第6話 古傷
窓の外は暗く、家路を急ぐ人々が強風に身体を
多くの店舗や企業が早々に今夜の営業を取りやめ閉店する中、その強い風に揺れる街灯の灯りだけが
「今夜は台風が通過するってニュースで言ってるけど、 こんなおっきいのは随分久しぶりだよな」
時折窓ガラスに大きな雨粒が音を立てて当たる。
マンションの前にある街路樹が風に揺れ、ざわざわと音を立てているのがふたりの部屋にも微かに聞こえてきた。
「僕、台風ってあんまり好きじゃないんだ」
夕食の後片付けをしている加賀谷は、キッチンで洗い物をしていた。
「へぇー加賀谷も? 俺さ、台風でエライ目に遭ってそれから大嫌いなのよ。一年の夏にバイクで日本一周……いや、日本半周? まあいいや、簡単に言えばバイク旅しててさ、台風の北上と俺の北上が鉢合わせ。コースを変えるのも、通過を待つのもなんか違う!って。負けるもんかと競争したのがバカだった……。 結局台風に追いつかれ、見事ずぶぬれで俺の完敗」
口でそう良いながら目はテレビの画面を追っている。
加賀谷に背を向けたまま、先ほどからずっと映り続けている台風情報を見入っていた。
「……よくもまあ飛ばされずに済んだもんだね」
ほんの少し呆れ顔で手にしていた最後の皿を水切りカゴへ移す。
洗い物を終えて、氷川のとなりへ並んで座ってテレビを観た。
「もう随分、近づいて来たみたいだね」
「十時頃が一番風が強くなるってさ」
テレビから視線を外し、壁の掛け時計を見て時間を確認する。
「あと二時間くらいか……ねえ、早めにお風呂入ったら? 僕、 筋トレするから悠一、先に入りなよ」
氷川はもう少し台風情報を見ていたかったらしく口をとがらせ少し渋ったが、後に加賀谷が控えていると思うとあきらめてバスルームへ向かった。
テレビのスイッチを消し、日課である筋トレをすべくヨガマットを広げる。
マットの上で腹筋をしながら加賀谷は思い出していた。
「また、台風の時期が来たね……。あれから何年経ったんだろう……」
いつの間にか腹筋を止めて考え込んでいた。
「風呂、空いたよ」
髪もまだ完全に乾ききってない状態で加賀谷に声をかけると一直線に冷蔵庫に向かう。
極上の笑みを浮かべて一番奥にある冷えた缶ビールを一本取り出す。プルタブに指をかけ、封を切ると一気に喉へ流し込んだ。
「くぅーっ! 風呂上りの一杯、最高! ああ……生きてるって感じ」
目を細めて幸せでしょうがないと言った顔の氷川とは対照的に、暗い顔をして少し
「生きてる……か」
加賀谷は一言そうつぶやいてから、何かを吹っ切るように頭を軽く左右に振り、バスルームへ向かった。
風が段々と強くなり、
稲光の
「どう? 台風通過した?」
風呂から上がってきた加賀谷がテレビの前にいる氷川に声をかける。
「今からみたいよ」
台風情報をずっと見ていた氷川が返事をする。
「停電とかならなきゃいいけど」
窓のほうを見やり心配そうに加賀谷が言うと、ふと思い出しように氷川が振り返り指さした。
「そう言えばこの間、やっくんからヘンなろうそく貰ったんだけど。 ほら、棚の上に置いてある、それ」
透明なプラスチックの箱の中に薄いブルーのガラスでできた、丸い入れ物の半分くらいに白いろうそくが入っている。
一緒に紅いマッチ箱が入ってセットになっているそれを加賀谷が手に取りふたを開ける。ふわっと甘くやさしい香りが鼻をくすぐった。
「ああ、アロマキャンドルってやつだね。やっくん最近 アロマテラピーにハマってるって言ってたもんね」
「そう、そのなんたらテラピー、って言うそれしか家にろうそくないから」
手にしていたろうそくからぱっと目を離すとすぐさまそばまで歩み寄り、氷川の隣に膝立ちなる。
「じゃもし停電になったら、これひとつ? たったひとつなの? 他に懐中電灯は無いの?」
妙に神経質な加賀谷の態度に氷川は怪訝な顔をして言った。
「そんな簡単に停電なんてならないんじゃねーの、何かこだわってない?」
「そ、それは…」
その瞬間、明かりが消えた。どうやら停電になったらしい。あたりが真っ暗闇に包まれる。
ついさっきまでテレビの音で風の音が気にならなかったのが、 消えてしまった今、やたらと耳につく。
「あーあ、言ってる矢先に停電になっちゃったよ。加賀谷、そのろうそくかして」
手探りで加賀谷の気配を探る。指先に柔らかい手の感触が当たった。
「加賀谷……?」
触れた手を確認しようとそっと重ねると、加賀谷の手が小さく震えていた。
「どうかしたの?」
黙ったまま答えない。
「とりあえず、ろうそくに火を点けたいから渡してくれる?」
小さく震える手でおそるおそる箱ごとろうそくを渡す。
氷川が手探りでろうそくとマッチを取り出し火をつける。ぽっと小さな明かりが灯った。
ゆらゆらと小さな、あたたかい色をした炎がふたりを照らし出す。そしてそこから甘い香りが漂いはじめた。
氷川は加賀谷の隣へ座りなおし、様子を確かめようと顔を覗き込んだ。
「大丈夫?」
ろうそくの淡い光に照らされて、加賀谷の表情がやっと見て取れる。
「ごめん、もう、大丈夫だよ……」
消え入りそうな声で答える。
「どうしたのさ?」
加賀谷はろうそくの炎を見詰めながら、ゆっくりと話し出した。
「僕ね、小さい頃に事故で両親を亡くしてるんだ……」
「えっ!?」
思いもしない言葉に思わず、体を強張らせる。
氷川はそのまま、息を呑んで黙って聞いていた。
「僕が十歳の時の事なんだけど……その日は両親とドライブに出かけて、 帰りが遅くなっちゃって……そう、こんな台風の夜のことだったんだ。 父が慌てて帰ろうと車を飛ばしてて、普段は通らないような山道に迷い込んじゃって。 雨風が酷くて前も
「……」
ろうそくから目を逸らし、
軽く
「気が付いたとき、車に押しつぶされそうになった僕を、母がかばって覆いかぶさってた。 あたりは真っ暗で音といったら、僕の呼吸と母の苦しそうな呼吸しか聞こえなかった。 母は、僕の名をずっと呼んでたらしく僕が気が付くと安心したようにひとつため息をつくと言ったんだ。 このままじゃふたりとも死んでしまう、と」
組まれた両手をじっと見詰める。
「僕は助手席に座ってて、フロントガラスの方に母がいて、 シートを倒せば後部座席のほうは少し空間が空いてたんだ。 でも大して大きい車じゃなかったし、そう、
「ま、まさか……!?」
氷川は驚いて膝で立ち上がった。
その瞬間、激しい
暗い部屋の中を一瞬、鋭い光が走った。
「僕のために、母は……自ら命を絶った」
加賀谷の声が、少し
氷川は崩れるようにそのまま正座をした。
「押しつぶされそうな暗闇の中で
「……」
加賀谷は顔を上げて、ろうそくに視線を向けた。
その小さな炎を見つめながら
「それと父の遺体が土砂に埋もれずにいて、すぐに発見されたお陰で、 僕と母の捜索もすぐ始まって。……きっと父が僕らがいるって知らせてくれたんだと思う。 僕、両親に命を分けてもらったんだ」
軽くひとつ息を吐く。外は相変わらず風が酷く、低い唸り声を上げている。
「それじゃ……今までどうやって……」
問いかけた氷川の声が、心なしか震えていた。加賀谷は顔を見ずに話を続ける。
「うん。僕、母の妹……叔母さん夫婦に引き取られて。子供の頃は苗字が違う、とよくいじめられたっけ。なぜか僕、叔母さんの戸籍に入る事を拒んだんだ。『加賀谷』の苗字にこだわって……。子供ながらに思ったんだろうね。僕が苗字を変えれば、両親との繋がりが無くなってしまうって。両親が救ってくれたこの命を、僕は誇りを持って生きたいと、そう思ったんだ。 ……叔母さん夫婦にはお世話になりっぱなしだったけど、僕は少しでも早く家を出たかった。 『加賀谷吉彦』としてひとり立ちしたかったんだ」
微動だにしない氷川。
加賀谷はろうそくの炎から組んでいる両手に視線を落とす。
「でもそれ以来、僕、真っ暗な空間が苦手で。 とくに今の季節、台風の頃が近づくと今でも思い出して、手が……」
ほんの少し震える手を、加賀谷は敢えて力を込めて握りなおした。
「でも、こうして悠一に聞いてもらえて、少し楽になったよ。今まで誰にも話した事がなかったから」
加賀谷は隣にいる氷川に向かって
「え……?」
押し黙って
眼鏡のフレームからつたって、涙のしずくがひざの上へぽとっ、と音を立てて落ちる。
落ちる瞬間、ろうそくの明かりを受けてきらきらと輝く。
いくつもの光のしずくが、氷川の両の目からこぼれた。
加賀谷は氷川の方へ向きなおし、両手でやさしく氷川の顔を包み込んだ。
「どうして泣いてるの?」
やさしく問いかける。
「俺、いつも笑ってる加賀谷しか知らなかったから…… そんな辛い思いしてるなんて思ってもみなかった…… 今までずっと加賀谷は頑張って来たんだと思うと、胸が苦しくなってきて」
頬をつたい、また、きらりと光のしずくがこぼれた。
「……ありがとう。僕のために泣いてくれるなんて……僕は大丈夫だから」
氷川の目を見ながらやさしく
「これからは、俺がそばに居るから。もう加賀谷はひとりじゃないから!」
氷川は大粒の涙を
「悠一……」
加賀谷は氷川の眼鏡を両手でやさしく外すとテーブルの上へ置いた。
「何を……」
加賀谷の両手は再び氷川の顔をやさしく包み、氷川の両の目から
右の瞳からひとつ、光を受けて涙がこぼれると、右の頬へひとつ、やさしく口づける。
そして左の瞳からまた、光を受けて涙がこぼれると、左の頬へ口づけた。
外は風の音が凄まじく、雨は激しく打ち付けている。 だが、部屋の中はあたたかなろうそくの光と、そこから漂う甘い香りで満たされていた。
加賀谷からキスの雨を受けている。
氷川の涙の雨が止むまで、加賀谷は続けた。
やがて涙は止まり、互いに見つめ合う。
心なしか、氷川の目が熱を帯びて潤んでいる様だった。
「悠一……」
加賀谷は氷川の唇へ自分の唇を重ねようと顔を近づけた、その瞬間、部屋の明かりが点いた。
「!?」
急に周りが明るくなり、はっと我に返る。
――僕、悠一に何してたんだ!?
気づいた瞬間、かっと頭に血が上ってくる。
「ぼ、僕……」
赤くなって驚いている氷川の顔をまともに見れず、
「えっと……その、た、台風、もう過ぎたかな」
取り
「……」
黙ったまま、
「ああ、そうだ、ろうそく消さなきゃ」
加賀谷が手を伸ばしてろうそくを取ろうとしたその時、先に氷川の手が伸びた。
ろうそくをふっと吹き消して一言。
「俺、もう寝るわ」
加賀谷の顔も見ずに立ち上がり、テーブルの上の眼鏡を掛けなおすとリビングを後にした。
「うん……おやすみ」
甘い香りが漂う中、その後ろ姿を見送る。
――僕、どうかしてた……。僕のために涙を流している悠一が急に愛しくなって、 どうしようもなくって……気が付いたら悠一にキスしてた。 いきなりあんな事して……嫌われたかも、しれない……
いつしか風は弱まり、少しずつ台風が遠ざかっていく。
街路樹の葉も静けさを取り戻そうとしている。
それとは裏腹に加賀谷の心は揺れていた。
テレビを消して、自分の部屋へ行く。
その夜、加賀谷は氷川への思いをかみ締めていた。
寝付いたのは明け方近くになってからだった。
翌朝のこと。
「おはよー!加賀谷、起きろよー!」
「!?」
珍しく氷川が加賀谷を起こしに来た。
「あ……おはよう」
まぶしい朝日が窓から差し込んでいる。昨夜の台風が嘘のように晴れ渡っていた。
ゆっくり体を起こし、ベッドのふちへ腰掛ける。
昨夜の事が少し気まずく、氷川の顔をまともに見ることが出来ない。
「あのさ、今朝は俺が朝めし、作ってみたんだけど」
「え!?」
驚いて顔を上げる。改めて見るとそこには赤いエプロンを身に着けて、 外の明るさに負けないくらいの
「たまにはさ、いいかもと思ってさ」
昨夜の事など
「悠一が……作ったの?」
恐る恐る訊く。
――僕、嫌われてないの?
……声にならなかった。
「そうさ、一応、自分でつまみくらいは昔から作ってたし。 でも、加賀谷ほど上手くないからさ、ちょっと……自信ないけど」
氷川は加賀谷に顔を洗ってくるように勧めると、食器を出してこなくちゃと、キッチンへ戻っていった。
ベッドに腰掛けたまま、考える。
「僕、まだ、悠一のそばにいても、いいのかな……」
氷川の笑顔を思い出し、そう考える。
加賀谷は顔を洗いに立ち上がった。
「うん、我ながら良く出来たもんだ」
出来上がった料理を前に自画自賛の氷川。
「……昨夜の事は忘れないよ。ただ、慰めてくれただけなんだよな。 俺があんまり女の子みたいに泣くから……きっとそうだよ」
少し赤くなって
「でも、俺、加賀谷の事、やっぱり好きだ」
改めて加賀谷への思いを確かめてみる。
ぐっと両手を握りしめ気合を入れなおした氷川は、出来上がった料理を皿へ盛り付け始めた。
「ああ、お味噌汁のいい匂いがするね」
着替えた加賀谷が入ってきた。
「さあ、座って、座って」
「す、凄いね、これ全部悠一が作ったの?」
テーブルの上には所狭しと料理が並んでいる。
「やれば出来る子なのよ、ふふん」
腰に手をやり、すこしふんぞり返ってみせた。
「味は……保障しないけど、ね」
一転して自信なさげに頬を人差し指で掻きながら言った。
「ありがとう。悠一、本当にありがとう」
加賀谷は氷川の気持ちが嬉しくて仕方なかった。
みるみる氷川の顔が赤く染まっていく。急に気恥ずかしくなったのか明後日の方向を見ながら言った。
「いつも加賀谷、頑張ってるからさ、たまには俺に甘えて?」
「……悠一!」
胸の奥から熱い思いがこみ上げて来る。
「ありがとう、僕、悠一に逢えて良かった」
にっこり笑ってから言うと、急に真面目な顔をして氷川を見つめた。
―― 僕、悠一の事が、好きだよ
声に出さず、目で思いを告げる。
真っ直ぐな眼差しに、氷川の動悸が止まらない。
その瞳に釘付けになってしまう前に、目を逸らし取り
「さ、料理冷めちゃう前にどうぞ、召し上がれ」
「うん、頂きます」
まず、味噌汁をすする。
「……」
「どう?いけてるかな?」
「う、うん。美味しいよ」
そうだろうと言わんばかりに御満悦で椀をとる、氷川。
「どれどれ……む?」
味噌汁を一口すすって、固まってしまった。
「味噌の量、間違えた……」
さっと青ざめ、額からは汗が出てくる。
「ごめん、つ、作り直すから!」
慌てて立ち上がる氷川の腕を捕まえる。
「いいよ、そのままで。食べられない事ないじゃない」
そう言うと加賀谷は何事もなかったように黙々と料理を口に運んでいく。
「うん、これなんかとても美味しいよ」
見ていても気持ちが良いほどの食べっぷりに氷川は嬉しくなった。
「俺、たまには加賀谷に料理でも教えて貰おうかな」
ちょっとはにかみながら。
「ふたりで料理、作るのもいいね」
加賀谷もにっこりと
その笑顔が
外は台風一過の雲ひとつ無い快晴。
秋口の空の青さと高さがどこまでも清々しく広がる。
何処からとも無く吹いてくる風は涼しくとても澄んでいた。
ふたりの迷いのない想いと同じように。
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