第12話 未来





「ねえ、どうかしたの? 最近よくため息ついてるけど……」

 リビングのソファに向かい合わせに座り、雑誌を読んでいた加賀谷が心配そうに声をかける。

 氷川はフローリングのラグの上に座り、テーブルに突っ伏すようにしてコーラスアレンジ用の譜面を手書きで起こしていた。その手がふと止まり、ふぅと小さくため息をつく。それは耳を傾けていないと分からないほど小さなものだった。でも加賀谷がそれを見逃すはずもなく。

 ふいに声を掛けられ、はっと我に返り答える。

「そうかな……気の所為せいだよ、気の所為せい。ほれ、プロデビューの件でさ、ちょっとナーバスになってんのかもな、俺。 ふふん、柄にも無くってか?」

 おどけて見せた氷川だが、ぎこちないのは加賀谷には分かりすぎるほどだった。

「……そっか。気の所為せい……か」

 少し淋しそうな笑顔を向ける。氷川はそれに気づかず譜面に目を戻しアレンジ作業を再開した。

ほんのしばらくその様子を見守った加賀谷は、ふと立ち上がってコーヒーを淹れにキッチンへ向かった。



 三月も終わり。今年は例年よりも温かく、もう桜が咲き始めていた。

 六月に出すデビューシングルの新曲のアレンジを氷川が一手に引き受けていた。大抵、コーラス用の楽譜起こしは氷川がやっていたため、その流れで今回のデビュー曲も氷川のアレンジがClouds and wind (クラウドアンドウィンド) らしさを出せるのではと、所属事務所のプロデューサーが進んで氷川にやらせよう、と言い出したのが発端である。その為か、最近の氷川はよく考え込む事が多くなっていた。

 しかしこの数日、特に様子がおかしい。

 今夜も氷川はいつもの様に電子ピアノとスコアブックをテーブルの上へ広げていた。電子ピアノを前にしてアレンジを考えている最中も、作詞のために詞の内容を練っている時も、ふと手を止めて考え込んでいる。

 加賀谷はそんな氷川の様子が気になっていた。



 コーヒーを淹れたマグカップを両の手に持ち、加賀谷がリビングへ戻ってきた。氷川の視界の端に入るよう、それでも邪魔にならないよう、さりげなくマグカップを置いた。手にしていた自分のマグカップをテーブルに置き、そっと向かいに座る。

 そんな加賀谷の心遣いに気づいたのか、氷川は手を止めて顔を上げた。

「……そうだよな……加賀谷にはお見通しか」

 氷川はラグの上からソファへ座りなおすと少し姿勢を正し、前にいる加賀谷の目を真っすぐに見つめた。

「……今度の土曜日、俺の実家へ行かないか?」

「えっ!? ……悠一の実家!?」

 一瞬息をのむ。想像もしていなかった突然の誘いに加賀谷は驚き、すぐに黙り込んでしまった。

「ん? どしたの? 何かヘンな事言った、俺?」

 首を捻る氷川に対し、加賀谷は少し困ったような顔をしていた。

「……その、僕を連れて行くというのは……どう、取ればいいのか……」

「ちょ、ちょっと、自信持ってくれよ。俺、もちろん加賀谷の事を大切な、俺の……恋人として……その……」

 言いながらだんだんと頬を赤くさせる。その頬を軽く人差し指で掻きながら、最後の方は下を向いて照れていた。

 加賀谷はすっと立ち上がりあらためて氷川の隣に座りなおした。その氷川の顔を見てほんの少し戸惑いながら、それでもはっきりと訊ねた。

「僕が男だって事、ご両親にはもう話したの?」

 はっと顔を上げた氷川はすぐにうつむいてしまう。

「そっか。それで悩んでたんだね……」

 加賀谷は一瞬だけ顔を曇らせたが、うんとひとつうなずくとすぐに穏やかな目をしてそっと氷川の肩に手を掛けた。

「悠一、僕は大丈夫だよ。僕も悠一が一番大切だから。でもね、ご両親にはそう簡単には受け入れてもらえないと思うんだ。だから、無理して僕を今、連れて行くことは無いと思う……」

 加賀谷のやさしさがこころにみていく。氷川は勢い良く頭を上げて加賀谷の顔を見た。そしてゆっくり、強く、かみ締めるように目を見て話した。

「俺、加賀谷とこれからも、ずっと一緒にいたい。一生そばにいて欲しいんだ。 本気だから。だからきちんとけじめ、つけておきたくて。これからプロデビューも控えてるし、いろいろ忙しくなるだろうから、今までみたいに一緒にいる時間が取れなくなるかもしれない。俺の気持ち、整理をつけておきたいんだ。……わがままでごめん。だけど、俺……加賀谷を……」

「悠一!」

 氷川の肩がふわりと加賀谷の腕に包まれる。そっと抱きしめ肩に顔を埋める。

「ありがとう。僕も、一生悠一と一緒にいたいと思ってた。……僕を連れてってくれる?」

 氷川はそっと加賀谷の腕を解き、向かい合うと真剣な眼差しを向けた。

「多分、辛い事になるかも知れないけど、俺も頑張るから。一緒に乗り越えて欲しい」

 黙ったままうなずく加賀谷を強く抱きしめた。



 外は寒の戻りで肌寒く咲き始めた桜も花を固くしてじっと耐えている。

 澄んだ月の光の明るい静かな夜の事だった。









 週末の土曜が訪れた。朝から良く晴れていて、とても暖かく穏やかな日だった。

 汗かきで暑がりの氷川は薄手のオフホワイトのプルオーバーパーカーにベージュのスキニーパンツだけで出かけようとしたが、加賀谷が羽織るものがあった方がいいとネイビーのジャケットを勧めた。氷川は絶対荷物になるだけだぞ、といいつつも大人しくそれを羽織った。当の加賀谷はカーマインの深めのVネックセーターに襟のある白のコットンシャツを着ていた。下は黒のデニム。ふたりの着替えを一晩分詰め込んだバッグを加賀谷が持つ。

 氷川は一晩しか泊まるつもりは無いからと手ぶらで行こうとしたが、加賀谷がそれじゃあんまりだと、 何かお土産のひとつでもと言い、早めに駅へ向かうことにした。


 駅前は土曜日とあって大勢の人でごった返していた。大きな荷物を抱え一人旅を楽しんでいると思われる若者や、明るい色の服装でレジャースポットに向かう子連れの若い夫婦。真新しい制服に身を包んで友人たちとおしゃべりしながら歩いていく女子高生。その横を足早に過ぎるスーツのサラリーマン。各々が目的地に向かって改札口を抜けていく。加賀谷と氷川のふたりも同じようにその混雑の中、改札口を抜けてホームへ向う。


――いつも、ここで路上ライブを楽しんでいた俺たちが、歌う事を仕事に選ぶなんて……。あの頃は思いもしなかった。そしてその歌うことで廻り合えた大切な人と今、こうしてここにいる。


 何だかとても不思議で、得も言われぬ幸せを感じて自然と笑みがこぼれる。これから起こるであろう、試練を忘れるひと時だった。


 ホームに入ると加賀谷は迷うことなく真っすぐキヨスクに向かい、何か手土産を購入していた。その様子を数歩後ろから見ていた氷川は両親への第一声を思い悩んでいた。


――まず、何て言って切り出そうか……


 難しい顔をして考え込んでいる氷川に気づいた加賀谷は、少しだけすまなさそうな顔をしてその隣へ並んだ。ホームで待っている間のほんの少しの沈黙の後、列車の到着アナウンスが響き渡る。

 目の前に停止した列車の出入り口のドアが音をたてて開く。氷川が先に乗り込み後に加賀谷が続く。自分たちの席を目で確認すると通路を挟んで隣に若い女性がひとり、雑誌を読んで座っていた。春の観光シーズンという季節の割には思いのほか乗客はまばらだった。網棚に着替えの入ったバッグを乗せ、着ていたジャケットをカーテン横のフックに掛ける。その席について氷川は同じキヨスクで購入した、ペットボトルのお茶のキャップを開けてぐいっと一口飲みこんだ。

「……さすがにビールは飲めないね?」

 苦笑いで答えた氷川は、もう一本のペットボトルを加賀谷に手渡す。それを受け取ろうと手を伸ばしてペットボトルを掴んだ、つもりだったのだが。

 ぼとっと音を立ててふたりの間に落ちた。

「どうしたんだよ、気をつけろよ……!?」

 氷川は加賀谷の手を見て言葉に詰まった。加賀谷の手が……震えていた。

「ご、ごめん! 意識してないつもりだったけど……。かなり緊張してるみたい」

 落ちたペットボトルに視線を落としたままうつむいている。辛そうな、哀しそうな顔をしている事は容易に想像できた。

「ごめん、俺、両親に何て言って切り出そうかって事で頭がいっぱいになって、加賀谷の気持ち忘れてたよ。ホントにごめん。辛いのは加賀谷のほうだよな」

 加賀谷はゆっくりと顔を上げ、弱々しく微笑ほほえんだ。

「悠一も同じだよ。どうすれば傷つけないで済むかって考えてても、 最終的にはみんな何らかの形で傷つく事になると思うって、分かっているから……。 悠一はやさしいから……。辛いのは悠一も同じ」

もう一度やさしく微笑ほほえむ。だがどこか少し淋しげだった。

 そんな加賀谷を見て氷川は立ち上がりカーテンの隣にかけてあったジャケットを下ろし、ふたりの膝に掛けるようにして広げた。

「何? そんなに寒くは……」

 そのジャケットの下でそっと加賀谷の手を握る。

「……!? うん」

うつむいて微笑ほほえみ、その手をそっと握り返す。

「頑張ろう、な」

 うつむいてつぶやくように言う氷川に加賀谷は、黙ってひとつ、うなづいた。

 しばらくして発車を告げるアナウンスが響く。ジャケットの下では握られたあたたかい手がふたりのこころも繋いでいた。




 新幹線で約一時間半。列車は目的地の長野に着いた。

改札口を出て駅前で氷川は一度、家に連絡を入れたいと携帯電話をかけた。

「もしもし? 俺。今着いたから。うん、バスで行くよ」

 氷川はたわいも無い話をしながら、切り出すきっかけを待っていた。

「あの……今日連れて来た人、本当に大切な人なんだ……。よく聞いて欲しい。実は……おと……もしもし!?」

 急に話している途中で携帯電話を振ったり叩いたりしている。

「バッテリー、切れやがった……!」

 肝心の話が出来ず歯がゆいやら、衝撃的な内容のため、少しほっとしたような、複雑な顔をしている。そんな氷川に苦笑いをし、見守っていた加賀谷が決心したようにはっきりと言った。

「今日は、僕たちが本気だって事だけでも、分かってもらえれば良いよね。頑張ろうね、悠一」

 加賀谷がいつもの笑顔を見せた。


 バスに揺られること数十分。最寄りのバス停に到着する。バスを降りて数分歩くとそこに氷川の実家があった。

 閑静な住宅街の中、きれいに刈り込まれた生垣が続く。その切れ間の門扉もんぴから見える玄関先には三色すみれの寄せ植えが色鮮やかに咲き誇っていた。二階建てのその住宅は、築十数年が経過している古さを感じさせないほど、手入れが行き届いて、住んでいる住人の性格が現れている、そんな印象を受ける。大きさは大きくも小さくも無く、いかにも一般的な家庭の、極普通の一軒家、と言った感じであった。

「よし、行くか」

 氷川は加賀谷の顔を見てにっこり微笑ほほえむと手をとって歩き出した。門扉もんぴに手を掛けてそっと開く。道路から敷地内へ足を一歩、踏み入れた。

 氷川の心臓が、自分の実家であるにもかかわらず、緊張でどくんどくんとうるさいくらいに鳴っている。玄関に立って、すぐには呼び鈴を押さなかった。

「ええっと……」

 ひとつ大きく深呼吸をする。加賀谷は胸に手を当て目をゆっくりと閉じた。同じように大きくひとつ深呼吸をする。ゆっくりまぶたを開くと氷川が正面に立っていた。その眼差しは少しの緊張と決意が込められていた。

 ほんのしばらく見つめ合う。うん、と加賀谷がうなづきふたり同時に玄関に向き合った。気持ちを確かめ合うように、繋いでいた手を一瞬ぎゅっと握ると、すっと手を離した。氷川はその手で呼び鈴のボタンを押す。

「ああー。俺。ただいま……」

すぐさま玄関のドアが開いた。

「お帰り! 遅かったじゃない、電話、途中できれちゃうし……」

 氷川の母が出迎えた。満面の笑みで久しぶりに帰ってきた息子を迎え入れる。その後ろには父親が立っていた。

「……あら? 大切な人を連れてくる、って言ってたの、どうしたの?」

 母親がいぶかしげな顔をして、続ける。

「……そちらの方は? お友達?」

 加賀谷の顔と氷川の顔を交互に見比べながら不思議そうな顔をしている。

対照的に氷川は真面目な顔をして加賀谷の背中を軽く押した。促された加賀谷が半歩前出て自己紹介をする。

「はじめまして、加賀谷吉彦かがやよしひこといいます」

 真剣な面持ちで深く頭を下げた。氷川が隣に並び続ける。

「俺、真剣だから。俺の大切な人、だよ」

  切羽詰ったような、追い詰められたような顔をしていた。母親はますます不思議そうな顔をした。

「どう見たって、男の方でしょ? へんな冗談、よしなさい」

 それを後ろで見ていた父親が前へ出てきた。

「悠一、その方がお前の恋人なのか?」

 はっきりと聞いた、その声は真剣ではあったが、咎めている様な、責めている様な含みは一切無かった。

「そうだよ、俺、本気なんだ。先に何度も話そうと思ったんだけど、なかなか言い出せなくて……」

辛そうな氷川に母親の顔色がみるみる蒼く染まっていく。

「立ち話もなんだから、中へ入りなさい。加賀谷くんって言ったね、私が悠一の父だ、よろしく」

  父親が会釈をした。加賀谷は深く頭を下げる。母親だけは信じられないといった様子で手で顔を覆い呆然としていた。

「母さん、お茶を頼むよ」

 氷川の父親が促すと、取り繕うように母親は慌てて玄関から台所へ向かった。



 氷川の父を先頭にふたりは居間へ向かう。

ソファに座るよう促され、並んで腰かける。向かいに父親が座る。先ほどの母親の様子が気にかかって自分の実家だというのに氷川はそわそわと落ち着かない様子だった。ふと台所へ目をやる。母親が震える手で茶の用意をしてたいが、ふと手を止めてさも思い出したように言った。

「ごめんなさい、悠一。お母さん、買い忘れたものが有って、ちょっと出かけてくるわね」

言うや否や、すぐさま家を飛び出して行った。

 それを見ていた氷川の父が加賀谷にすまなさそうに言った。

「私がコーヒーでも淹れようか。それまで悠一の部屋でも見てくると良い、連れて行ってあげなさい」

 穏やかにそう告げると立ち上がって台所へ向かった。氷川は荷物を持って加賀谷を二階の自分の部屋へ案内した。




「ごめんな加賀谷。やっぱり俺、どんな反応されても先に話しておくべきだったよ」

 部屋のドアを後ろ手に閉めて氷川が言う。下を向いて唇をかんでいる。

 そんな氷川を加賀谷は無理することなく、やさしい笑顔で慰めた。向かいに立ち、改めて言葉にする。

「悠一、ありがとう。真剣だって、本気だって言ってくれて……。嬉しかったよ」

 氷川は加賀谷の胸にもたれた。下を向いて顔を見せないようにしている。その目にはうっすらと涙がにじんでいた。加賀谷は愛しさと切なさでいっぱいになり、一度肩を抱きしめてから、額に軽く口づけた。

「きゅ、急に何するんだよ!?」

 唐突な行動に驚いたのと、恥ずかしいのとで頬が赤く染まる。

「元気、出た?」

 にっこり笑う加賀谷に氷川は敵うはずも無く、うんとひとつ頷いてうつむいたが、顔はもう、笑っていた。



 改めて氷川の部屋を見回す。加賀谷は自分の知らない氷川の過去に想いをめぐらせた。

「大学に入る前まではここで……」

 広さは八畳間くらいだろうか。フローリングの床に白っぽい色の壁。背の低いシングルベッドと、それに向かい合うように反対の壁際にソファベッドがひとつ。ドアから入って正面の、出窓の下に机と、そのとなりに本棚がある。ドアの左手の壁には収納家具があって意外とすっきりしていた。ベッドの頭の方にはもうひとつ棚があって、コンポやCDが置いてある。

棚だけでは足りず、軽く百枚は越えるであろうCDが、タワー型のラックに詰まっていた。

 よく見ると本棚には漫画や小説に雑じって盾が三つ並んでいる。

「ね、この盾は何の表彰のもの?」

「ああ、それは……」

 氷川は壁を指した。そこには額に入った表彰状が三枚飾られていた。

「全国高校合唱コンクール……準優勝、へえー凄いじゃない、えっ……三年連続!?」

驚く加賀谷に苦笑いで答える。

「いくら俺、金メダルよりも銀メダルの方が好きだ、って言っても……この時だけは、優勝したかったな」

「そっか、悠一でもそんな風に欲の出ることもあるんだ」

やわらく加賀谷が笑う。

「……俺にだって欲くらいあるんだぜ?」

ふっと氷川が笑うといきなり加賀谷を強く抱きしめた。

「ちょっ、ちょっと、……悠一?」

急に真顔になる。

「加賀谷だけは、誰にも渡さない」

 今度は加賀谷の顔が、耳まで赤くなって行く。

「うん……」

 見つめ合うふたりの顔が、自然と引き寄せられていく。やさしく重なり合う、唇と唇。

「うんっ……んんっ……」

より深く求め合おうとしたその時、


 コンコン!


不意にノックの音ともに父親の声がした。

「コーヒーが用意出来たから、降りておいで」

「あっ!? ああ、今行くよ」

慌てて離れる。額をくっつけあって顔を見合わせ、ふたりは思わず苦笑いをした。





「とりあえず、座りなさい」

 ソファに座るふたりを見て、コーヒーを勧める。

「いただきます……」

 加賀谷が少しだけ緊張してカップを手に取ると、氷川が先に話し出した。

「親父、黙っていたのは悪かったと思っている。何度も言おうと思ってたんだ。……お袋、ショックだったろうな」

 カップを下ろして黙って聞いている加賀谷に氷川の父親は気遣うように話し出した。

「加賀谷くん、さっきは妻が失礼をして申し訳ない。……でも、驚くのは仕方がないと思って欲しい 。私自身も驚いたのでね。ただ、私の場合はそういったことに偏見を持たない人間なので、 違和感や嫌悪感は全く無いから、安心して欲しい。悠一もそう思っていたから、 私に対しては特別心配していなかったのだろう? そうじゃないのか?」

やさしく、しっかりと訊いた。

「うん、まあ、親父は、そこんとこ、俺も知ってたし、信じてたし……」

 氷川は少しだけ、申し訳なさそうな、そんな顔をしてゆっくり父親の顔へ視線を移した。

「悠一、打ち明けてくれるのに勇気がいっただろう?」

穏やかな眼差しで労う様に話す父に対し氷川は姿勢を正し、ゆっくりと力を込めて話し出した。

「俺自身、何時いつ何処どこかでけじめをつけたいと思ってたし。なんて言ってもやっぱり理解して欲しいと思ったんだ。 俺たち自身のためにも。黙っている訳にもいかないし。むしろ時間が経てば経つほど親父やお袋を傷つけることになるし……」

真摯な態度を見せる氷川に父はやさしく微笑ほほえんだ

「悠一、ちょっと良いか。加賀谷くんとふたりで話がしたいんだが」

 その言葉に緊張したのか、加賀谷の表情が少し硬くなる。

「えー。俺もここにいて一緒に聞いていたいんだけど?」

 すねるようなその声に加賀谷の表情が少しだけ和らいだ。

「僕は大丈夫だよ。心配してくれてありがとう。悠一は部屋で待ってて。いいですね、お父さん?」

 父親は頷いて席を外すように促した。氷川は渋々居間を後にした。




 改めてふたりになると、加賀谷はやはり緊張を隠せないのか、つい、うつむいてしまった。

氷川の父はそんな加賀谷を穏やかに見つめながら、質問をした。

「加賀谷くんは、最初から同性にしか恋愛感情がわかなかったのかね?」

 顔を上げて真っすぐに父親の目を見た。

「僕は悠一さんに逢うまでは、ごく普通に女性とお付き合いしたりしていました。もちろん関係も持った事があります。ただ、悠一さんに出逢ってからは……その、僕、運命だと思ったんです。悠一さんと一緒にいるととてもやさしい気持ちになれるんです。たまたま好きになったのが悠一さん、と言うのではなく、悠一さんだから、惹かれたんだと思います。うまく言えないんですけど、ずっと昔から彼の事を知っていたような気がするんです。まるで僕たちが出逢う事がずっと前から決まっていたような、そんな気がしたんです」

 加賀谷はゆっくりと、だが力強く言葉にした。その加賀谷の瞳に真剣な眼差しを返す父親。

「悠一の事、本気なんだね」

「……はい」

ゆっくりと深くうなづく。

「……君の気持ちは良く分かった」

 氷川の父親は加賀谷から視線を外すと、どこか遠くを見るような目で話し始めた。

「私はね、高校の教師をしているんだが、昔、新任教師の頃にある生徒から相談を受けてね。 彼が言うには『僕は同性しか好きになれないんです。間違っているんでしょうか』と。 その時の私はまだ若すぎて彼の悩みを受け止める事が出来なかった。 私は彼に『それは一時的な事だから気にする事はない』と軽く接してしまったんだ。 彼の気持ちを理解してあげられなかった事を今でも後悔している」

「その彼はどうしたんですか?」

 加賀谷は身を乗り出して訊いていた。視線を加賀谷に戻した父親はふっと息を漏らすと淋しそうに答える。

「……その半年後、自ら命を絶ったよ。何の遺書も残さずにね」

再び視線を遠くに向けた。

「悲しいですね………。でも、お父さんが悪いわけじゃ……」

 加賀谷の言葉に浅くうなづく。

「そう、他に原因が有ったのかもしれない。ただ私はもっと彼と話をして彼自身を少しでも理解できていたなら、未然に防ぐ事も出来たかも知れないと思うとやりきれない気持ちで一杯になってね」

 加賀谷は視線を伏せて、黙って聞いている。

「それで、私は出来るだけ、息子たちとも話し合う機会を設けて私の方から歩み寄ろうと、努力したよ。口に出して伝えないと届かない気持ちがたくさんあるからね」

 加賀谷はゆっくりとひとつ頷いて続けた。

「それでも……口に出さず黙っていても、こころがあふれれて、こぼれてしまう、そんな想いもいっぱいあるんですけどね……。 僕、悠一さんから数え切れないほどたくさんのあたたかい想いを頂きました」

 にっこり微笑む加賀谷の顔には、氷川を思うそのこころがあふれていた。

「加賀谷くん……本当に悠一の事を好いてくれているんだね、有難う」

 氷川の父親がソファから立ち上がる。

「これからも悠一の事、宜しくお願いします」

深く頭を下げた。

「お、お父さん、そんな……頭を上げてください。僕の方こそ、よろしくお願い致します」

 同じように立ち上がり深く頭を下げる加賀谷の目が潤んでいた。

「加賀谷くん、すまないが今度は悠一を呼んできてくれないか」

「わかりました」

 加賀谷は頭を上げると目をにじませながら微笑んだ。

 それは新緑が生い茂る枝葉えだはの間からこぼれれ落ちる木漏こものようにきらきらと輝いていた。



「悠一、お父さんが呼んでるよ」

 加賀谷がドアをノックする。

「加賀谷! 何か言われたのか!?」

慌てて出てきた氷川に、笑顔で答える。

「……お父さん、分かってくれたよ」

氷川を見つめる加賀谷の目がますます潤んでいく。

「良かった……」

 軽く加賀谷を抱きしめると、行って来るわと告げて、部屋に加賀谷をひとり残し降りていった。


 居間に入るとすぐに父親の向かい側のソファに腰かける。氷川はソファに浅く座って膝にひじを乗せ軽く手を組み、身を少し前に倒してうつむいた。

「んー……何?」

間がもたないと思ったのが冷めたコーヒーカップを手に取る。

 改めて父親が質問した。

「お前、いつから同性にしか興味がなくなったんだ?」

唐突な内容に、冷めたコーヒーを噴出しそうになった。

「ち、違うよ! 俺だって最初はごく普通に女の子が好きだったさ。ただ、加賀谷と出逢ってからは加賀谷しか見えなくなって。あいつといると凄く落ち着くんだ。なんだか、たまたま加賀谷を好きになったと言うより、加賀谷だから好きになったんだ、と思う。変な言い方かもしれないけど、加賀谷と出逢う事がずっと前から決まっていた。そんな気がしてならないんだ」

 照れて顔を赤くしながらも、しっかりと言葉にした。

そんな全く同じ事を話すふたりに、その出逢いが『運命』である事を感じ取り、同時に微笑ましく思った父親は、思わず口に出していた。

「加賀谷くんの事、大切にするんだぞ」

「お、親父、認めてくれるのか?」

氷川の視線が父親の顔を食い入るように見つめる。

「本気なんだろう?」

やさしく、諭すように確認する。

「……うん。親父ありがとう」

 氷川の顔から不安の色が消えた。ひとりの大人の男がそこに座っていた。



 氷川の父親はふたりに話があるからと、加賀谷を二階から呼び氷川の隣に座らせると改まって言った。

「いいか、今から言う事を良く肝に銘じて欲しい。お前たちの選んだ道はいばらの道だ。欧米化が進んだとは言え、未だに日本ではまだ認識が乏しい。お前たちのように互いを信じ、必要としていて、実際、思いの通じ合っているものはそうはいないだろう。周りの環境も、当事者自信もまだ未熟な状態で、力をあわせてやっていかなくてはならない。いいか、辛くなったり、苦しくなったら、家へ来い。家だけはお前たちを守る事が出来る場所だから。そうで在るべき場所なのだから。……くれぐれも無理をするんじゃないぞ」

 そのあたたかい言葉に加賀谷は喉を詰まらせて、言葉にならない礼を言った。

 氷川は加賀谷の肩を慰めるように叩きながらも、自分自身、目頭が熱くなるのを感じていた。

「それから……お前たちの関係は、極力口外しない方が何かと都合がいいだろう。……妻のように、 大抵の人間はまず驚くだろうから。びっくりさせない為にも、周りを良く見て、気をつけなさい」

 氷川の父親は、その事のみ注意をした。

「ありがとう、親父。俺、親父の息子に生まれてきて、凄く光栄だよ」

氷川は少しだけ照れて誇らしげに言った。隣にいる加賀谷が座ったままで深く頭を下げる。

「これからもよろしくお願いします」

氷川の父親は笑って、頭を上げるように促し続けた。

「私は今からちょっと出かけてくるから、ふたりも何処どこかいっといで」

そんな父親の言葉に顔を見合わせて考える氷川たち。

「それじゃ……近所、散歩でもしてみる?」

「そうだね、悠一の育った街を見てみたい」

顔をほころばせ加賀谷が言った。

 氷川の父親はふたりが出て行くのを見届けてから、自分も家を出た。





 氷川の父親は歩いて五分のところにある知り合いの家へ来ていた。

「ごめんください、家内がお邪魔していませんか?」

 玄関で声を掛ける。その家は氷川の母親の親友の家だった。互いが嫁入りする前からの、小さい頃からの付き合いで、仲の良さは町内会でも有名だった。

 奥からその友人がゆっくり出てきた。

「あら、ご主人、いらっしゃい」

 おっとりとした口調で話すその女性は氷川の母親よりも、ぽっちゃりした体型の所為せい幾分いくぶん若く見える。体型と同じ、おおらかな性格の持ち主だった。

「どうです、まだ、興奮してますか?」

氷川の父親が訊くと、その女性はにっこり笑った。

「もう、だいぶ落ち着いたわよ、私も驚いたけど……。彼女も悠一君の幸せを願うから、複雑な思いでいっぱいなのよ」

言いながら部屋まで案内する。

 父親の顔を見た母親は、驚いて部屋を出ようとしたが、説得に応じソファに座りなおした。

「……お前も驚いたとは思うが、悠一たちの気持ちも分かってやって欲しい」

 うつむき複雑な表情をした母親に父親は続けて言った。

「あいつ、一人前に男の面構えになっていたよ。早いもんだな」

しみじみと言う、そんな言葉を遮るように、勢いあふれる言葉が母親の口から飛び出した。

「相手は男の人なのよ! 何をそんなのんきな事を言ってるの!? よりによって、こ、恋人が男だなんて……!」

 うろたえる母親に向かって務めて穏やかな口調で話す。

「正月に帰ってきた時、様子がおかしかったのはお前も気が付いていただろう。 もうあの時からずっと悩んでいたんだろうな。なあ、今日の悠一を見ただろう? どうやって話したら良いか、かなり悩んで……悩んだ挙句あげく私たちに包み隠さず話すことを選んだあいつの気持ちを考えてみてくれ。決して冗談や一時の気の迷いでは無いという、彼らの決心の表れを」

 一瞬、はっとして言葉に詰まった母親だったが、独り言のようにつぶやいた。

「なんで、よりによって……男の人じゃなきゃ私だって……」

哀しげな、複雑な顔をしてうつむいた。

「あいつな、加賀谷くんといると落ち着くんだと言っていた。そんな風に話すあいつの顔は凄く嬉しそうだったよ。 ……幸せなんだな」

『幸せ』、その言葉に反応した母親は、力なくうなだれた。

「悠一が幸せなら……私は……」

 うなだれている母親にぽんと肩を叩き、笑顔を向ける。それじゃいい加減お暇しようか、と帰ることを促した。氷川の母親は友人にありがとうと礼を言うと、父親に連れられて家へと帰った。







 しばらくして氷川と加賀谷が家へ戻ってきた。

「ただいまー。お?  何か揚げてる? ……ああ俺の好物のから揚げか?」

 玄関に入ると夕飯の支度をしているのか、台所からいい匂いが漂ってくる。

 居間から台所を覗いて氷川は驚いた。

「ひょっとしてから揚げ揚げてる? えっ!?……親父が台所に立ってる!?」

 氷川は母親とふたりで台所に立ち、料理を手伝っている父親を見るのはこれが初めてだった。

「おう、お帰り。……そんなに驚かなくても良いだろう? お前が家を出てからは、たまにこうやってふたりで作ったりしていたんだよ。実は昔から料理に興味が有ったんだか、機会が無くてね。……たまにもいいものだろう?」

 氷川は怪訝そうな顔をしていた。

「親父、何作れるの?」

それを聞いていた母親が答えた。

「お父さんの腕前、なかなかのものよ。……ここはお母さんたちに任せて、ふたりは上で待ってて頂戴」

 氷川の母親が余所見よそみをしたその瞬間だった。

「危ない!」

「えっ!?」

 叫ぶと同時に加賀谷がコンロに背を向けて氷川の母親との間に入り、母親をかばった。

 揚げ物をしていた鍋から、何かが弾けて大量の油が跳ね飛んだ。

「あつっ……!」

 加賀谷の顔が歪む。慌てて氷川が加賀谷の腕を引き寄せた。

「大丈夫か!! すぐ風呂場行って冷やさなきゃ!」

 その様子を見て父親がそれ以上油が跳ねないよう、すぐさま鍋の火を消し蓋をした。

「慌てなくても大丈夫だよ。悠一が思っているよりは酷くないと……」

 ふたりで散歩に出た際、加賀谷は着ていたセーターを脱いで腰に巻いていた。上は薄手のコットンシャツ一枚でほとんど素肌に近いような状態で油をかぶり、明らかにやけどを負ったであろう加賀谷に氷川は慌てふためいて叫んだ。

「何言ってんだよ! さあ! 早くこっちへ!」

 氷川の慌てぶりに目もくれず、加賀谷は穏やかに母親を見た。

「何とも有りませんでしたか? やけど、しませんでしたか?」

 慈しむようにやさしく訊ねる加賀谷に母親は驚いてうなづいた。

「良かった……」

 心底ほっとした顔で、やさしく微笑ほほえむ。そんな加賀谷を見た母親は、まだ現実を受けとめきれていない自分が恥ずかしいような、 悲しいような複雑な思いで、胸がつかえたような感じを受けうつむいてしまった。

「加賀谷! 早く!」

 氷川が加賀谷の腕をひっぱり、風呂場まで連れて行った。

それを見届けた父親がしみじみとつぶやく。

「悠一に勿体無もったいないくらい、やさしい人みたいだな。幸せもんだよ、あいつは」

 母親はうつむいたままうなづいた。

「悠一の選んだ人ですもの……。きっと良い人なのね……」

 つぶやいた声はわずかに震え、目にはうっすらと涙が浮かんでいた。

 氷川の父親は慰めるように肩をぽんぽんと軽く叩くと、料理の続きを再開した。





「加賀谷、大丈夫か? 痛くないか?」

 風呂場で上半身裸にされ、浴槽のふちに腰掛けている。足を浴槽の中に入れ、背中を氷川に向けていた。

弱めに出したシャワーの水をそっと背中にかける。水が垂れてこないようタオルで背中を押さえながら、やけどの部分にタオルが触れないよう細心の注意を払った。

「…っつ! 赤くなってる? もしかして?」

 さして気にも留めていないような加賀谷の言葉に氷川は心配のあまり思わず大きな声を出した。

「だからすぐ冷やせって言っただろ! ったく! ……水ぶくれにはなってないから、よく冷やして軟膏でも塗っとくか」

 氷川は文句を言いながら、甲斐甲斐しく背中を冷やしている。そんな氷川が急に愛しくなった加賀谷は耳打ちするように氷川を呼んだ。

「ね、ちょっと……」

「何?」

 そう言って後ろから背中越しに顔を近づける。不意に頬に口づけた。

「な、な、何考えてるんだよ! こんな時に!」

半ば怒っている氷川に加賀谷はしみじみと言った。

「心配してくれて、ありがとう」

 それを聞いた氷川はますます、怒ったような慌てたような、それでも頬を赤くして照れていた。

「加賀谷に何か有ったら、俺が困るんだよ! ったく。ちょっとは俺の気持ちも考えろよ……」

 ふと氷川が考え込む。

「……お返しだ」

 加賀谷の頬にそっと触れるだけの口づけをした。

「軟膏と着替え、取りに行ってくるから。いいか、じっとしてるんだぞ。動くなよ?」

 なんども念を押すその頬は赤く、照れているのか怒っているのか複雑な顔をして出ていった。

「悠一に出逢えて本当に良かった……」

 加賀谷はこころの底からそう思った。






「加賀谷くん、大丈夫かい?」

 一通ひととおりやけどの手当てを終え、着替えを済ませ居間へ戻るともう、そこには食事の用意が整っていた。

「はい、御心配お掛けしました。たいした事はないです」

 そう言ってひとつお辞儀をした。

「たいした事無いってか!? 全く加賀谷は! 我慢しすぎなの! 俺だったら痛くてひいひい言ってるよ」

 腰に手をやり、ふんぞり返っている。

「僕、痛みには鈍い方だから」

 一瞬だけ氷川を見やるとやんわり微笑ほほえんだ。

 呆れ顔で加賀谷の顔を見る。ふぅと一つ息を吐くと、もうそれ以上何も言うまいと観念して、ほら、座れよと椅子を引いてやった。

「加賀谷くん、さっきはありがとう…。ごめんなさいね、本当に大丈夫なの?」

 心配そうに訊く母親に加賀谷は微笑ほほえんで答えた。

「お母さんに怪我が無くてなによりです。…大した事、無いんですよ、本当ですよ」

加賀谷がちょっと大袈裟だと言うと、氷川は膨れて、心配してんだよ! と拗ねて見せた。

 その氷川にありがとうと礼を言う。正面切って礼を言われ思わず照れている。そんなふたりのやり取りを見て父親は、お前に勿体無もったいない人だ、と笑った。母親もそれに続けて、そうね、ぎた人ねとうなづき、微笑ほほえむ。ますます氷川が膨れると、加賀谷も笑い出した。ついにはつられて氷川まで笑い出す始末。

 笑い声に包まれた夕食の団欒だんらんは、久しぶりに賑やかな、あたたかいものとなった。





「それじゃ、お休み」

「おやすみなさい」

 ふたりはリビングの両親にそう告げて二階へ上がって行った。部屋へ入ると加賀谷はひとつ、大きく息を吐いた。

「……良かった。ここへ来て。本当に良かった」

 立ったまま下を向いて、胸に手を当ている。

「今日はありがとう。ご両親に分かって貰えて良かったね」

 微笑みながら言う加賀谷の目は少し潤んでいた。

 そんな加賀谷を見た氷川は、急に胸に熱いものがこみ上げてきて思わず、肩を抱き寄せていた。

「加賀谷、俺の方こそ、今日はありがとう。……それと、ごめん。うちに来てやけどまでしてお袋の事、かばってくれて」

 氷川は加賀谷に背中を見せてみろとベッドに腰掛けさせ、自分はベッドの上へ乗り加賀谷の後ろへ回った。シャツを脱いで上半身を晒す。

「……少しは赤みが引いたみたいだけど、まだ痛む?」

 後ろから訊くその声は、加賀谷を気遣う氷川のやさしい想いがこもっていた。

「もう、ほとんど痛くもないよ。僕より、お母さん、無事で良かった……」

 しみじみと続けた。

「だって、僕、お母さんを助ける事が出来なかったから」

「っ!? ……加賀谷……」

 胸の奥底から熱いものがこみ上げてきて、氷川はこらえきれずに加賀谷の肩に口づけた。

「……!? 悠一?」

 いきなり肩にやわらかいぬくもりを感じて加賀谷は驚いたが、そのまま身を任せた。

 肩から、背中へいくつも、やけどとは別の赤い跡が氷川によって付けられる。

「……んっ!……いいの? 実家だよ?」

 氷川は止めずに続ける。

「……何が?」

 背中に顔を付けたまま話す所為せいで、その吐息がより背中をくすぐり刺激する。

「背中だって、そんないっぱいキスされちゃ、感じちゃうんだけど……。悠一、誘ってるんでしょ?」

「はっ!? お、俺、そ、そんなつもりじゃ! ええっ!? そ、そうなるのか? この場合?」

 慌てて離れる氷川の顔が赤く染まり、汗まで掻き出している。

 自分の後ろであたふたしている氷川に加賀谷は目を細めやわらかく微笑ほほえみながらつぶやいた。

「分かってる」

「か、からかうなよ! ……心配してんだぞ」

 加賀谷はくるりと後ろを向き、拗ねている氷川の顔を両手で包み込み、やさしく引き寄せるとそっと口づける。

 気持ちを込めてやさしく、深く口づけた。ゆっくり唇を離すと頬に手を添えたまま、目を見つめる。

「ね、何もしないから悠一のベッドで一緒に寝てもいい?」

 その言葉に氷川は、ほっとしたような、ほんの少し残念そうな声で答えた。

「何も……って……。まぁ、いいか」

 納得のいかない氷川をよそに加賀谷は着替えを済ませる。氷川も続いて着替えベッドに潜り込んだ。そっと加賀谷も同じベッドの中に納まる。

「おやすみ、悠一……」

 氷川の体温が心地よい。緊張から解放されて氷川のぬくもりや匂いに包まれ安心した加賀谷はすぐに寝付いてしまった。

「……おい、もう寝たのか? やっぱり、緊張して疲れてたんだよな……」

 氷川は背中を下にしないようにして自分の方を向いて横になっている加賀谷の寝顔を見て、少し考えた。

「ん? 加賀谷の寝顔なんて、こうしてじっくり見るの初めてかも? いつも、加賀谷より俺の方が先に寝ちゃって、 起きるのも断然加賀谷の方が早いし……」

 改めて加賀谷の顔を見る。安心しきった、そのやさしい寝顔は、まるで女性を思わせるほど線が細く、華奢きゃしゃはかなげだった。長いまつ毛が、きれいな肌が、さらさらの髪が、艶やかな赤い唇が。すうすうとやさしい寝息を立てる、その加賀谷の全てが氷川のこころを掴んで離さない。

「愛してる、ずっと……。おやすみ」

 額にひとつ、口づける。加賀谷のやさしいぬくもりに身を任せ、氷川も眠りについた。





 遠くで山鳩きじばとの鳴き声が聞こえる。柔らかな朝日がカーテンの隙間から射し込んでいた。

「おはよう、悠一、起きて」

「うーん……」

氷川は加賀谷に起こされても今の状況を把握できないでいた。

「あれ、あ、そっか……」

加賀谷はもう着替えを済ませている。実家にいることを思い出したのは起き上がって本棚の盾を見たときだった。

「悠一、もう九時だよ。明日、レッスン有るの、覚えてる?」

「あ、そういやそんなスケジュール表、渡されてたっけ」

「明日のレッスンは先生の都合で午前中だから遅刻しないよう集まれって話だったよね」

大きくひとつ伸びをした。

「うーん、早めに帰るか」

服を着替え、顔を洗いに下へと下りていく。


 下ではもう既に朝食の準備が整っていて、氷川は久しぶりに母親の手料理を堪能した。

 食事を済ませ、一息つくと母親が氷川に紙袋をひとつ渡した。

「これ、お弁当、作っておいたから」

「お袋の弁当なんて、何年ぶりだろ!? ……ありがとう」

 照れて顔を上げられない氷川に代わって加賀谷が改めて頭を下げる。

「それじゃ、身体に気をつけてね。……それと大学、来年には必ず卒業するのよ」

 母親に釘をさされ、ふてくされる氷川を父親は笑顔で見送る。

「悠一、くれぐれも無理をするんじゃないぞ」

「ああ、分かってる」

 満面の笑みを浮かべ父親の言葉に答えた。

 加賀谷も隣で同じくらいまぶしい笑顔でありがとうございました、と深く頭を下げた。




 両親が玄関からふたりを見送る。昨日、入ってきた時とは、正反対の、おだやかな思いで胸が満たされていた。


――……来てよかった。


 氷川は自分の気持ちにけじめをつけ、新しい気持ちで玄関から一歩を踏み出した。

 隣には未来を一緒に歩んで行きたい、大切な人がいる。

 ふたりで歩くその道は、昨日とは別の、新しい道に見えた。


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