掻きながら、そっとその場を離れた。


――あんなところで練習してたなんて……。


 何故か頬が緩んでくる。

 無意識のうちに、加賀谷の声が再び聴けた事を喜んでいた。


――明日も同じ時間、同じ場所に来れば、また、聴けるかな……。


 その日から昼休みは中庭へ行くのが、氷川の唯一の楽しみとなった。


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