第7話 原点



「ねえ、悠一、まだ怒ってる? 夕飯出来たけど……」

キッチンから加賀谷の心配そうな声がする。

「……」

俺は黙ったまま背を向けていた。

言われなくても分かってる。

ただ、引っ込みがつかなくなって、勢いで言ってしまった部分も多分にある。


それは今日の昼間の出来事だった。





 アカペラコンテスト前日の今日、最終仕上げの練習をしていた時。

今回出場予定のコンテストは大学のアカペラサークルが主体で行われるもので、運営も管理も全て学生。

だけどその規模のでかさといい、学生がやるという一般的な学園祭のようなノリとは全然空気が違う。年に一度のこのコンテストのために全国各地の大学から日頃切磋琢磨している奴らが一斉に集まり、この日のために競い合う。言わば真剣勝負の場だ。

 メンバーを募集していた春にはもう、加賀谷がこのコンテストに向けての メンバー集めだと言う事を決めていて、目下一番の目標にしていた。


……本当に加賀谷は歌うのが好きで好きでたまらないらしい。

いつも、いつでも練習をしている。

そんな加賀谷を見てきた所為せいか、俺もなんとか加賀谷ついて行こうと、俺なりに必至で頑張ってきた。

だから……思わずハジメの言葉に、カチンときた。


最初は些細ささいな事だった。



「そこはそうじゃないって!」

 何度繰り返してもキマらない。

ピッチをきっちり合わせ、納得のいくハモりを作ろうと俺はかなりいっぱいいっぱいだった。

「悠一、これで充分じゃねーの?」

 キョウが頭を掻きながら怪訝けげんそうな顔で言う。

「だから、まだ合ってないって!」

 俺は少しイライラしていた。

横にいた加賀谷が顔を少し曇らせる。

俺はますます力が入った。

「いいか、コンテストは明日だぞ! もう今日しか無いんだからもっと性根入れて練習しろよ!」

何時いつの間にか声が大きくなっていた。

「悠一、おれも充分イケてると思うで。ちょっと神経質なんとちゃうん?」

やっくんが悲しそうな顔をしている。

「俺は出来る限り完璧かんぺきな歌を披露ひろうしたいと思ってるんだ。 そのためにはもっと上手くハモらないとダメなんだよ! まだまだやれるって! こんなもんじゃないだろう!?」

 肩に力が入り両の手は握りこぶしを作っていた。

ふうっとため息をひとつついてハジメがいつもの軽い調子で言った。

「悠一、もう明日なんだから今更ジタバタしたって始まらないって。 もっと気持ちに余裕を持ってさぁ、楽しむぐらいでやんなきゃダメよ」

頭の後ろで手を組み、軽く伸びをする。

「今更!? ジタバタだと!?」

コンテストで上位入賞を真剣に狙っている俺は思わずキレた。

「そんなんで入賞出来ると思ってんのか!? もっとテクニックを磨かないとダメなんだよ! 上手くハモってナンボなんだよ! 楽しむなんて生ぬるい事、言ってるんじゃねーよ!」

 次の瞬間、俺はハジメの胸倉をつかんでいた。

そりゃ、ハジメはヘルプとはいえバンド掛け持ちしてて色んなところで演ってて場慣れもしてるだろうさ。

でも、俺にとっちゃ練習がてらにやってる駅前のライブ以外は、前回の花火大会の前座以来で。

それになんたってこのコンテストは全国規模だから、 俺たちがどのくらいのレベルにいるか気になって仕方なかった。

 ハジメは抵抗もせず、俺が手を離すのを待ってから言った。

「なあ、悠一はなんで歌ってるのさ?」

「なんでって……上手くなりたいからさ!」

一瞬、俺は躊躇ちゅうちょした。今は確かに上手く歌いたい、そう思っていた。

「そうじゃなくって、さ、ここは何処どこるのさ?」

 そう言ってハジメは右手で親指を立て、胸を指した。

余裕の無かった俺は怒鳴った。

「コンテストなんだよ!まず、上手くなきゃ!」

 俺はハジメの肩をどつくと、くるりと背を向けて両手をテーブルに思いっきり叩きつけた。

あたりに緊張が漂い、空気がどんよりと重くなる。

 俺は内心焦っていた。

なにしろ大学のアカペラサークルの間では加賀谷とやっくんが結構有名になってきてて、二人の上手さ……単純にテクニックだけでなく表現力とかも含めて総合的な意味で評判が上がっていた。

 ますます加賀谷との差が開く一方。加賀谷はどんどん前へ進んでいって俺なんか追いすがることすら出来やしない。

あの天に届くほどの歌声は、今じゃ本当に神の声としか言いようが無いほどだ。

音域も広く、深く透明で、それでいて甘く、しかも強い。それだけじゃない。……なんといってもあの正確さ。

ピッチを確実にとれていて、コーラスでもつられない、狂わない。

俺の目から見ても、明らかにレベルの違いが分かっていた。

「今日はもうこれくらいにして、明日の朝合わせようや」

見かねて真野さんが提案した。

他のみんなは黙って考え込んだり、うなずいたりしていた。

俺は誰の顔も見ずに部室を飛び出してマンションへ帰った。

 俺から遅れる事十五分。加賀谷が帰ってきた。

リビングにいる俺にそっと近寄ってくる。

俺はイライラがおさまらず、半ば加賀谷に当たる様にして言い放った。

「俺以外のメンバーで練習続けててもいいんだぜ? 無理に俺なんかに合わせなくても、さ!」

ふと見ると加賀谷は悲しそうな顔をしていた。

「今日は前日だし、練習をしすぎるのもなんだから後は体調を整えて……」

最後まで聞かずに背を向けた。

「少し横になる!」


 まだ夕方、五時過ぎ。でももう冬はすぐそこで、日が落ちるのも随分早くなっていた。

今日は良く晴れてた所為せいか、空の色がきれいに夕日に染まる。

俺は加賀谷がキッチンで何かを作っている音を聞きながら、うとうとと浅い眠りについた。




 そして今、食事の用意が出来たと加賀谷が俺を起こしに来た。

加賀谷の言わんとしている事は重々承知の上で俺は黙っていた。

怒っているとしたら自分にだ。

「冷めるから……食べよう?」

加賀谷はあの笑顔でやさしく俺を促した。

「……うん」

 俺は加賀谷のやさしさを無視できるほど強くは無かった。

はっきり言って……加賀谷には、甘い。

俺は表向きはふてくされてはいたが、加賀谷の気持ちは嬉しかった。

「ふう…。腹いっぱい、食ったなー」

 自然と尖ってた感情が丸みを帯びてきて、かわりに広がるのは後悔。

あそこまでハジメにあたる事は無かっただろう……。

でも俺の中では今以上、出来る限り上手く歌いたい、加賀谷に恥じないように頑張りたい、 そう思う気持ちが強かった。


――「上手い」だけじゃダメなのも分かってる! 分かってるけど……!


 食事が済んでソファにどっかり座っていた俺は、 もやもやしたものを抱えながら何時の間にか黙りこくっていた。

「ねえ、今から荒川の河川敷まで行かない?」

俺の隣にぼすっと座り、にっこり笑って加賀谷が言った。

「何しに?」

 全く想像もつかない誘いに俺は首をかしげて訊いた。

すると加賀谷は今以上に満面の笑みで答えた。

「発声練習しに!」

そういうや否や加賀谷は俺の腕をとり立ち上がらせ、後ろに回って背中を押した。

「さあ、行こう、行こう!」

「ま、待てよ、ちょっと……」

 俺の事などお構いなしに凄い力で押してくる。

抵抗しても無駄なのは分かっていた。

実際力持ちなんだよな、加賀谷って。俺との腕相撲、五十戦五十勝だもんな。

 俺は押されるまま、外へ連れ出されていた。



 自転車で荒川の河川敷まで行く。土手を下り川岸近くまで前に出る。

辺りは真っ暗で人の気配なんてある訳も無い。土手の上にある街灯だけが誰も通るはずのない歩道を生真面目に照らしている。

もう十一月も下旬にさしかかろうという寒空に、こんな土手を出歩いている人間なんて俺らくらいだよ……。

自転車で来た所為せいか、思ったより身体は寒さを感じなかった。今夜は特に空気が澄んでいる、そんな気がした。

 横を見ると加賀谷がストレッチを始めている。

「さあ、練習しよ!」

 もう、待ちきれないと言った風に声を出す。……相変わらず加賀谷の声は人間離れしてる。

俺はしばらくその美声に聴き惚れていた。

そんな俺に気づいた加賀谷は不満そうな顔をして催促さいそくした。

「何ぼーっとしてんの? 悠一も声、出しなよ!」

 俺はついさっきまで自分に腹を立てていたこともすっかり忘れ、加賀谷の隣に立ち、声を出した。

ふたりできらきら光る川面に向かって声を出していた。何時いつしか俺の歌声に加賀谷がハモっていた。

不思議なくらい重なり合って、溶けてあって、まるでひとつの音のようだった。

……めちゃくちゃ気持ちよかった。

やっぱりハモるって気持ちいいもんだな。

そんなことを考えながらふと川面に視線を落とすと、やけに水面がきらきら光っている。

俺は何気なく上を見上げた。

夜空には数え切れないほどの流れ星が輝きながらいくつもの線を描いている。

驚いて加賀谷の方を見ると、やさしく微笑ほほえんでいた。

「今夜はしし座流星群がピークを迎える夜だったんだ。実は悠一に見せたくて」

 俺はもう一度、夜空を見上げた。

ある一点を中心に放射状に流れ星が降る。

すーっと線を描き、いくつもいくつも流れていく。

晴れて冷え込んだ空気が、いっそう降り注ぐ星々を輝かせる。

まるで手が届きそうな、そんな感じがした。

「夜は地球が裸になって宇宙と触れ合うんだ。だから人間も夜になると素直になるんだよ。 夜、会うと、人と人が近く感じるのはそれと同じ。昼間の“青い空” という包みが無くなるからなんだ」

 加賀谷が夜空を見上げながら言った。ふと、俺に向き直って続ける。

「落ち着いた?」

 俺は加賀谷の笑顔を見ながら考えていた。

俺はこのコンテストに向けて、上手く歌う事だけを考えていた。

自分の思うように歌えるようになりたい、そう思っていた。先ず、テクニックが先だと。

何時いつの間にか歌う事本来の意味を忘れていた。誰に向かって歌っているのか。聴いてくれる人がいるから。

自己満足ならコンテストに出なくたって良い。俺たちの歌を他の人に聴かせたい、歌う楽しさを伝えたい。

俺は伝えたい気持ちを何処どこかへ置いてきぼりにしていた事にようやく自覚した。

そう、気持ちも大事だ。

どっちも大事……俺はハジメに言われなくても、頭では分かっていた。

理屈で分かっていても、納得出来なかった。

 目をそらしうつむく俺に加賀谷は考えながら話し始めた。

「歌ってバランスが大切だよね。ハモるって事は、歌う全員の全てのバランスがきちんと取れてないと。そして歌うには技術も必要。でも、上手いだけじゃ気持ちは伝わらないよね。きれいなだけの歌って僕たちらしくないよね。だって歌うって凄く楽しいから。少なくとも僕は楽しくてしょうがないんだ。この楽しさを歌うことで聴いてる人に分けてあげられたらって、いつも思ってた。でも、気持ちだけじゃダメなんだ。伝えるために技術が必要になってくる。……ね、どっちも大切なんだよね。気持ちも、技術も。バランス、上手く取らなきゃ、ね」

 俺はただうなずくだけだった。思っている事を加賀谷が全て代弁してくれた。

 もう一度、流星を見上げてから言った。

「俺、今からハジメんち行って謝ってくるよ。……思い知らされたよ、こんな夜空を見てたらさ、俺ってちっぽけだなあって。ごちゃごちゃ考えたって自分の出来る限りで頑張ればいいじゃん、そうだよな」

「うん、明日は後悔しないように頑張ろうね」

 加賀谷の笑顔はいつも同じ、全てを包み込んで許してしまう。そんな笑顔を見せられた俺は、酷く素直になっていた。

「ありがとう。俺、いつも加賀谷に助けられてる気がするよ。 加賀谷がいてくれて、本当に良かった」

思わず加賀谷をじっと見つめる。

心なしか加賀谷が赤くなって俺の視線をそらしうつむいた。

え……照れてる?

俺もつられて頬が火照ほてってきた。

「そ、それじゃ戻ろうか」

加賀谷が先に土手を登っていった。

「俺、このままハジメんち行ってくる。あ、ひとりで大丈夫だから。加賀谷は帰ってて」

 俺は土手を駆け上がり、自転車に飛び乗ると加賀谷に手を振ってから ハジメんちを目指した。






 ドアの前に立ち、深呼吸を一つしてインターホンのボタンを押す。

「あのー、俺だけど」

「ああ、悠一? 開いてるよ、入って」

すぐ返事があった。

「お邪魔します……」

俺はそっと中へ入った。

 ハジメの部屋へは何度か来た事があったが、リビングにはギターやキーボードが置かれてて 音楽が日常になってる、というのは相変わらずだった。その上、隣の部屋にはオーディオ関係の機材や、スピーカー、アンプ、チューナーなどが所狭しと置かれ、いかにもミュージシャンの部屋と言った感じだ。

「ところで、どしたの?こんな時間に?」

昼間の事がまるで何も無かったかのようにハジメが訊いてきた。

俺は素直に頭を下げた。

「昼間は俺が悪かった! この通り、謝るよ!」

腰を曲げたまま、ハジメの言葉を待った。

「悪くなんかないさ、誰でも上手くなりたいって思うもんだよ」

俺は驚いて目を丸くしながらハジメを見つめた。

「まあまあ、とりあえずほら座って。悠一、ビールしかないけど……やっぱつまみ要る?」

俺は勧められるままソファに腰かけた。

「いや、いいよ……」

 ハジメは冷蔵庫から缶ビールを取り出して座っている俺に手渡すと、 向かいのソファにどかっと座り、自分は飲料水のペットボトルのキャップを開けて飲み始めた。

俺は受け取った缶ビールのプルタブに手を掛けて……止めた。

「何遠慮えんりょしてんの? さあ、飲んで!」

俺はうつむきがちに訊いた。

「怒ってないのか? 俺にあんな風にまで言われて、さ」

「別に。俺にもあったから、あんな時期」

「え!?」

顔を上げてハジメを見ると、苦笑いをして頭をいていた。

「オレもさバンド始めた頃はただ楽しくてしょうがなかったのが、人前でやってくうちに聴いてくれる人、すなわちお客さんを気にするようになったらさ、 このままで良いのかって思い始めて。そうすると止まらなくなるんだよ、コレが。どんどん、巧くやらなきゃ、お客さんに飽きさせないよう、より巧くやって惹きつけなきゃってね。そうなるともう焦って焦ってしょうがなくなる。技術だけを追い求めて、気が付くと楽しくなくなってるんだよな」

ハジメはひとつ、ふうっとため息をつくと続けた。

「一体何のために音楽、やってんだろ、……そう思ったらオレはいつもこれを見るんだ」

そう言ってハジメはテーブルの上に無造作に置いてあった財布を手に取ると、 中から一枚の紙切れを取り出した。

 それは写真だった。

ドラムセットの前でギターを持ったヤツやベースを持ったヤツらに混じってハジメが写っている。いかにもバンド組んでます!といった感じだ。俺は一通り眺めて返した。

 写真を受け取るとハジメは懐かしそうに目を細めて言った。

「この写真はオレが初めてバンドを組んだ時のものなんだ。 大学に通う友人に誘われてバンドサークルに入ったものの、しばらくはバンドが組めなくて。 実は今でもそうなんだけど、人見知りがひどくて、オレ」

「ハジメが!?」

俺が驚くとハジメは苦笑いをして言った。

「……慣れるまでに時間がかかるんだよ。オレってつい、 相手の事を考えていつも行動するから、自分の本心が何処どこるのか自分でも分からなくなって。 バンド組むときも、相手がどうして欲しいかとか、余計に考えて中々組めなかったんだ」

ハジメの意外な素顔を垣間見た気がした。

「やっと組めたバンドで活動したのは半年ほど。メンバーのひとりがバイクの事故で亡くなって。 結局その時のメンバーはみんなバラバラになっちゃって……。 まぁ今はきたる時のために充電中?ああ、そうだ、歌を磨いている途中か、アカペラって技法で」

 今はバンドを組まずに俺たちのために協力してくれている……改めて申し訳なさがこみ上げてくる。

「だからオレにとっての原点はここ。 何かにつまずいたり、目の前が見えなくなった時はこの写真を観て“初心”に帰るんだよ」

ハジメはそう言って写真を元通り、大切そうに財布の中へしまった。

代わりにギターを手にしてぽろん、ぽろんと爪弾つまびき始めた。

「俺にとっての原点って……」

思わず声に出していた。

「悠一にとっての原点、探し出せるといいな。……おっともうこんな時間かぁ……オレさ風呂に入ってもう寝たいんだけど、な」

ハジメがいつもの力が抜けるような、りきまない笑顔で言った。

「ああ、ごめん。もう帰るよ。……今夜はサンキュ」

 俺は少しだけ気恥ずかしくなって、そう言うとすぐに立ち上がって玄関へ向かった。

後ろからハジメが声を掛けてくる。

「心配してたぞ加賀谷。悠一がくる直前に電話貰ってさ、今から行くからよろしくって」

俺は思わず振り向いた。

「……加賀谷のやつ、余計な事して」

口では悪態あくたいをつきながら、顔はほころんでいた。

「気持ち悪っ。言葉と顔、合ってないんですけど?」

真顔でハジメが指摘する。

「気持ち悪ってなんだよ! 加賀谷は心配性なんだよ、全く」

顔が赤くなっているのが自分でも分かる。俺は気づかれないように急いでハジメの部屋を後にした。





 マンションへ帰ると加賀谷がソファに座って待っていた。

ただ座ってるだけでなく真剣な面持ちで何かスコアに書き込んでいる。どうやら明日の朝の調整用のチェックを行っているようだ。

 俺に気づきその手を止めてふと顔を上げる。

「おかえり、悠一。明日は時間が限られてるからね。ピンポイントで調整しなくちゃ」

 加賀谷は笑っていた。いつものあの笑顔で。

俺はその場に立ち竦み、こみ上げてくる思いをせいいっぱい抑えていた。

ああ……やっぱり加賀谷にはかなわない。

俺にとって歌うことは加賀谷と一緒にいるための必要最低限の事。

加賀谷と俺を繋ぐたった一本の糸のようなもの。

もし、歌が無かったら、今こうして加賀谷の笑顔で迎えてもらえる事も無かっただろう。

歌うことで俺は、加賀谷に認めてもらいたい、と思った。

そして……加賀谷を必要とした。

俺にとっての原点は……加賀谷だ。歌を歌うのも、俺の帰ってくる場所も、全て加賀谷。

 俺はこみ上げてくる気持ちをついに抑えきれなくなった。

「あのさ、加賀谷」

「うん、何?」

 やわらかく、あたたかく、包み込むような。俺のこころをとらえて離さない、あのやさしい笑顔。

加賀谷の笑顔を目の前にして、想いがあふれ出た。

「俺、友達としてじゃなく、ひとりの人間として加賀谷の事が好きだ、その……恋愛対象として」

はっきりと想いを口にした。

「え……」

 持っていたペンがぽろりと手から滑り落ちる。

俺の顔を穴が開くんじゃないかと思うくらいに驚きの眼差しで見つめている。

「はっ!!」

驚いた加賀谷を見て、自分が何を言ったのか改めて事の重大さに気づいた。

「ご、ごめん、男の俺にそんな事言われても嬉しかねーよな。困るだけだよな」

 後悔先に立たずとは言ったもんだ。

いたたまれなくなって俺は加賀谷に背を向けその場を後にしようとした。

恥ずかしさと後悔でそこから逃げたしたくなった、その時すぐ後ろから加賀谷の声がした。

「悠一、僕もずっと好きだったよ」

「えっ!?」

 俺は驚いて振り向いた。

そこにはやさしいけど熱い眼差しで俺を見つめる加賀谷が立っていた。

「まさか、加賀谷が俺のことなんて……」

 そう言いかけたとたん、加賀谷が俺を抱きしめてきた。

最初俺は加賀谷に抱きしめられた事が良く分からず、急に強く身体を締め付けられ驚いて身体を強張らせた。

それもほんの一瞬で加賀谷のあたたかい腕の中で急に安心感で胸がいっぱいになり、 そのまま体重を預けた。

「悠一、好きだよ」

 俺の耳元で少し掠れた声で囁く。その声にドキッとして思わず身体を離した。

俯きがちに、ほんの少し頬を赤くした加賀谷が言った。

「ご、ごめん。急にこんな事して。……その、僕も本当に悠一の事が好きだったから、嬉しくてつい」

「……加賀谷っ!」

「えっ!」

今度は俺の方から加賀谷に抱きついていた。……嬉しかった。ただ、嬉しかった。

「悠一……」

 加賀谷が少し身体を離して俺の名を呼ぶ。顔を上げるとあの笑顔で俺を見つめていた。俺はその目から、視線をそらす事が出来なくなっていた。

 加賀谷の両手が俺の顔をやさしく、そっと包む。軽く自分の方へ引き寄せ、ほんの少し首をかたむける。ゆっくり顔が近づく。

 加賀谷の方が少し躊躇ためらいがちに、俺の唇に自分の唇を重ねてきた。触れるだけのくちづけの後、確認するように加賀谷が目で合図をする。俺はこくんと、一度頷くと今度は深く深く、口づけてきた。加賀谷の舌が俺のわずかに開いた唇から滑り込んでくる。俺の舌がそれを出迎え、溶けるように絡み合う。

……不思議なほどこころが安らかだった。

 加賀谷に触れている、確かに身体は反応している。加賀谷のぬくもり、におい、やさしく抱きしめる腕の力強さ。

胸はドキドキして、体中を熱い血が駆け巡る。でも、身体以上に、こころが満たされている、あたたかなやわらかい想いで。

 そんな気がした。

「……悠一、嫌じゃ無かった?」

 腕を回したまま、向き合っていた加賀谷が、真っ赤になって恐る恐る訊いてきた。

「どうして? 俺、加賀谷が好きだから全然嫌じゃないけど…って言うか、 恥ずかしいからそんな事訊くの、やめれ」

 加賀谷の真っ赤が俺にも移ったらしい。

しばらく俯いて真っ赤になっていた、俺たちふたり。

急に加賀谷がくくっと笑い出した。

「なんか、可愛いね、僕たち」

「はぁ!?……可愛い?な、なに言ってんだよ、気持ち悪っ……ぷっ!」

 思わず俺も笑い出していた。

こころが穏やかになって行く。加賀谷といるとこんなにも。

「明日、頑張ろうな」

「うん」

 そうして俺はその夜遅くに床についた。

でも、眠れるわけがなかった。

加賀谷に思いが通じてしかも、俺の事を想っていてくれたなんて!

嬉しくて結局一睡も出来なかった。





 あくる朝、俺は早めに集合場所へ行き、メンバー全員に謝った。

意外と反応が薄かったのは、昨夜のうちにハジメから加賀谷に電話が入ってて、しかも加賀谷が他のメンバーへ連絡済みだった、と言うのを俺は後から聞かされた。

 会場へ向かい、受付へ行こうとした加賀谷が急に思い出したように俺たちに向かって叫んだ。

「ど、どうしよう!?」

いつも落ち着いてて、マイペースな加賀谷があんなに焦っているのを俺は今まで見た事が無かった。

「か、加賀谷くん、どしたの? 急に」

やっくんが訊くと真野さんも続けて言った。

「ちょっと落ち着けよ、加賀谷」

深呼吸するように促す。

 ちょっとだけ落ち着きが戻った加賀谷の口から出た言葉は、 俺たちを絶句させるのに充分なものだった。

「当日の受付までにバンドの名前、決めるの忘れてた……」

「なんだって!?」

ハジメが素っ頓狂な声を上げた。

のん気にもほどがあるよ……。

俺は余りに加賀谷らしくてつい、吹き出してしまった。

それを横で見ていたキョウが軽くひじをついてきた。

「悠一ぃ。笑ってる場合じゃねーぞ、おい」

「……そりゃそうだ。どんな名前がいいかなぁ、“ジャクソンシックス”なんてのはどう?」

思いつきで言ってみた。

「却下! そりゃないだろ!」

……何も加賀谷以外の全員でハモらなくても。

 その時、ふと真野さんが加賀谷のシャツをじっと見て言った。

「“Clouds and wind(クラウドアンドウィンド)”ってのはどうだ?」

俺は真野さんの視線の先を追ってみた。

加賀谷の着ているシャツのロゴだった。

「“Earth, Wind & Fire(アース・ウィンド・アンド・ファイアー)”みたいだな」

ハジメがぽろりとこぼす。

「ええやん、ええやん! 雲と風やろ? 自由気ままなおれにぴったり!」

「いや、やっくんひとりのバンドじゃないから……」

「いいんじゃね? クラウドアンドウィンド、なんとなくカッコいいじゃん!」

やっくんもキョウも気に入ったようだ。ハジメもまぁいいっかと頭をかいている。

「よし、“Clouds and wind(クラウドアンドウィンド)”で決まりだな。加賀谷、早く受付済ませてこいよ」

真野さんがバシっ!と加賀谷の背中をたたく。

「ちょっ、ちょっと待って。……悠一、“Clouds and wind”で良いかな?」

心配そうに訊く加賀谷に俺は笑って右手の親指を立てて言った。

「いいともー!」

「お前はタモさんかぁ!?」

ハジメの突っ込みでげらげら笑い出す俺たち。

そんな俺たちを笑顔で見届けた後、加賀谷は受付まで駆けて行った。





「今まで一番上手くいったんじゃないかな」

 出番が終わったばかりの舞台袖で加賀谷が言う。

興奮冷めやらぬといった感じだ。かく言う俺も同じ気持ちだった。

「最高だよ! 俺ら!」

キョウがその場にしゃがみこみ、堪えきれないと言った風に叫んだ。

「アカペラってこんなに気持ち良いものだとは……オレ、ホント驚いた! 勉強になりました!」

ハジメが興奮したように誰に言うでもなく感動している。

「うん!上出来、上出来やんか!おれ、たまにヘルプで他のバンドで演るけど“Clouds and wind”いっちゃん気持ちええ!」

うんうんと頷きながらやっくんが言う。

「どうだった?」

満面の笑みで加賀谷が訊いてきた。

「最高に決まってるだろ!」

俺も負けじと笑顔で答えた。なんだか舞い上がっているようだった。

「一時はどうなるかと思ったがな」

 真野さんのその一言で俺は一気に現実に引き戻された。

確かに浮かれてばかりもいられない。やらなきゃいけないことがある。

……俺は腹をくくった。

「みんな、聞いてくれ。俺、リーダーやるわ。責任取ります!」

「ええっーーー!?」

加賀谷までも驚いていた。

「今回の事で責任持ってやらなきゃって。アレンジ、今以上に頑張るよ!!」

俺は妙にやる気満々だった。このメンバーでなきゃここまで達成感は感じなかっただろう。

「まぁ、いいだろう、アレンジ、まとめ役って感じだもんな」

真野さんがふっと笑った。

「大丈夫かぁー?また、キビシイ事、言うんじゃないのかぁー?」

ハジメがニヤニヤしている。

俺は苦笑いした。

「だから、俺、反省してるって。その分、頑張ります!」

俺は頭を下げて宜しくお願いしますっと叫んだ。

「よーし、ビシビシしごいてやるから」

キョウが言うとやっくんが続く。

「悠一、短気は損気。あかんで、すぐに怒ったら、人間辛抱が肝心やで」

笑いながら言うやっくんの目は、笑ってなかったのは俺の気のせいか……?

「ははっー、精進致しますぅー」

「悠一、たまたまアノ日だったのよねぇー」

サングラスをくいっとあげてしょうがないなぁと言わんばかりのハジメ。

「……何の日だよ」

「ア・レ・よ、アレ。生理!」

「はぁ!?ばっかじゃねぇの!!何言ってんだよ、ハジメのヘンタイ!」

みんなが笑う中、加賀谷はやさしく俺を見つめていた。

「悠一、がんばってね」

「ああ、見ててくれ、加賀谷の期待以上にやってやるさ!」

加賀谷がいてくれれば、俺は何だって出来る。

加賀谷の笑顔が俺に無限の力を引き出してくれる。




その数時間後、俺たち“Clouds and wind”が優勝した事を知る事になる。

そして、会場に来ていたスカウトマンからプロにならないかと勧められる。

俺たちは全員で話し合った結果、その道を選んだ。

「このメンバーなら何処までもやっていける」

俺は確信していた。

加賀谷に支えられ、メンバーに支えられ。

俺は気を引き締めてリーダーとしてやれるだけの事をしようとこころに誓った。

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