第8話 少年




 夜通し走り続けたバスの車内。

車窓を隠すカーテンの所為せいで朝を迎えたことすら知らず深い眠りに身を任せている。

「おい、そろそろ着くぞ、いい加減起きろや」

狭苦しい座席の中、真野の低い声が控えめに氷川の耳に届く。

眼鏡をかけたまま寝ていた氷川は薄くまぶたを開いた。

「う、うーん、もうそんな時間か?」

 両腕を上に伸ばし、軽く伸びをすると左手首の腕時計に目をやる。

氷川はその腕時計をやさしい眼差しでみつめた。

 それは一昨日の夜の事。


「ねえ、悠一ちょっといいかな?」

夕食の後、加賀谷がコーヒーを淹れたマグカップをテーブルの上に置きながら訊ねる。

「何?」

 バラエティ番組に夢中になってテレビにかじりついていた氷川がやんわりとテレビから目を離し振り返る。

 テーブルの向かいに座った加賀谷の横には、脇に抱える事が出来るくらいの大きさの包みが、いつの間にかに置いてあった。それを大事そうに両手で持ち上げてテーブル越しに差し出す。はにかみながらにっこりと、でもどこかそわそわしている。

「これ、クリスマスプレゼント。受け取ってくれるかな?」

「急にどうしたの?」

 突然の事に目を丸くして氷川が訊くと、加賀谷はちょっとだけうつむいて、頬をほんのり赤くした。

「明後日遠征だから……二日早いけど。いつも悠一には世話になってるし」

「世話だなんて言うなよ、世話になってんのは俺の方! ったく……加賀谷は気ぃ遣い過ぎなんだよ」

 嬉しさを隠すためにわざとぶっきらぼうに言う。だが顔は正直に物語っていた。

うつむく顔は赤く、耳まで染まっている。氷川は消え入りそうな声で礼を言った。

「ありがと」

 恥ずかしそうに目を伏せながら、両手を差し出しそれを受け取った。

 加賀谷はにっこり笑うと、開けてみてとうながした。薄いブルーの包みにかかる、鮮やかな青のリボンを解き、ひとつひとつゆっくりと包装を解く。中から出てきた箱の表面には鍵盤の写真がレイアウトされている。

「ひょっとして……これ!?」

 氷川は少しずり落ちた眼鏡をくいっと直して、慎重な手つきで箱を開けた。中から出てきたものは電子ピアノだった。

「い、いいのか? これって結構高価じゃなかったか?」

驚きに交じって一瞬遠慮が顔を覗かせたが、すぐに喜びと嬉しさで満面の笑顔になった。

「悠一にはリーダーとして頑張って欲しいから。曲のアレンジ、これで家でも出来るでしょ」

氷川は真面目な顔をして、もう一度加賀谷に礼を言った。

「ありがとう。俺、頑張るよ。自分自身のためにも。俺もレベルアップしなきゃな」

 貰ったばかりの電子ピアノの電源を入れて、鍵盤をひとつひとつ確かめるように弾いてみる。そんな氷川の様子を加賀谷は嬉しそうにずっと微笑ほほえみながら眺めていた。

しばらくすると氷川は何か思いついたらしくおもむろに立ち上がった。

「ちょっとここで待ってて。あ、後ろ向いてて」

 加賀谷に部屋の入り口に背を向けさせて、氷川は部屋を出ていってしまった。

「なんだろう……」

待っている間、加賀谷は先ほどの氷川の喜んだ顔を自然と思い出してひとり、微笑んでいた。

程なくして氷川が戻ってきた。

「よし、こっち向いていいよ」

 加賀谷が振り向くとテーブルの上には先ほどまで置いてあった電子ピアノは姿を消し、その代わりに白い長方形の箱が置いてあった。それは手の中に少しはみ出すくらいの長さで、薄いグリーンと濃いグリーンの2種類のリボンが、まるで花のように結ばれていた。

「え? これって……」

今度は加賀谷が目を丸くして訊いた。

「そう! クリスマスプレゼント、のつもり」

テーブルを挟んで向かいに座る氷川の顔が、耳まで真っ赤になっていた。

「恥ずかしいから、一度しか言わないからな。俺、加賀谷と同じ時代に生まれてきて良かったなと思って。これからも同じ時間を共有できたら……いいな、と思って」

 そう言ってから氷川は加賀谷に箱を開けさせた。

その中から出てきたのは腕時計だった。洗練されたデザインのそれは、シンプルで金属の持つ光沢を放ちながら、それでいて派手さはなく落ち着いたものだった。

「……。ありがとう、悠一」

 加賀谷はその腕時計を手に取ると、とても愛しそうに眺めた。

一通り眺めてから腕に着けてみる。金属のベルトのそれは加賀谷の骨ばっている手首に良く似合っていた。

「とてもしっくりくるよ。それに素敵なデザインだね?……ん?」

 ふと氷川の方を見るとなにやらテーブルの下でごそごそとやっている。

「何してるの?」

加賀谷は氷川の隣へ座り直し、その手元を覗き込んだ。

「それは?」

氷川の手からもうひとつ、箱が出てきた。それには何の装飾もされてなく、氷川は自分でさっさと箱のふたを開けた。

「えっ……!?」

 加賀谷の目が釘付けになった。そこから出てきたのは先ほどと同じ、腕時計。ベルトが皮で出来ていた他は、加賀谷のものと全く同じだった。

 ますます、顔を赤くして氷川が小さな声で言った。

「……ペアなんだ」

「え!? 僕のとお揃いなの?」

「うん」

そう言う氷川の顔は下を向いていて、もうこれ以上無いと思われるほど顔を真っ赤にしていた。

「凄く嬉しいよ、ありがとう」

加賀谷は氷川と向かい合うように座りなおすと、氷川の手から腕時計を手に取った。

「着けてあげるね」

そう言って氷川の左手を握って自分の方へ引き寄せる。

「い、いいよ、それくらい自分でやるって!」

照れる氷川にお構いなしに加賀谷はやさしく腕をとり、氷川の手首に腕時計を着けた。

「うん、悠一には皮の方が似合ってるね」

キャラメル色のベルトは柔らかく、しっくりと氷川の手首になじんだ。

 頬を赤くして下を向く氷川の顔を、加賀谷は両手でやさしく頬を包むように挟んで、そっと起こした。

「……ね?」

 やさしく、短く、ささやくように誘う。加賀谷の眼差しが熱い。その視線から、恥ずかしそうにわずかに目を伏せて、ちいさく頷く、そんな氷川を見てやわらかく微笑ほほえむ。そのまま頬を持つ両手を加賀谷は自分の方へ引き寄せ、くちづけた。

 加賀谷の両手が頬から降りて、氷川の肩にかかる。くちづけたまま、やんわりと抱きしめた。

「んふっ……んんっ!」

氷川の鼻から抜ける甘い声が、思わず加賀谷を刺激した。そのままやさしく氷川に体重をかけて、ソファの上へ押し倒す。

「……!?」

加賀谷の右手は氷川のシャツにかかって、上からひとつボタンを外した。予期せぬ事態に氷川は焦った。

「んんっ!」

身をよじって抵抗を試みる。……しかし加賀谷の腕力に敵うはずも無かった。くちづけたまま、加賀谷の右手がふたつめのボタンにかかった。

 その時部屋の中の甘い空気を裂くように、携帯の着信音が鳴った。加賀谷のものだった。

「!?」

はっと我に返った加賀谷は慌てて氷川から飛びのいた。顔がみるみる赤くなっていく。携帯を手に取るのもおろおろと、取り乱していた。

「も、もしもし……」

その隙に身体を起こし、慌ててボタンをかける氷川。加賀谷と同様、真っ赤になってうつむいていた。

「電話、やっくんからだった。明日の予定が少し変更になったんだって。じき悠一にも掛かってくるね」

そう言ったとたん、今度は氷川の携帯から着信音が流れる。画面を見ると案の定、薬師丸からだった。


 ふたりが一緒に暮らしているのは他のメンバーは知らない。引越しの時に真野が『どうせみんな携帯持ってんだし、それで連絡つくから特別言う必要もないだろう』その言葉でなんとなく他のメンバーへは言いそびれていた。


――今思えば真野さんは、俺たちがこうなる事を予測してたんじゃ……


氷川ががそう思っていたその時、その真野の声が頭の上から聞こえた。

「おい、何赤くなってんだ?  降りるぞ」

立ち上がって網棚の上の荷物を下ろしている。

「は!? あっ! ああ……」

慌てて立ち上がり、下ろしていた荷物に頭をぶつける。

「いててっ……。何やってんだ、俺」

頭を軽くさすったあと、氷川は大きい荷物を抱えながらバスのステップを降りた。

 バスを降りるとそこは、一面真っ白な銀世界が広がっていた。


 クリスマスイブの今日、アマチュアとして最後のライブ活動になる遠征のため東北に来ていた。薬師丸の友人の父親が経営するショッピングモールで開催されるチャリティーイベントへの出演である。そのため今回の遠征は全て薬師丸が仕切っていた。イベントの開演時間は十三時。それから約三十分ほどのステージだ。

「お疲れ様です。まずは会場の控室へご案内します」

 薬師丸の友人が同行しているため、彼と一緒に移動する。控室で用意されていた朝食を済ませて、イベントの打ち合わせをする。

大まかな流れや時間配分の確認後、調整程度の練習を始めた。


「ああっ!!」

「どしたの? やっくん」

「悠一、えらくええもんもってるやんか! どないしたん? それ」

 人一倍大きな荷物を抱えていた氷川の、その鞄から取り出された電子ピアノを見て薬師丸が声を上げた。

つられて千葉もまじまじと見る。

「あ! それ、高くね?  実はオレも欲しかったりしたんだよ、ソレ」

そんなふたりに氷川は顔を赤くしながら頭を掻いた。

「俺さ、リーダーとして頑張るぞ! って思って」

千葉が大きな目を丸くしてサングラスの眉間の部分を人差し指でくいっと直して訊いた。

「え!? 自分で買ったの? 悠一、キョウから借金返してもらったんだ!?」

「いや、そうじゃなくて……」

恥ずかしそうに、誰とも目を合わせずに続ける。

「俺を応援してくれてる、大切な人からのプレゼント、なんだ」

「そーなんや! 何時いつの間に? 悠一も隅に置けんな」

やっくんがにこにこと笑うと何故か千葉はふてくされていた。

「フンどうせ……オレは……」

ひとりで何やらぶつぶつ言っている。

 そこへ加賀谷と皆川が戻ってきた。身体をあたためるため、許可を貰って開店前の無人のモール内を軽く走ってきたようだ。

「加賀谷、キョウ、聞いてくれよ! 悠一のヤツ、色気づいちゃってさぁ!」

何事だとふたりが顔を見合わせると、薬師丸がフォローを入れた。

「悠一、彼女からプレゼント貰うたんやて。しかもめっちゃ高価なヤツなんやて」

 皆川は目を丸くして興味深々に薬師丸に詳しく話を聞こうと詰め寄る。

 加賀谷は少し驚いてその場に立っていたが、プレゼントが電子ピアノだと聞かされて少し頬を赤くしてその場を離れた。

 一部始終を見ていた真野がフンと鼻で笑うと、ほらほら、いい加減にしろと手をぱんぱんと二度叩いて、練習に戻るよう促した。




「みなさーん、こんにちはー!僕たちクラウドアンドウィンドでーす!」

 千葉のいつものハイテンションな掛け声でステージが始まる。クリスマスのチャリティーイベントという事で、 メンバー全員サンタクロースの衣装に身を包み、手には小さな菓子の包みが沢山入ったかごを下げていた。

 会場がショッピングモールであるためか大勢の客で賑わっている。更に店内もクリスマスの装飾で浮き足立っていた。

 大きなツリーがステージのあるホールの中央に立っている。その天辺から四方八方へ色とりどりのテープやリボン、モールなどが伸びて壁や柱に繋がれている。ツリーにも沢山の色とりどりの電飾が飾り付けられていて、きらきらと賑やかに瞬いていた。その下には大勢の客が行きかっている。クリスマスのプレゼントをねだる子供とその親。互いのプレゼントを買いに来たカップルや、愛しい人に贈るものを決めかねている、彼氏、彼女。または世話になっている両親へ贈るプレゼントを探しに来たその子供たち。祖父母が孫へ何を選んでよいのか分からず店員にたずねている。たくさんの愛がデパートの中にあふれていた。

 そんな中、チャリティーイベント用に設けられた特設ステージの前には、足を止めて見入る客で生垣が出来てきた。色んな人たちがステージに見入る。老若男女、本当に幅広い客層で、ステージの前は埋め尽くされた。クリスマスという事もあって、誰もが知っているクリスマスソングをイベント用にアレンジしたものを順に披露していく。曲によっては観ていた子供たちもが一緒に歌いだしていた。大人たちは彼らのハーモニーの美しさとその完成度の高さに驚嘆きょうたんした。中でも、薬師丸のヴォイパには大勢の客が歓声を上げた。

 イベントは大成功に終わった。

予定していたプログラムに千葉のアドリブまで飛び出して少し時間が延びたが、予定の範囲内で終了した。

 遅い昼食の用意のため依頼者の薬師丸の友人が先に出て行く。氷川たちもサンタクロースの衣装からそれぞれ私服に着替え、会場の撤収作業をスタッフ数名と行っていた。

 その作業の最中だった。ふと加賀谷が気づいた。

ステージのあったところから少し離れた柱のそばに少年がひとり、しゃがんでいるのが目に入った。もう客はすでに誰一人いなく、雑然としている。大勢の人が行きかう中、少年はその場を離れようとせず、ひとりうずくまっていた。

「ねえ悠一、あの子、迷子かな?」

 加賀谷がマイクのコードを巻いている氷川の肩をつつく。手を止めて氷川は、加賀谷の指した方向を見た。

「うーん、そうかも。ちょっと待ってもう終わるから」

 氷川は最後のコードをスタッフに渡すと、お疲れ様と言って早々に加賀谷のもとへ戻ってきた。

片づけ作業を終えた他のメンバーも集まってきた。

「どうする? 加賀谷、声かけてみる?」

 氷川が迷っていると加賀谷はその少年に近寄っていった。他のメンバーも後からついていく。

加賀谷がその少年の前に立った。

 その少年はじっと目を見開いて加賀谷を見上げた。口をきゅっと結んで、体を強張らせている。手にはかぶっていたと思われる野球帽をぎゅっと固く握りしめていた。明らかに身構えている。

 加賀谷がゆっくりしゃがんで少年の目の高さに自分の目を合わせ、やさしく微笑ほほえみかけた。

「ぼく、どうしたの?」

黙ったまま目の前にいる加賀谷の瞳を伺うようにじっと見つめる。

「怖がらなくていいからね」

加賀谷は少年の頭を撫でようとゆっくり手を伸ばした。

「!?」

 触れる寸前、少年はびくっと体を硬直させ、目を伏せた。

思わず加賀谷の手が止まる。

触れてこない加賀谷の顔をその少年は恐る恐る見上げた。

「……ごめんね」

 加賀谷は一瞬だけ酷く悲しそうな顔をしたが、すぐに笑顔を見せて少年から離れた。その様子を一部始終見ていた氷川の胸が痛んだ。加賀谷が傷ついた事に。入れ替わるように薬師丸がしゃがんで少年に声をかける。

「ぼく、良う聞いたって! いくで、ドン、ツク、ドゥルルルル~、ピシィー!」

お得意のヴォイパを披露する。

「……ずっと見てたもん」

少年はつまらなさそうに言った。

「がくっ!使いまわしはあかんかったか……キビシィなぁ。……ほなこれはどうやろ?」

 薬師丸は少年の目の前に右手の甲を見せて、左を指差すように人差し指だけを真っ直ぐに伸ばし、構えた。顔は正面を向いたまま、視線だけを右斜め上あたりを見ている。

「ピチュピチュ ピピピピピ ピチュチュチュン……」

鳥の声が薬師丸の口から聴こえてきた。その鳴き声は最初は小さく、だんだんと大きくなって。

「ピチュ ピピピ ピチュ チュ チュンチュン!」

視線を目の前の人差し指の先へ移すと、その指先が小さく、ぴくんと動いた……まるで見えない小鳥がとまったかのように。

「チュンチュン ピピピピ……」

するとすぐに今度は左の斜め上の方へ視線を移すと、鳥の声が段々と小さく、遠くなっていった。

「おおーっ!!」

「さすがやっくん!」

 千葉たちが声を上げる。少年は目を丸くしてきらきらと輝かせていた。薬師丸はにっこり微笑ほほえんで少年に問いかけた。

「ぼく、なんていうんや? おれ、薬師丸慎一郎やくしまるしんいちろう。長いからやっくんって呼んだってや」

少年は薬師丸を見上げて小さな声で言った。

「ぼく、たなかゆういち」

「そっか、この眼鏡の兄ちゃんと同じ名前やねんな。この兄ちゃんも悠一、言わはるんよ」

 薬師丸は氷川を指して、この兄ちゃん、これでも俺と同い年なんやで、ところころ笑って言った。どう言う意味だよ?と氷川が突っ込んできたがそれを無視して続ける。

「ひとりで来たんか?」

たなかゆういちと名乗る少年は首を横に振った。

「じゃ、おとん、おかんが心配してんな」

大きな黒目がちの瞳を少し潤ませて少年は小さな声で言った。

「パパとママがここでまってろって」

「そっか、ここで待ってろって言われたんか……」

 薬師丸はあごに手をやり少し考えてから、少年が握りしめていた帽子を、ちょっとかしてぇな、と言って渡してもらいそれを後ろにいた千葉に手渡そうとした。

「ハジメくんこれ持ってここで待っといて……。あ、やっぱ、キョウが持っといて。ハジメくんや真野さんやと誘拐犯と間違うてしまうわ」

後ろで聞いていた真野が被っていたニットキャップを直しながら気づいたように言った。

「誘拐犯って……何気に酷くないか、やっくん」

千葉は不満をあらわに突っかかる。

「やっくん!そりゃないよー、そんなにオレ、あやしい?」

「うん。そのサングラスなんか特に胡散臭うさんくさいやん」

薬師丸は千葉に即答するとすぐさま皆川と真野に頼んだ。

「キョウはここで待機しとって。ご両親と入れ違いになったらあかんさかい。真野さんはスタッフさんに昼食、遅れるって連絡しといてんか? おれ、この子の両親探してくるわ!」

薬師丸はしゃがんでいた少年の手を取って、立ち上がらせた。

「さすが子供好きを自負するだけあって行動早いわ」

皆川が感心する。薬師丸は左手で親指を立てて、にこっと笑うと、

「ほな、行って来るわ、後、頼んだで」

と皆川に告げて歩き出した。

「ああ! 俺らも行くよ!」

 氷川は後ろに下がってた加賀谷の手を引いて、薬師丸の後についていった。氷川の目には悲しそうに立っていた加賀谷が、この時だけは小さく見えた。まるで子供みたいに。真野だけがそのふたりを見て、目を伏せて小さく微笑ほほえむ。千葉と皆川を少年がいた場所に残し、真野はその場を後にした。


「なぁ、ゆういち、おかん、どこ行くっていうてはったん?」

薬師丸が訊くと少年は、わからない、とだけ言った。

「うーん、あんまり遠くいったりせえへんと思うけど」

「モールの中ってことは確かだろうな」

薬師丸の後を追いながら氷川が言う。

「場内アナウンスなんてやったら逆におとん、おかんにびっくりさせてしまうさかい……」

氷川が提案した。

「二手に分かれよう。俺らそれらしい夫婦を探してみるわ」

三十分後に千葉たちのいる、ステージのあった場所で落ち合おうと決めると、薬師丸たちは人混みの中へ消えていった。

 氷川と加賀谷が残された。加賀谷が赤くなって下を向いている。それが何故なのか氷川が気づいたのは歩き出した時だった。

「あっ!? 俺……ご、ごめん。手、繋いだまま歩いてた」

慌てて手を離す。あたふたと取り繕おうとしている氷川をやさしい眼差しで見て、加賀谷は独り言のように言った。

「ひとりで怖かったんだよね。怯えてたし……。はやく見つけてあげようね、両親」

加賀谷は少しだけ寂しそうな笑顔を氷川に向けると先に歩き出した。

「加賀谷……」

 加賀谷には両親がいない。ひとりの寂しさは、加賀谷自身が一番良く知っている。

 一刻も早く両親の元へ連れて行ってやりたい、そう思う反面、少年には自分の身を案じている両親が確かに存在する。加賀谷の胸の中は切なさと寂しさと羨望せんぼうが入り混じった、複雑な思いでいっぱいになっていた。そんな加賀谷を見ていた氷川の胸が切なさでいっぱいになる、加賀谷の事を思いやって。

 気づくと氷川は後ろから、加賀谷の左手を取っていた。

「えっ!? ……悠一?」

 驚いて振り向くと力強い眼差しを向ける氷川がいた。

「ひとりじゃないよ。俺がいるから」

 しっかりと手を握る氷川のその力強さとぬくもりが、加賀谷の胸に伝わっていった。胸の中の言い知れぬ思いは消え去り、安らぎとやさしい思いが胸いっぱいに広がる。

「うん……そうだね」

 恥ずかしそうに頷く加賀谷。しかしどこか嬉しそうだった。

繋がれた左手の手首に銀色の腕時計がきらりと光った。



 真野も合流し、千葉と皆川が帽子を持って待っている事、三十分。

先に氷川と加賀谷が戻ってきた。それに続くように薬師丸が、疲れた少年をおんぶして戻ってきた。

「どうしよっか……。アナウンス、頼もうか」

加賀谷が言った矢先だった。

「ママ!」

薬師丸の背中で弾んだ声がする。

優一ゆういち!」

 薬師丸の背中から勢いよく飛び降りると真っすぐ母親の元へ駆けていく。母親がしゃがんで少年を抱き留めた。


 薬師丸が今までのいきさつを話すと母親は深々と頭を下げて礼を言った。

 母親の話によると、購入した品物が注文したものと違う事に気づき、返品に向かう途中の事だった。たまたま通りかかったこのステージの前で、優一の足がぴたっと止まってしまい、薬師丸のヴォイパに見入ってしまったとの事。交換のためにその売り場まで戻りたかった両親が交換だけですぐに終わるだろうと思い、優一をそこに残して行ってしまった。ところが注文してあった品物が手違いで他の客のものと入れ違いになってしまい、その行方を調べているうちに時間がかかってしまった。今、その品物を引き取りに従業員が行っているとの事。売り場でしばらく待たされる事になってしまって心配していた母親が残してきた優一を探しに来たのだと言う。

「優一、ごめんね、ママ、もう、置いていったりしないから」

 母親は優一の手を取るとまた深々と頭を下げた。その横で優一が花の咲いたような笑顔で手を振る。

「やっくん、ありがとー!」

「うん、いっつもおかんにくっついてて離れたらあかんで!」

 薬師丸もにっこりと手を振る。

もう一度頭を下げた母親が優一の手を引いて歩き出した。振り返り、振り返り、優一が手を振る。

 そんなふたりを嬉しそうに薬師丸は見送った。対照的に加賀谷は、ほんのすこしだけ寂しそうな顔をしていた。

「良かったな、加賀谷」

「……うん、そうだね」

 目を細めてふたりを眺めている加賀谷に氷川は頭を掻きながら言った。

「あ、いや、あのふたりじゃなくて、加賀谷に言ったんだけど」

「え?」

「だって、気にかけてたろ? 心配してたろ? 優一のこと」

「あっ……!」

 加賀谷がわずかに頬を赤くした。それは氷川にしか分からない程だった。

 仲良さそうに歩いていく親子の後ろ姿を見て薬師丸が突然思い出したように言った。

「心配してもらえる家族がおるって、ホンマにええもんやなぁ。俺、正月家に帰ったら、久しぶりにおとん、おかんに甘えたろっと」

 その言葉を聞いて氷川は五日前の母親との電話のやり取りを思い出していた。

加賀谷と一緒にいたいと思い、正月はプロデビューに向けてのレッスンにかこつけて帰らないと告げていたのだが。


――せめても一日くらい、帰ってやってもいいかな。


たまに親孝行しても良いかもと考え直したのだった。




 遅い昼食の後、薬師丸の友人の勧めでメンバー全員、スキー場へ来ていた。

今回の出演料とは別に、大盛況だったイベントのお礼としてタダで滑らせてくれるとのこと。

最低限の板や靴は仕方がないとしてウェアまで借りる者は一人もおらず、皆適当な服装で滑っていた。

皆川に至っては何を思ったかサンタクロースの衣装で滑ってゲレンデスタッフと間違われていた。

「ああー! やっぱスキーっていいもんだ!」

さっそうと氷川が滑り降りてきた。それに加賀谷も続く。

「おーい、待てよ!」

後ろから真野がやっとでついてきた。

「おい、加賀谷はともかくとして、やたら上手くないか悠一?」

真野が不思議そうな顔で訊いてくる。

「加賀谷はともかくって、どう言う意味だよ!? ……まあ、いいか。俺、小学生の頃からずっと冬は家族でスキーに行ってたんだ。高校卒業するまで」

特に自慢するでもなくさらりと言う。

「悠一にしちゃ……道理で上手いと思ったよ」

やっと納得した真野。

「俺にしちゃ……って何だよ!? ったく」

「あはははは!」

ゲレンデに三人の笑い声が響く。

「ところで……」

急に真野が真面目な顔をした。

「お前ら、さ、……出来てるだろう?」

「ええっ!?」

思いがけない質問にふたりは、互いに顔を見合わせて沈黙した。そんなふたりを見て真野はふっと笑った。

「よかったじゃん、悠一」

氷川は加賀谷に以前真野に加賀谷の事を相談した事があると簡単に説明した。

「なんで分かったの?」

不思議でしょうがないといった氷川に真野はニヤリと笑って手首を指した。

「お前らさ、その腕時計、ベルト違いのおそろいじゃんか。俺の目は誤魔化せない、そんなとこだな」

「……恐れ入りました」

 氷川が軽く頭を下げた。加賀谷は恥ずかしそうに微笑ほほえんでいた。ふと、腕時計を見つめるふたり。ほとんど同時に顔が赤くなっていった。一昨日の夜の事を思い出して。

「……ストーブ、いらねぇなぁ、お前ら!」

真野が呆れる。

「え?」

顔を見合わせて、何の事だか全く見当が付かないといったふたり。

「あ・つ・い ってんだよ! やってらんねぇよ、全く」

フンと鼻をならして真野が、雪が溶けるからさっさと行けよと、手を振った。




 真っ白に広がる銀世界に赤い夕陽がかかりはじめる。

青空が赤から紫に染まる。夕陽をバックに山々の稜線のシルエットが浮かびだす。ナイター用のライトが点きはじめ、ゲレンデが白くぼうっと光って幻想的な雰囲気を出していた。

 そんな中、ふたりはふたりでいられる嬉しさと、喜びに少しだけはしゃいでいた。

ゲレンデという開放的な場所の所為せいだろうか。



――ひとりじゃない


加賀谷の胸の中で、あの少年と自分が重なってみえた寂しさが、今、跡形も無く溶けていく、氷川の熱い気持ちで。


……ふたりでいたい。ずっと。



――俺がいるから


氷川の胸の中で、あの少年と重なってみえた加賀谷が、小さく思えた。俺が守らなきゃ、俺がついてなきゃ。そう思わせる。


……そばにいてやりたい、ずっと。




 ふたりの思いは赤く染まる空の色より深く、ゲレンデに積もる雪よりやわらく、互いのこころに積もっていった。


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