第13話 手紙
穏やかな日差しが停車している車窓から射し込む。
あたたかい陽気に包まれてふたりを乗せた帰路の列車は発車の時刻を告げた。
動き出した車窓から懐かしい街並みを見て、思い出したように氷川は昔話を始めた。
「俺さ、合唱部だったけどコンテストに本気出す学校だったから文化部というより体育会系のノリで基礎練やるから腹筋背筋ランニングとか当たり前だったんだよ」
懐かしそうに話す氷川に加賀谷は知らないはずのその過去を懐かしむように目を細め、ふっと
「全国大会準優勝だもんね」
「下手な運動部よりはずっと鍛えられて、体力もスタミナもあったよ」
右腕を上げて軽く曲げ、力こぶを作ってみせるがそれはあくまでも体裁だけで。
一瞬加賀谷は考えてから、ぼそりとつぶやいた。
「だったら……今も筋トレ、やったらいいのに」
「だ-か-らー、めっちゃ腹減るんだよ! あの頃はお袋の弁当だけが唯一の楽しみでさ」
氷川は母親から手渡された紙袋の中を覗いてみた。
それは何気なく入っていた。
「え……」
中を見たまま固まっている。
「悠一? どうかしたの?」
加賀谷に声を掛けられ、恐る恐る取り出したそれは、一通の手紙だった。
氷川は黙ったまま、それを加賀谷に差し出した。
「え? それ僕宛なの?」
受け取る加賀谷の手も、それを渡す氷川の手も、緊張して思うように力が入らない。
両手で落とさないよう下から包み込むように封筒を受け取った。加賀谷のその手は少しだけ震えていた。
「手紙だなんて何を改まって……。なんか……ヤだな」
氷川は困惑しながらも加賀谷に開けてみろよと促した。
封筒を両手で大事そうに持っていた加賀谷は少し
中から出てきた便せんに
「一体、お袋が加賀谷に何を……」
気が気でない氷川は覗き込みたいのを、我慢してわざと視線を手紙から逸らす。
それに気づいた加賀谷は広げた手紙を自分の身体の前から氷川の方へと身体半分差し出した。
「え……」
「一緒に読もう」
差し出された側の便せんを手でそっと支える。ふたりでひとつの便せんを持ち、ゆっくりと目でその
『加賀谷くん、夕べはやけどさせて、ごめんなさいね。
あの時、とっさにかばってくれたお陰で私のほうは全く無事でした。
本当にありがとう。
でも、素直にすぐに言い出せなくて。
正直な気持ち、まだ、全てを受け入れる事が出来ません。
加賀谷くんが良い人だとは分かっています。
悠一の態度を見ていれば、加賀谷くんの事を大切に思っている事も、 加賀谷くんが悠一の事を大切に思っている事も。
分かってはいるのですが、胸の奥でまだ、溶け切れないものが残っているんです。気持ちがついていかなくて。
だから…もう少し時間を下さい。
私も悠一の幸せが一番です。
そして加賀谷くんもそう考えているのだと思います。
同じ気持ちでいるのなら、必ず分かり合えるはずです。
どうか、こんな母親ですが、分かってやって下さい。お願いします。悠一の母より』
読み終えた加賀谷は
下を向き、手紙を持つ手がかすかに震えて、それでも手紙を落とすまいとぐっと力を入れる。
ほとんど聞き取れないほどの小さな声で手紙に向かってつぶやいた。
「……ありがとうこざいます。ありがとう、ございます……」
その声は震えて、掠れている。明らかに泣きそうになっているのを堪えている、そんな声だった。
それを見ていた氷川の方が涙で目を潤ませていた。
「加賀谷、ありがとう。ありがとう……」
氷川も目を潤ませたまま、
「僕、悠一に出逢えて、本当に良かったと思ってる……。これからも一緒にいてね」
氷川は加賀谷の目を見つめ、ひとつ深く頷いた。
加賀谷を抱き寄せてしまいそうになるのをなんとか堪えて、笑顔を見せた。
ふたりのまわりにやさしい空気があふれ出す。
その余韻に浸る間もなく、加賀谷が何かに気付いたように立ち上がる。
「ちょっと電話、してくるね」
そう言って席を離れ、真っすぐデッキに向かって歩いていった。
「突然なんだろう?」
氷川は思い当たるふしも無くしばらく考え込んでいたが、それもほんのつかの間、加賀谷はすぐに戻ってきた。
そして隣に座り、氷川の目を見つめる。
「ちょっとお願いがあるんだ。……武蔵野、寄って行かない?」
「へ? 武蔵野って……あ、加賀谷の実家のある……? え? まさか!?」
驚きのあまり、氷川は身体を後ろに引いてしまった。
「うん、そのまさか。僕も逢って欲しいんだ。悠一の事、紹介したい」
満面の笑みで言う加賀谷とは対照的に氷川は少しだけ浮かない顔をした。
「大丈夫かなあ。俺なんかで……。玄関先で塩、
自信なさげに頭に手をやる。
「ふふっ。大丈夫だよ。安心して。……でも、悠一、塩掛けられたら溶けちゃいそうかも」
「何だよ! 俺、ナメクジかよっ! そりゃ汗っかきだよ、俺は! どうせ水分で出来てるさ!」
拗ねる氷川が可愛くて、身体を寄せる。周りに乗客はいなかったが、場所を考えて、ほんの少し、触れただけだった。
触れたとたんに氷川は下を向いた。赤くなった顔を見せまいと横を向く。
それでも恥ずかしそうに身体は加賀谷の方へ、
ふたりの想いはひとつになっていた。
電車を降りて駅から歩く事、数分。
「悠一、ここだよ」
少し古びた感じの平屋建ての一軒家の前で加賀谷の足が止まる。石の塀で囲まれ、同じ石で作られた門構えが重厚感を漂わせている。その門から敷地へ続くアプローチには大きな敷石がはめられ、間には短く刈られ手入れされた芝が生えている。左右に広がる庭は芝が綺麗に植わっていて、所々に庭木が生えていた。
入り口のすぐそばにある
古いながらも趣のある立派な作りのその家は、
「さあ、どうぞ」
加賀谷が先に進み氷川を案内する。
引き戸のガラスが立派な玄関の前で加賀谷は氷川の前に立ち、笑顔で訊いた。
「緊張してる?」
言われるまでも無く、心臓はドキドキ、顔には汗が
「え……。なにもそこまで固くなる事、ないのに」
そっと両手で氷川の手を握り、胸の高さにまで上げるとその手を開いた。
氷川の手のひらの真ん中に人差し指で『人』という文字を書く。
「何やってんだよ……。そんなもん、効かないって」
緊張で余裕の無い氷川は素っ気ない態度を取ったが、加賀谷はお構いなしにその手のひらに顔を近づけ、真ん中に軽く口づけた。
「いいっ!? こんなとこで何するんだよっ!?」
さっきまでとは違うドキドキで胸が高鳴る。
「肩の力、抜いてね」
加賀谷がいつもの笑顔で
「……妙に余裕じゃんか」
頬を染めた氷川が
「そうかな? 僕も緊張してるよ? でも、悠一と一緒だから。
落ち着いたあたたかい笑顔を向ける。
その想いが
「よしっ! 行くか!」
大きく前へ一歩を踏み出した。加賀谷がインターフォンのボタンを押す。
すぐに玄関の扉が開かれた。年の頃は氷川の両親とそう変わらない、加賀谷の叔父と叔母がふたりを出迎えた。
「吉彦くん、お帰りなさい」
「そちらが、氷川悠一くんだね?」
にっこりやさしく
「初めまして、氷川悠一といいます。……お、いや、僕、か、加賀谷、……吉彦くんの事、本気です! 大切に思ってます!」
汗をかきしどろもどろになって、噛みながら言う氷川に、とても落ち着いた声で加賀谷の叔父が挨拶をした。
「初めまして。吉彦の叔父です。悠一くん、君の事は吉彦から聞いてます、気を楽にして下さい」
にっこり微笑んで話すその目は穏やかであたたかく、氷川の事を初対面から受け入れている、そんな眼差しだった。
「さあ、立ち話もなんだから、こちらへどうぞ、お茶の用意が出来てますから」
叔母が頭を軽く下げ、宜しくね、と氷川に告げて、居間へ案内した。
案内されたその部屋はたたみの間で、長い座卓を囲むように人数分の座布団が敷かれている。叔母がその座布団を手で指し、座るように勧めるとすぐに出ていった。ふたりは勧められるがまま座布団につく。
部屋の奥には床の間があり、そこには淡くやさしい画風の水墨画の掛け軸が下げられ、その下に花が生けてあった。薄く平たい信楽焼きの
床の間から縁側の方へ視線を移すと、先ほど玄関先で見かけた手入れの行き届いた庭が一望できた。見事な庭木と、バランスよく配置された置石の数々。所々苔むしていて、和の趣を充分に漂わせている。
そんな中でも、紫木蓮が見事な花を付けていた。濃い紫に染まった大きな花はとても美しく、春の恵みを受けて咲き誇っている。匂い立つほど立派なものだった。
――加賀谷はこんなとこで育ったんだな……
氷川はさぞかし育ちの良い、お坊ちゃまで育ったんだろうと思い巡らせていたところへ、 叔母がお茶と、茶菓子を持って戻ってきた。氷川の横に膝をつき、目の前へ茶を差し出す。加賀谷にも同じように茶を出すとそっと叔父の隣に座った。
「ありがとうこざいます。……頂きます」
猫舌の氷川はふぅふぅと息を吹きかけ冷ましながら少しずつ口に含んだ。
氷川が一息ついたところで叔父がしみじみと話し出した。
「悠一くんの事は吉彦から聞いてます。吉彦は今では大人しいですが、小さい頃はよくけんかをして帰ってきたものでした。何でもひとりで出来る子で、手の掛からない子でした。大抵、先に充分に考えてから行動するので、ときどき何を考えているか分からず、誤解を受ける事もあったものです」
氷川は黙って真剣に聴いている。その横で加賀谷は少し、恥ずかしそうにしていた。
「そんな吉彦は大人になっても変わらず、ひとりで何でもしてしまう。身体より頭が先なのはずっと一緒でした」
そこまで話して叔父はふたりに背を向けて、その背にあった和箪笥の引き戸を横に開くと少し大きめの、漆塗りの箱を取り出した。向きなおしてふたりの前へ置く。
「それが最近、ここ二ヶ月の間に……」
漆塗りの箱の蓋を上へ持ち上げ、開けた。
中から出てきたものは、
「これは……」
氷川が不思議そうに訊ねると、嬉しそうに叔父は続けた。
「ここにある手紙は全て、吉彦からのものなんです」
「えっ……!? こんなに沢山!?」
驚いて横に座る加賀谷を見つめた。
加賀谷は少し
「この手紙は全て吉彦が悠一くん、君の事を書いて
「ええっ!? 俺の事を!? こんなに?」
――一体、何て書いてあるんだ?
少しだけ不安になる。叔父は至極にこやかに話し出した。
「吉彦は君の事が好きでとても大切だと、こうしていられるのも君のお陰だと、それはもう、君への思いで
何通かの手紙を手に取り、ひとつひとつ、愛しみ、慈しむように眺めていた。
ふと、思いついたように続ける。
「確かに最初は驚きました。何せ愛しい人が男性だときかされ、驚かないはずは無いでしょう。 私は真剣に吉彦に止めるよう、進言しようと思ったのですが……」
中でも一番厚い封筒を手にとった。
「これが一番初めに来た手紙です。これが一番厚くて、一番君の事を思って書かれていたものです」
それは初めてふたりが身体を重ねてひとつになった、あの朝、投函された手紙だった。
氷川はただ、驚いて聴いていた。
「私たちはね、こうして吉彦が自分の思っていることを伝えてくれた事が嬉しくて。 思っていることを滅多に表に出さず、人から誤解を受け、それでも自分の事をかばいも、弁解もせず、全てを有るがまま受け入れてる吉彦が、時に
叔父は少し下を向き、言葉を詰まらせる。
その隣で叔母が口を片手で押さえ、顔を横へ背けた。
「悠一くん、吉彦のこと、これからも宜しくお願いします」
叔父は敷かれていた座布団を外すと、畳の上へ手を付き、深く頭を下げる。叔母もそれに習い、両手を付いて畳に額が付くほど深く頭を下げた。
「こ、こちらこそ、よろしくお願い致します!」
慌てて座布団を取り去り、両手を付いて、硬い身体を前へ出来る限り倒して頭を下げる。
そんな氷川をやさしく見つめながら加賀谷は隣に並んで座り、同じように頭を下げてからゆっくりと、一言一言を確かめるように言葉にした。
「僕をここまで育ててくれて、ありがとうございました。お父さん、お母さん。これからもよろしくお願いします」
「えっ……!? 今、何て!?」
叔母が目を丸くして訊き直す。叔父が信じられないといった顔をして、
「……今までそう呼べなくて、ごめんなさい。ずっと後悔してました。こうして僕が生きていられるのも全て、お父さん、お母さんのお陰です。……この家を実家として、そしてふたりを僕の両親として、ここが僕の帰ってくる場所にさせて貰っても良いですか?」
加賀谷はやさしく
「勿論だとも!……吉彦、ありがとう」
叔父の目が少し潤んでいた。叔母の方は
堪えきれないと思ったのか、叔母は茶を入れなおすと言って部屋から出て行き、叔父は零れそうな涙を見せまいと、トイレに行くと言って部屋を出て行った。
残されたふたりは、改めて座布団に座りなおす。
思い出したように氷川が言い出した。
「加賀谷……ズルいよ。もう、話してあったなんて。道理で余裕だと思ったよ」
胸を撫で下ろし、苦笑いをする。
「それにしても……よくがんばったな、偉かったよ」
氷川はそっと加賀谷の手を握った。
「悠一がけじめつけるって言って、頑張ったでしょ。僕も頑張らなきゃって、思って。 ……今、言わなかったら一生言えない様な気がして。……これで良かったんだよね」
加賀谷は氷川の肩に頭をもたれかけ、ぼんやりと前を見る。そこへさらに頭を寄せた氷川がやさしく言った。
「うん。……好きだよ、加賀谷」
前を向き、視線を合わせずにぼんやりとしたまま、氷川は加賀谷の手を握りなおした。
「うん。……僕も、悠一が好き」
寄り添いながら
「ねえ……もうひとつ、寄りたい所があるんだけど……いいかな?」
「どこへ?」
感じたままに訊ねた。
「……ついてきてくれればわかるよ」
加賀谷はあいまいな返事をした。それに氷川は一瞬だけ不満を顔に出したが、考えるのも面倒だと言わんばかりに大きくひとつ伸びをした。
加賀谷が先に立ち上がる。
「近くだから」
にっこりと笑うと氷川へ手を差し出した。その手をつかんで立ち上がるとふたりは部屋を後にした。
台所では、叔父が涙ぐむ叔母をなだめていた。その様子を見て微笑みながら加賀谷がひと言、告げる。
「ここまで来たから……。寄ってくるね」
その言葉に叔母ははっとした顔をして、財布から数枚の紙幣を取り出し加賀谷に渡した。
「これ、お花代の足しにして
加賀谷はにっこり笑うとその金を受け取り玄関へ向かった。叔父とまだ涙目の叔母が玄関先まで見送る。
「今日は、ほんとうにありがとうございました」
氷川は深く頭を下げた。
「これからも吉彦の事、頼みましたよ」
叔父が頭を下げる。ふたりの笑顔で見送られ、氷川たちは加賀谷の実家を後にした。
門を出て駅とは反対方向へと歩き出す。
数分も歩くと氷川は我慢できずに口に出した。
「なあ、
加賀谷は下を向いて少し
「ここから十分ほどで着くから……あ、ちょっと待って」
加賀谷は話している途中で、目の前にあった花屋へ駆け込んだ。慌てて氷川がついていく。
「あ、悠一はここで待ってて」
店の前で待たされながら、氷川は首をかしげた。
「今から行く所に花なんて必要なのか? 誰か入院でもしてるのかな?」
そんな事を考えて待っていると、すぐに加賀谷が紙にくるまれた花の束を両手で抱えて出てきた。良く見ると手にしているのは、花だけでは無く、なにやらビニールの買い物袋まで下げている。
「持ってやるよ」
氷川は加賀谷の手から袋を取った。その時はじめて氷川は気付いた。
「え……? これ? ……ろうそくと線香?……あ、今から行く所って!?」
恥ずかしそうに加賀谷が
「うん、報告したくて」
「ゴメン、俺全然気付かなくって」
「もうすぐだから」
ひと言告げると前を向き、そのままふたりで並んで歩く。
歩道を歩くふたり以外人影はなく、車道を走る車も歩きだしてからは見掛けない。
静かな住宅街から少し離れたところに大きな公園があった。その公園は中央が小道になっていて、その道を挟むようにして遊具が置かれている。公園を抜けるとゆるい上り坂に差し掛かった。
その見渡せる全てが淡いピンク色に染まっていた。
「うわぁ……すげー……まるでピンク色のトンネルだ……」
車道を挟んで両側に桜の並木が続く。道を覆いかぶさるように枝が広がり、満開の桜が一面を覆っていた。このところの陽気で日当たりの良いところはもう散り始めている。ひらひらと、絶え間なく舞い散るその薄桃色の花びらは、まるで雪が降る如く目の前に広がっていた。
歩道を歩くふたりの横を一台の車が通り過ぎた。その瞬間、地面に落ちたはずの花びらが再び舞い上がる。その桜吹雪は永遠に続いて時の流れを忘れさせる、そんな錯覚にとらわれそうだった。
「この桜並木を越えた、すぐにあるから」
桜並木と並行して鉄柵が続く。桜並木が途切れたすぐの角に小さな鉄製の門扉があった。それを通るとすぐ目の前に屋根のついた水汲み場がある。
「悠一、手桶に水を汲んでくれる?」
「お安い御用さ」
両手のふさがっている加賀谷は氷川にそう頼んで、手桶を持ってもらい、目的の場所へと案内した。
いくつもの墓碑が並ぶ中、とある一つの墓碑の前で加賀谷は立ち止まった。
「……報告に来たよ」
墓碑に向かいやさしく
花束を傍らに置くと加賀谷はしゃがみ込んで軽く両手を合わせ、目を閉じてひとつ深呼吸をしてからすぐに立ち上がった。
「それじゃ、先ずは掃除、だね」
加賀谷は氷川から手桶を受け取り、なれた手つきで水を掛けてきれいにごみを流していく。
そんな加賀谷を氷川はただただ見守るだけだった。
「ごめん、悠一、花を生けるのに手桶に水をもう一杯、汲んできてくれるかな?」
加賀谷が頼むと氷川は
――加賀谷、ゆっくり両親と話しな。
氷川は時間をかけ、ゆっくりと歩いて水汲み場まで戻っていった。
そんな氷川の背中を見ながら声に出さずこころでつぶやく。
――ありがとう、悠一。
後姿を見送り、改めて墓碑に向き直る。
「お父さん、お母さん、僕、今とても幸せです。 こうして今生きている事が、あの時ふたりが救ってくれなかったら、今の僕はなかったはず……。 僕、お父さんやお母さんの分まで、頑張って生きるから。そして今日来たのは、僕がもう、 ひとりじゃないって事、報告したくて。安心してね、僕、ずっと一緒にいたい人が出来たんだ。 そして、その大切な人もそう言ってくれてる。……本当に生きてて良かったと、こころの底から思ってる。 ……ありがとう、お父さん、お母さん」
加賀谷は目を閉じて、静かに両手を合わせていた。
やさしい風が吹いていく。桜並木からは離れているのに、その花びらが二枚、加賀谷の前にやさしく舞い降りた。
「遅くなってごめん。……迷っちゃってさ」
水の一杯入った手桶を差し出し、わざと明るく笑って取り繕う、そんな氷川のやさしさに自然と笑顔がこぼれる。
「ひとりきりにしてくれて、ありがとう。両親ともゆっくり話が出来たよ」
自分の行動が読まれていたことに恥ずかしくなった氷川は、顔を赤くして視線を逸らした。
「さっさと花、生けちまいなよ」
照れ隠しのためか、少しだけぶっきらぼうに言う。そんな氷川が愛しくて、加賀谷はますます笑顔になる。
「ありがとう。すぐだから」
手際よく包装紙を取り、花器に入り切らないほどの花を生ける。袋からろうそくと線香を取り出し、加賀谷はそれらに火をつけて準備を整えた。
改めて氷川と並んで墓碑の前に立つ。
「この人がそう、僕の大切な人」
加賀谷がつぶやくと氷川は一歩前へ進み出て、頭を下げた。
「氷川悠一です。初めまして。僕、か……吉彦くんの事をとても大切にします。 どうかご安心下さい。どんな時もひとりにしません。そして必ず守ります、何があっても。 僕、吉彦くんが好きです、誰よりも。……こころから愛しています。だから……お願いします、僕たちを天から見守って下さい……」
氷川は今まで見せた事の無いような、真剣な熱のこもった眼差しで、墓碑を見つめ、一言、一言こころを込めて、告白した。全てを言い終えると、深く頭を下げ、そのままで続けた。
「吉彦くんに出逢えて、俺、最高にしあわせです。今の吉彦くんが在るのは、おふたりのお陰です……ありがとうございました」
それを傍らで聞いていた加賀谷の目から涙が零れた。とめどなく
頭を起こして少しだけ照れ臭そうにしていた氷川がそれに気付き、動揺した。
「な、何だよ、俺、何かヘンな事、言ったか? な、泣くなよ、加賀谷に泣かれたら俺、どうしていいのか……」
おろおろしだす氷川を、涙が止まらないまま胸へ抱き寄せる。
「僕の方こそ、悠一に出逢えて、本当に良かった……。ありがと、ありがとう、悠一……」
力を込めて抱きしめる。氷川は泣いている子供をなだめる様に、ぽんぽんと加賀谷の肩を叩いた。
「ここ、墓地だよ、不謹慎だから離れなさい?」
肩に手をかけてそっと身体を離した。
「それじゃ、帰ろっか」
加賀谷はもう一度抱き寄せたい気持ちを抑えて、涙で濡れた目で
帰り支度を整え、その場をあとにしようと背を向けた時ふと加賀谷が氷川に頼んだ。
「ごめん……。もう一度だけ」
くるりと振り向き、墓碑に向かい両手を合わせ、目を閉じ、じっと祈る。
何かを願っているかのようだった。
「何を話したの?」
氷川が訊くと加賀谷は一瞬考えたがふっと笑ってはぐらかした。
「ええと……。やっぱり内緒」
「えっ、なんだよ、勿体つけて」
気になってしょうがない氷川は教えてくれない加賀谷に拗ねて先を歩く。その後ろを楽しそうに加賀谷がついていく。
門扉を出たところで加賀谷が氷川の手を取った。
「あっ!? 誰かに見られでもしたら……」
あわてて手を離そうとした氷川に両手を取って回り込み、顔を覗き込んでじっと目を見つめる。
「誰もいないから、ちょっとだけ。……いいよね?」
あの笑顔でやさしく
「……この桜並木の間だけ、だぞ?」
真っ直ぐな眼差しが眩し過ぎて思わず目を逸らしてしまう。
「ありがとう、悠一」
「別に礼を言われるほどのもんじゃないって」
桜吹雪の舞う中、ふたりは手をつなぎ並んでゆっくり歩く。ふたりの進む道には人通りもなく車も影を潜めている。
時の流れが止まったような、刹那の永遠。そこはふたりだけの世界。
「ねえ、悠一、来世もきっと逢えるよね」
舞い散る桜を仰ぎながら訊いた。
「何、突然?」
氷川が肩をすくめて加賀谷の顔を見る。
「だってこうして出逢えた事、とっても不思議じゃない?」
目を細めて桜を仰ぎながら、なんだか懐かしそうな顔をしている。
そんな加賀谷を見て氷川は視線を落とした。
「……別に」
「え? どうして?」
下を向いたままぼそりとつぶやいた。
「……俺、運命だと思ったから」
「うふふ……」
前を向いたまま笑う加賀谷。
「笑うところかよ?」
横を向いてその顔を見た。
ふと加賀谷も氷川の方を見て、懐かしそうに微笑む。
「ううん。……僕もそう思っていたから」
「……何だよ」
もう一度、桜を仰ぎ見る。
「僕ら、何に生まれ変わるだろう。雲? 木? それとも……」
その続きを氷川が遮る。
「何に生まれ変わっても、同じ時代ならそれでいいよ。俺、加賀谷の事、絶対見つけ出す自信有るし」
前を向きながら言うその目は真っすぐに先を見ていた。
「……妙に自信満々だね?」
顔を見ずに満面の笑みで訊く。
「だって……加賀谷の歌声、
にっこりと
氷川と視線を交わし、
「うふふ、それじゃ、声の出せる生き物じゃないとダメじゃない」
言われてから気付いたのか、思わず下を向いて苦笑いをした。
「ふっ……そうかもな」
加賀谷は繋いでいる手をしっかりと握りなおした。
「大丈夫。僕、悠一の側にいるから。いつも側にいて、歌ってる。悠一に聴こえるように、いつも、いつも……」
それに答えるように、氷川の手にも力が入る。
その時やさしい風が吹いた。枝から幾重にも花びらが降ってくる。
ふと足を止める。
穏やかな桜の舞い散る中、氷川は加賀谷の前に立ち、その目を熱く見つめた。
そっと加賀谷の両の手を取る。
「俺もこの手、離さないから。決して離さない。……これからもずっと、一緒に歩いていこう」
「……うん。いつも一緒にね」
桜がやさしくふたりを、ふたりだけを包む。
あたたかい春の日のこと。
ふたりを包む全てがやさしく見守る。
甘く香るやわらかい風、穏やかな日の光。
ふたりの未来が今、ひとつに重なった。
In My Heart ―木漏れ日の中で― 現世編 完
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