第10話 約束 後編
氷川は河川敷の土手に座ってぼうっとしていた。前に加賀谷と流れ星を見た、あの場所だ。
――まさかひとりでここに来る事になるとは、あの時は思いもしなかったのに……。
あの時は夜だったのもあって誰一人いなかったのが、今は違う。土手の斜面に座って川面を見ていると自然と視界に入る、歩道を行きかう人々。小型犬を二匹も連れた若い女性が
ふと、空を見上げる。真っ青に澄んで
――なんてキレイなんだろう。
空の青が目に
――やっぱ俺、どう考えたって加賀谷の事が好きだ。誰に何と言われようと好きだ!
もう一度、きちんと話し合おう。何を言われても、もう逃げたりしない。
氷川は覚悟を決めた。
その時、不意に携帯電話の着信音が鳴った。真野からだった。
氷川がさっきまで加賀谷が座っていた椅子に何も知らずに腰掛ける。
「話って、何?」
一刻も早く加賀谷と話をつけたいと思っていた矢先に、真野に邪魔をされ気持ちが
真野は単刀直入に切り出した。
「加賀谷と何かあったろ」
「なっ……なんでそれを!」
焦っていた気持ちが吹っ飛び、驚いて半分立ち上がる。
「まあ、落ち着いて。座れよ」
促されるまま気持ちを落ち着かせようとコーヒーカップに手をかけた。それを見届けた真野は一呼吸おいてから訊いた。
「なぁ悠一……お前、加賀谷に抱れるの嫌か?」
「はぁあ!?」
脈絡のない問いかけに思わずコーヒーカップを持った手が滑った。たらりとコーヒーが流れ出す。
「あっ!? あちちっ!! っつ~、ちくしょう、何なんだよ! いきなり」
動揺を隠しきれず額からは汗が流れ出てくる。真野は至極真面目な顔をして続けた。
「お前にそういう覚悟があるか、って事」
真野は今までのいきさつを話した。
「工学部のヤツに、加賀谷の様子がおかしいと連絡があってな、加賀谷に直接聞いたんだよ、お前に酷い事を言ったと、な」
氷川は
「このまま一緒にいると無理矢理抱いちまいそうだと……」
「えっ!?」
ぱっと顔を上げると目を見開いた。
「ま、まさか加賀谷のヤツ! そんな事で……俺と別れるって言ったのか!?」
真野はひとつ頷くと、落ち着いて聞けよ、と断って話した。
「あいつ真剣だから、融通も利かないし。一度そう思ったら真っ直ぐに進んで行くタイプだから。 見ていて痛いくらい、お前の事が好きなんだって、良く分かったよ」
氷川は最後に会った時の加賀谷の様子を思い返していた。
「そんなに思いつめていたなんて……」
「加賀谷にしちゃ、随分悩んだんだろうよ」
「何だよ!? そんなことでフラれたのか? 俺!」
「いや、フラれてないって」
「何なんだよ……。俺、てっきり嫌われたんだと思ってたよ……ははは……バカ加賀谷」
氷川は笑いながら、目を赤くしていた。
「加賀谷なら今、俺の部屋で寝ているはずだから……」
最後まで聞かずに氷川は礼を言うと店を飛び出した。
「サンキュ、真野さん!」
――加賀谷に嫌われたわけじゃなかった! 失ったわけじゃないんだ!
真野は氷川を見送った後、
部屋のドアをノックをする。少し間があって加賀谷が出てきた。
氷川の顔を見て一瞬驚きはしたが、氷川がここへ来たのが真野に聞いてだと察したらしく、黙ったまま立っていた。下を向いて氷川と目を合わせようとしない。そんな加賀谷を氷川は特に責めるでもなく話があるからと部屋へ入った。
加賀谷は終始黙ったまま
「真野さんから話は聞いた。加賀谷が俺をどう思っているかも」
氷川は極力気持ちを抑えて話した。
――好きでたまらない、加賀谷を失ったわけじゃない。
嬉しさがこみ上げてくる反面、加賀谷の俺を思う気持ちが痛々しかった。
――頼むからひとりで悩まないで欲しい。
氷川はどうやって話したらいいのか、言葉を探していた。
しかしそれもほんのつかの間、氷川は加賀谷の前に
「俺の目を見て。よく聞いて。……俺は加賀谷が好きだよ、ただ俺は加賀谷と一緒にいられる、それでもう充分なくらい幸せだったんだ。俺、正直な気持ち、初めて逢ったときからずっと、そして今も加賀谷の事、凄く憧れてる。とても俺なんかの手の届かない……そんな存在だった。その加賀谷が俺を好きだと言ってくれる、俺に触れてくれる……。俺、もうそれだけで、いっぱいだった。 それ以上望むなんて考えられなかったんだ。だから真野さんに悩んでるって聞かされたとき、 はっきり言ってショックだった。……俺、加賀谷のそばにいるつもりだったのに、全然加賀谷のそんな気持ちに気づかなかった。 加賀谷をちゃんと見ているつもりだったのに、全然見えてなかったのかも……。ごめんな、俺、加賀谷の気持ちに全然気づいてやれなくて。 ……俺は、誰がなんと言おうと加賀谷が好きだよ」
氷川はそう言って加賀谷の顔を両手で起こすと引き寄せくちづけた。
――俺からくちづけるなんて……初めてだった。いつも、加賀谷が求めて来て。加賀谷のこんな気持ち、俺、今初めて知ったのかも……。
「……んんっ……んふっ」
加賀谷が鼻にかかった甘い声を漏らす。氷川はそっとくちびるを放すと立ち上がり、加賀谷の両肩を掴んで立ち上がらせた。
もう一度、目を見て言った。
「本気で好きだから。俺、加賀谷以外考えられない。だから加賀谷の思うように、俺を抱いてもいいよ……」
氷川はそれだけ言うのがやっとで、加賀谷を抱きしめていた。肩に顔をうずめたまま加賀谷が言った。
「悠一、ごめん僕自分勝手だった。どんどん悠一の事、好きになるのが怖くなって……どうなっちゃうんだろうって。 抑えが効かなくなるくらい自分でも自分が分からなくなって……。こんな僕でもいいの? 悠一の事、好きでいていいの?」
心なしか加賀谷の声が震えている。氷川は更にきつく抱きしめた。
「当たり前だろ……俺の方がてっきり、加賀谷に嫌われたんだと……」
抱きしめられたまま加賀谷が言葉を遮る。
「嫌いになるわけないじゃない!! こんなに好きでたまらないのに……」
声が段々小さくなる。そんな加賀谷の顔を両手で引き寄せ、再び氷川からくちづけた。
――甘い、加賀谷のぬくもり。
加賀谷を抱きしめている氷川は、安堵と喜びに包まれ……思った事を口にしていた。
「それにしたって、加賀谷って……そんなくだらない事で悩んでたなんて、加賀谷らしいかも、な」
――俺にとっちゃ加賀谷を失う事が、それ以外の怖い事なんて有り得なかった。だから抱かれるなんて事、 自然とそのうちにそうなるだろうとさして深く考えていなかった。加賀谷が俺を求めているのなら、 俺が加賀谷の望みを叶えてやれるなら、それが俺に出来る事なら、何でもしてやりたい、叶えてやりたい、 そう思っていた。それがよりによって俺を抱きたいとは……正直恥ずかしかったが、少し嬉しくもあった。だが…。
俺はその時ほど後悔した事はなかった。言葉は選んで話すべきだと。
「……そんなくだらない事? 今、そう言ったの!?」
「え……? だって俺、加賀谷が好きだから、加賀谷が望むなら、別にいいかなって、そう思って……」
加賀谷の目の色が変わった、急に空気がぴりっと張り詰めたように緊張感が辺りに漂った。
「……そんなこと!? くだらない事ってあんまりだよ!? これでも僕なりに悩んだんだよ………」
加賀谷は氷川の肩を凄い力で掴んでいた。
「……じゃあ、いいんだね!? 悠一の事、抱いてもいいんだね!?」
じっと氷川の目を見つめる。
「か、加賀谷!? え、まさか、今……ここでか!? なっ……」
まだ話している途中で強引にくちびるで口を塞がれ、凄い力で抱きしめられる。そのままソファへ押し倒され、力ずくで押さえつけられた。
「か、加賀谷、落ち着け! まずいって! こんなとこじゃ」
加賀谷の目が氷川を見つめる、それは静かに青く燃えている炎のような目だった。燃えているのに
加賀谷は両手でゆっくりと氷川のシャツのボタンを上から外した。
「加賀谷、落ち着け! な、か…がや…」
氷川の首筋に加賀谷の唇が這う。そのまま這い上がって耳たぶを甘く噛んだ。
「あっ…!! だ、だめ……だって」
耳の後ろをくすぐるように舐める。その時低く
「悠一……覚悟はいいね?」
氷川は加賀谷の舌から生まれる快感とその目の冷たさに少し恐怖を感じ、怯えた目で加賀谷を見上げた。燃えているのに冷たい。見つめる加賀谷の目はいつもの加賀谷とは別人だった。
「……ぐふっ!」
深く深くくちづけてくる。その舌は氷川の口内をこれでもかと犯した。氷川の鼻から抜ける甘い吐息が加賀谷を更に刺激する。
「はぁっ……」
やっと解放された口から甘い吐息が漏れる。加賀谷の唇はもう既に氷川の鎖骨の上に赤いしるしを付けていた。
「ああっ!! やめろ……か……がや……」
コンコン!
不意にノックの音がした。
「取り込み中悪いが、俺の部屋はホテルじゃないんでな」
驚いて加賀谷が振り向くとそこには真野が立っていた。手にはちいさな紙袋を持っていた。
「加賀谷、落ち着けって。悠一が鈍いのは今に始まった事じゃねえだろうが。それに良いって言ってくれたんだろう? だったら焦らなくてもいいじゃねえか。ふたりとも、帰ってよく話し合えよ。続きはそれからでも遅くないだろう?」
「いっ、いつから見てたの!?」
「ちょっと前か。言い争ってる声がしてすぐ止めようとは思ったんだが。加賀谷が珍しく怒ってるから……すまん」
「加賀谷って怒らせるとああなるのか!?」
氷川は押さえつけられたまま怯えながら真野に訊いた。
「あ、お前知らなかったっけ? そういや、俺らの見てる前で加賀谷が怒ったのって
黙ったまま、固まっていた加賀谷が氷川から離れ、真野に近寄ってぼそりと言った。
「止めてくれて……ありがと。自分でもかなり頭に血が上ってたみたいだ」
もう、いつもの加賀谷に戻っていた。
ふっと真野が笑う。
「これ、やるよ」
真野は持っていた紙袋を手渡した。片手に乗るくらいの大きさで中には箱らしきものが入っている。取り出してみるとそれは……コンドームとローションだった。
「まあマナーってとこか。悠一に不快な思いをさせたくないだろう?」
頭を掻きながら真野が話し始めた。
「俺、前に彼女とドライブデート中に我慢できなくて、車でヤったんだよ。ゴムも用意せずにさ。それでそそうして彼女の……服を汚しちまってな。怒られたのなんのって」
しばらく口を聞いてくれなかったとぼやく真野の、そんな現実を目の当たりにして加賀谷の気持ちが落ち着いてきた。
「……抱くって、そういう事だよね。僕ひとりで……するもんじゃないんだよね」
絶句する氷川に加賀谷がすまなさそうに下を向いて謝った。
「悠一……ごめん。僕………」
何だか泣きそうだった。
氷川は黙ったまま立ち上がり、真野に見られているのも構わずに軽く氷川を抱きしめ頭を撫でると、一言、真野に帰るわと告げて部屋をでた。
玄関からエレベーターまでのアプローチを氷川は加賀谷の手を引いて歩いた。下を向いて黙ったまま歩く。氷川は搾り出すように告げた。
「今夜、俺を抱いてくれ」
僅かに顔を上げた加賀谷が上目使いで
「……いいの?」
氷川は一度だけ頷くと後は黙ったまま歩き続けた。
その夜、氷川は加賀谷の部屋にいた。
加賀谷と向かい合わせに座り、どちらとも無く黙ったまま。氷川はもう一度、加賀谷に、加賀谷の目を見て言った。
「俺を、抱いてくれ」
加賀谷はやんわりと目を合わせる。
「僕、先にシャワー浴びてくるね」
そう言って部屋を出て行った。ひとり残された氷川は自問自答を始めた。
――これでいいんだよな……。俺自身、加賀谷が好きだ、加賀谷の気持ちを受け止めてやりたい。 こんな関係になる事は、いまいち現実味が無かったけど、こころのどこかで……多分、望んでいたんだろう、
「空いたよ」
加賀谷の声で我に返る。
「じゃ、俺も」
立ち上がって加賀谷と入れ違いに部屋を出ようとした、そのとき背中から声をかれられた。
「悠一、そのままで聞いて。 こころの準備が出来たら僕の部屋へ来て。それと… 別に今夜じゃなくてもいいんだからね? ……じゃ、待ってる」
振り向かず氷川は黙ったまま頷くと、そのままバスルームへ向かう。
「……」
熱いシャワーを頭から浴びて、考えた。
――俺は加賀谷とどうしたいんだろう? この先、加賀谷とどうなりたいんだろう?ただ、考えられる事は、加賀谷のいない未来は俺の中ではもう有り得ない。いつも一緒にいたい。そばにいて支えてやりたいし、支えてもらいたい。何でも話し合って、喜びも悲しみも一緒に分かち合いたい。これからの未来、ふたりで同じ思い出を
この広い世界の中で、沢山いる人たちの中で俺らは出逢った。奇跡に近い確率で。俺はあのとき加賀谷の歌声を聴かなかったらひとりで
「加賀谷」
ベッドに腰掛けてひざの上で手を組み、それをじっと見つめている。 呼ばれている事にすぐには気づかず、ゆっくりと頭を上げた。
「………悠一、本当にいいの?」
氷川は頷いて加賀谷の座っているすぐ隣に寄り添うように腰掛けた。ベッドが揺れる。
加賀谷の手が恐る恐る触れる。手が震えている。もろく壊れやすいガラス細工を扱うような、そんな手つきで氷川の頬に触れる。かなり緊張しているのが分かる。そんな加賀谷とは対照的に氷川は落ち着いていた。
氷川は頬に触れている加賀谷の手を、上からぎゅっと握ると言った。
「……昼間の勢いはどうしたんだよ? 俺なら、大丈夫だから。加賀谷の好きにしなよ。加賀谷を失うくらいなら全然平気だから」
熱い眼差しが真っすぐに向けられる。やわらかく微笑みながら告げる氷川を見て加賀谷の手の震えが止まった。
加賀谷の眼差しが、熱く、真剣に氷川を、氷川だけを見つめる。
「悠一、愛してる」
――あいしてる……前にも同じ言葉をとおい昔、加賀谷から聞かされた気がするのは………。
不思議な感じがした。
「俺も……愛してる」
もう、何の迷いも無かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます