第9話 約束 前編




 最近の僕はどうかしている。


 自分で自分が分からなくなって、コントロールが効かなくなってしまいそうになる……悠一の事になると。今もそうだ。

 夕食の後、リビングのテーブルに突っ伏して居眠りしている悠一の、その白いうなじと短い黒い髪。たまごのようなつるつるした頬がすこしピンクに色づいていた。赤く艶のあるくちびるが無防備にわずかに開いている。 すうすうと気持ち良さそうに眠っている、その隣に座って僕は吸い寄せられるようにして後ろから、そのきれいなうなじにくちづけた。

「う……ん?」

悠一が身じろぎする。僕は気づかれないようにそっと離れた。

 チャリティイベントの前の晩。もしもあの時、携帯が鳴らなかったらあのまま僕は悠一を……抱いていただろう。そんな自分が……怖い。このまま一緒にいると何時いつか抑えが効かなくなる。今も後ろから抱きすくめて押し倒してしまい、そんな衝動に駆られている。……悠一が、欲しい。……抱いてしまいたい。

 僕のそんな衝動で……悠一を傷つけるくらいなら、いっその事……。


 正月が開けて、一月ももう終わり。大学の卒論の締め切りが目前に迫っていた。本当はもう、ほとんど出来あがっていて、後は仕上げと清書のみだったんだけど……。





 夕食後、いつもの様に氷川はテレビを見ていた。

両手に一つずつ、マグカップには淹れたてのコーヒーがなみなみと注がれている。そのひとつをテーブルの上へ置くと加賀谷は氷川の視界に入らないよう、ソファの端に腰かけた。マグカップを両手で包み込むようにして持ちながら、その琥珀色の水面をじっと見ている。

「あの……さ、悠一」

「ん……? 何?」

 声をかけられてもテレビからは目を離さない。そんな氷川の様子に加賀谷はどこかホッとしたような、それでいて少しだけ緊張した声で話を続けた。

「帰れないから。……しばらく」

「え……? ええっ! どしたの?」

 振り向いて加賀谷の顔を見て少し大袈裟な感じで驚く。そんな氷川を見てしまった加賀谷は、思わず嘘をついてしまった。

「えっと、その……。そ、卒論の研究の追い上げで、しばらく大学に泊り込む事になった……から」

加賀谷は目を合わせず下を向いて呟くように言った。

「そっか卒論か、大変だなぁ……って、俺ものんきだなぁ。……来年は卒業するぞ」

猫舌の氷川は恐る恐る加賀谷が淹れてくれたコーヒーを少しすする。

「今年はもう休学、決めちゃってるし……」

 正月が開けてから週に二度、プロからレッスンを受けていた。デビューに向けての準備は少しずつだが確実に進んでいる。そのデビューは今年の六月頃を目処にしているらしい。加賀谷、真野、薬師丸の三人は今年の春に卒業がかかっていた。

「だから明日から僕、いないから……」

自分に言い聞かせるようにして言う。

「そっか、頑張れよ!」

何も知らない氷川はにっこりと微笑んでエールを送った。





 加賀谷が大学へ泊り込んで五日がたった朝。

氷川は冷蔵庫に残っていた最後のトマトを朝食代わりにかじりながら、加賀谷の事を想っていた。

「……着替えも取りに戻れないほど追い込んでるのかなぁ」

その日はレッスンやバイトもなく、氷川は暇を待て余していた。

「朝からパチンコもなんだし、加賀谷の様子でも見に行ってくるか」

部屋にあった加賀谷の着替えを、何枚かバッグに詰めて大学へ向かった。


 外は快晴。関東の冬は良く晴れて、空がきれいな日が多い。空気は冷たく、どこまでも澄んでいた。自転車で走るには、身を切られるほどの冷たさだった。マフラーで顔を半分埋めた氷川が、大学に着いたのはお昼少し前だった。


「こんちはー」

 工学部の研究室へ顔を出す。そこにはたくさんの精密機械が所狭しと置かれ雑然としていた。そこかしこでモーターの回転する音や、機械部品がガチャガチャとぶつかり合う、金属特有の音を出していた。ふと音のする方を見ると数人で大きな機械を取り囲み、ドライバーやスパナで部品を組み立てているようだった。

 そこへ白衣を着た加賀谷が、氷川に気づき足早に近寄ってきた。

「どうしたの!? こんなとこへ来るなんて!?」

何故か加賀谷は酷く驚いていた。

「だって加賀谷、着替えどうしてる? 一応持って来たんだけど」

 そう言ってかばんを渡そうとした手を、氷川は思わず引っ込めた。眼鏡を指先でくいっと戻すと加賀谷の顔を改めて見直した。

「おい、加賀谷! お前……寝てないのか? なんて顔してるんだよ」

加賀谷は目の下にクマをつくり、心なしか頬もこけているようだった。

「……。ちょっと忙しくて」

 元気のない、加賀谷らしくない態度に氷川は、違和感を感じ始めていた。加賀谷は確認するようにあたりをキョロキョロと見まわすと声をひそめた。

「悠一、ちょっと話があるんだけど。……ここじゃ何だから、部室まで行かない?」

様子のおかしい加賀谷の後を、氷川は黙ってついていった。


――嫌な胸騒ぎがする。


見慣れたはずの加賀谷の後姿が、何だか遠くに感じていた。





 部室には誰もいない。いつもは賑やかしい連中でぱっと明るくなる部室が誰も居ないだけで妙に広く寂しく見える。

まだ冬休み中の大学で講義も始まっていない所為か、構内を歩く人影もまばらだった。


「話って、何?」

 不思議そうに氷川が切り出した。加賀谷が下を向いてずっと氷川と視線を合わせないでいる。

いつも、どんなときも、真っ直ぐに見つめていたその視線が、今、氷川から逸らされていた。

……こんなことは今まで無かった。氷川の胸に、なんともいえない不安が広がる。

「あのさ、僕ら、距離をおいた方が良いと思う」

 うつむいている加賀谷の目が泳ぐ。氷川は一瞬何を言ってるのか分からずにいた。

「ど、どう言う意味だよ……何だよ! それ!」

 急な別れを意味する言葉に、頭の中で何かが音をたてて崩れ落ちていった。目の奥が熱くなり胸がドキドキして、いやな汗も出てきた。

「もう、悠一の傍にはいられない」

顔を上げることなく、下を向いてつぶやくように告げる。加賀谷の目に氷川は映っていなかった。

「な、なんで……」

 ドキドキしてやっと出た言葉がそれだった。しかしそれ以上は言葉にならなかった。……理由を訊くのが怖かったからだ。

「しばらくしたら部屋も出るから、今までありがと」

最後まで目を逸らしたまま、小さな声で言った。

「………わかったよ」

 自分の意思とは別の自分が答える。氷川はその事実を受け入れる事しか出来なかった。それ以上は訊かず、その場を去っていく加賀谷の背中を黙って見送った。

 加賀谷が去ってひとり部室に残される。 次第に氷川の中にやり場の無い悔しさが湧き上がってきた。

「ちくしょう! なんでだよ!」

こぶしを思い切り、目の前のロッカーに叩き付けた。関節のところが切れて血がにじむ。氷川はお構いなしに殴り続けた。

「くっ、そぉ……」

 ロッカーのドアが血にまみれ、手の痛みに気づいた時、それとは別に涙がこぼれてきた。後から後からあふれてきた。

「今更何なんだよ……俺、加賀谷しか、もう、考えらないんだよ……」

 その場に崩れ落ちて声を殺して泣いた。



 どうやって帰ってきたのか、覚えていない。気が付くとあたりはもう、薄暗くなっていた。俺は何時の間にか部屋へ戻っていた。加賀谷のいない部屋へ。

 帰ってこなくなって五日。喉が渇いてふと何か飲もうと冷蔵庫を開けた。冷蔵庫にはビールしか入ってない。大抵みんなで集まって練習した後は、決まって『さくら』になだれ込むから。最近は特別『さくら』に入り浸っていた訳でもないのに、冷蔵庫には何も無い。それは、いつも加賀谷が必要な分だけを、毎日買い物に行ってくれてたから。加賀谷の作ってくれる夕飯が今となっては……。

 その気持ちがこもった手料理を、それが自然と当たり前だと思っていた。俺は冷蔵庫からそれしかないビールを取り出し、飲んだ。しかし、何本飲んでも酔えなかった。

 そうして夜が明けた。







「ふうっ、さっぱりしたな。さて、今日はレッスンも無い事だし、卒論出しに行って来るか。大学へ行くのも久しぶりだな」

 真野は朝風呂に入った後、身支度を整えて出かけようとしていた。ふとその時、携帯の呼び出し音が鳴った。

「はい、真野です。……ああ、加賀谷なら一緒にバンド組んでるけど? それがどうか……!? 様子がヘン? 加賀谷の?……おう、分かった、今から行くから、そっちで聞くわ。じゃ、大学のカフェテリアで」

 真野が急いで大学に向かう。

学部は違うが、高校時代の同級生が工学部にいて、電話はその友人からだった。


「おう、おはよう。で、何がヘンなんだ? 加賀谷のヤツ」

 友人がテーブルについて待っていた。真野は向かいに座ると缶コーヒーを差し出した。おもむろにプルタブを起こし、まずは一息つく。友人はふぅっと深いため息をひとつついて話し出した。

 彼の話によると、まずは加賀谷はほとんど卒論が出来上がっているのにもかかわらず、泊り込みで研究をしている事。しかも六日も前からずっとまともな食事もせず、ろくな睡眠もとらず、何かを吹っ切るように研究に没頭していたかと思えば、手を止めてぼうっとしていて心ここにあらず、といった感じで。来た時から様子がおかしかったのが、特に昨日の昼過ぎから手が付けられないほどおかしくなってきた、という。

 その友人が両手を合わせて拝んだ。

「頼むから、なんとかしてくれ! これ以上加賀谷にモノを壊されたくない!」

「モノを壊す? どう言う意味だ?」

 真野は不思議そうにたずねた。

内容はこうだ。半日かかって入力したプログラムを上書き保存せず終了させて追記分をパーにするわ、プラスマイナスの電極のハンダ付けを失敗してショートさせるわ、 ねじを一本締め忘れて大事な部品を落として壊すわ、挙句の果てには、せっかく組み付けた部品をぼうっとしながら分解していたり……といった様子。

「……マジか。相当ヤバいな。てか、本当に加賀谷なのか? それ?」

 普段の加賀谷はしっかりしていて、たまに天然ボケをかますことはあっても基本的に几帳面で真面目。

そこからは想像がつかない行動に、何事にも動じない真野にしては珍しく驚いた。

「信じらんないだろうけど、加賀谷なんだよ。他の連中に訊いても誰も心当たりが無いから、お前に訊いてるんだよ。何か知らないか?」

 真野はしばらく考えこんでいたが、ふと何かに気が付いた。

「……まさか? ひょっとして……」

「何か心当たりあるのか!?」

 何かに気づいた真野に友人は過剰に反応した。

「あ、いや、ちょっとな。……加賀谷、借りてってもいいな? ちょっと話してみるわ」

「頼む!! 何とかしてくれ! とりあえず今は研究室から出してくれ! 一刻も早く!」

 必至になって頼むその友人の切羽詰った感じが、余程の酷さを物語っていた。友人は真野を連れ立って早々に研究室へと向かった。



「おう、加賀谷。ちょっといいか?」

友人とともに真野が研究室へやって来たのは、お昼を過ぎたころだった。

「あれ…? 真野さん? ……どうかしたの?」

 きょとんとした加賀谷の顔は、何故今ここに自分がいるのかすら、把握してなさそうな、そんな顔をしていた。

「……。こりゃ重症だな」

真野は顎に手をやりながら、少し考えた。

「加賀谷、お前メシまだだろ? 俺が奢るから、外へ食いに行こうや」

 普段の加賀谷なら食べ物の話をしただけで、目の色が変わると言うのにこの日の加賀谷は無反応だった。

「……食べたくないんだけど」

 目を逸らして、何か別のことを考えているようだった。そんな加賀谷を見かねて真野は単刀直入に言った。

「話があるんだよ。兎に角、ついてこいよ」

 真野は加賀谷の肩をぽんぽんと叩くと、先に立って歩き出した。加賀谷は仕方なくついていくことにした。



 大学の門から最寄りの電車の駅までの間に幾つかのカフェがある。中でも一番人気がレンガ造りの外装に大きなアーチ形の羽目殺しの窓。入り口にはたくさんのプランターが置かれ冬場でも枯らすことなく手入れが行き届いている。そのプランターには見事な葉ボタンが所せましと咲き誇っていた。その一番人気の店『サンフラワー』はパンケーキが名物だ。休みの日になると時間帯によっては行列が出来るほど。

 その『サンフラワー』で真野は加賀谷にパンケーキを注文した。男二人で入るには多少勇気がいる店だがパンケーキは加賀谷の好物でこの店にも何度も訪れている。味は身をもって保証済みだ。このパンケーキさえも口にしないのであれば、もう相当なモノだ、そう思った真野の想像通り、加賀谷はひと口も手を付けようとはしなかった。

「おい……。加賀谷、いい加減にしないと身体壊すぞ。何が有ったんだ? 話してみろよ」

 黙ったままうつむく加賀谷の視線は、うつろで何処どこか遠くを見ていた。

「悠一の事だろう?」

「えっ!?」

 不意を突かれて思わず真野の顔を凝視する。だんだんと加賀谷の表情が曇っていく。

また元通りうつむいてしまった。

喧嘩けんかでもしたのか? 悠一が何か言ったのか?」

「違う!ゆ、悠一は何も……悪く、無い……んだ……」

 加賀谷の声が語尾につれて小さく、聞き取れなくなる。

「悪いのは僕の方だよ。悠一に、あんな酷い事、言って……」

 苦しくて仕方がない加賀谷はそれ以上言葉にすることを躊躇ためらった。

「いいから、話してみろよ」

 真野が促す。だがその口調には責めるような圧力は一切なかった。加賀谷の言葉をいつまでも待つ、そんな雰囲気がにじみ出ていた。

 それに気づいたのか、重い口をようやく開いて加賀谷は少しずつ、ゆっくりと話し始めた。

「僕、自分が……怖いんだ」

 両手を組んでテーブルの上に乗せている、その手が僅かに震えていた。

加賀谷の動揺がただ事で無いと感じた真野は、腕を組み、黙ったまま聞いていた。

「一緒にいると……このままだと、抑えが効かなくなって悠一を……無理に……抱いてしまいそうで……」

真野が目を丸くして驚いた。

「まだ寝てなかったのか!?」

思わず身を乗り出してしまう。

「ま、ま、真野さん!? ま、まだって……」

 顔を赤くさせ目を伏せる。哀しそうな、恥ずかしそうな、なんとも言えない複雑な顔をしていた。

「俺、てっきりこの間の東北遠征の時にはもう、寝てんだと思ってた」

真野は信じられないと言って、不思議そうな顔をして加賀谷を見ていた。

「………」

下を向いたまま、黙りこくっている。

「なぁ……好きなんだろ、お互いに。別にいいじゃねえか」

 前のめりになっていた身体をゆっくりと背もたれに戻し、加賀谷の顔を見る。

加賀谷はほとんど聞き取れない小さな声で答えた。

「でも……男同士だから……きっと悠一、嫌じゃないかって思って」

「はぁ!?」

心底呆れたように言い放つ。

「そんな事、お互い承知の上だろ? 分かってて好きでいるんじゃねえのか?」

 はっと顔を上げて、訴えるような眼差しで加賀谷は続けた。

「だって、もともとは普通に女性と付き合ってたりしてたんだよ!? それが……僕を選んでくれて、ホントに僕なんかでいいのかなって……」

 ふーっとひとつ、ため息をついた真野が加賀谷の目を見て言った。

「加賀谷、自信持てよ。本気なんだろ? 悠一の事」

「……うん」

 顔を赤くはしていたが、はっきりと頷いた。

「だったら悠一だって同じ気持ちでいるんじゃねえのか? お前がアイツを大切に思うように、アイツもお前の事、思ってんじゃ……悠一にはそう言ったのか? あいつの気持ち、確認したのか?」

真野は言い聞かせるように訊いた。

「ううん……」

加賀谷は力なく首を振る。

「分かった。とりあえず加賀谷、お前寝てないんだろう。ここしばらく狂ったように研究に没頭していたって聞いてるぞ。俺の部屋で少し寝て来い」

 加賀谷は真野の言葉に甘えて、真野のマンションで仮眠を取る事にした。








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