第5話 熱





 暗雲が立ち込め、雷鳴が低くとどろく。

たちまち前が見えなくなるほどの雨粒が地面を激しく叩きつける。

「うわー、びしょ濡れだよ。急に降ってくるもんなー」

 夏の終り特有の夕立に遭い、通りがかりの店の軒下へ慌てて飛び込む。

コンテストに向けての合同練習からの帰り、それぞれのアルバイトに向かう途中の事だった。

「ねえ、悠一、バイトまで時間が有る様なら一度着替えに戻った方が良くない?」

雨の雫が髪の毛を伝い、肩や胸へポタポタと垂れてくる。

ふたりの着ているシャツも雨に濡れて透けていた。

「いいよ、バイト先のコンビニでTシャツでも買うから」

氷川は全く気にも留めない。

「でも、髪も随分濡れてるし、シャワーでも軽く浴びに戻った方が……」

心配している加賀谷をよそにぶんぶんと頭を振って雫を払う。

「コレくらいすぐ乾くって! 相変わらず心配性だなぁ!」

無頓着な氷川に加賀谷はハンカチを渡しながら、とりあえず頭を拭くよう勧めた。

「お、ありがと。……あ、そろそろ止みそうだ」

 空を見上げると先ほどの暗雲は過ぎ去り、うっすらと明るさを取り戻しはじめていた。

ところどころ雲の切れ間から日も差し、雨もまばらになっている。

「それじゃ、俺行くよ。今夜は十一時までだから夕飯はいいや。いつもありがと、加賀谷」

雨をしのいでいた店の軒先から振り返らずに駆けていく。

「悠一……」

少しだけ気にはなったが加賀谷も家庭教師のアルバイトがあるのを思い出し、とりあえず部屋へ帰ることにした。シャワーを浴び、着替えてその家へと向かう。

 一生懸命アルバイトに励む加賀谷に遊んでばかりもいられないと、 夏休みに入ってアルバイトをひとつ増やした氷川。


――いつか、加賀谷に何かプレゼントが出来たら……


そう思って始めたバイトだった。








「ただいま……」

夜十一時過ぎ、氷川がコンビニのバイトから帰ってきた。

玄関からする覇気はきのない声に加賀谷はリビングから出て玄関へ氷川を出迎える。

心なしかその足元がふらついている。

「どうしたの?」

「何だかだるくって……」

顔が赤く火照ほてって目も少しうるんでいる。明らかに様子のおかしい氷川に顔を近づけ、おでことおでこをくっつける。

「熱、あるみたいだよ」

本当なら恥ずかしさから慌てて離れたい氷川だが、この時ばかりはほとんど抵抗もせずなすがままにされていた。

「俺、もう寝るわ」

壁に手を付き、ふらつく足取りで部屋へ行く。

「後でお薬持って行くからちゃんと飲んでね」

心配そうに声をかけて、加賀谷はその背中を見送った。




「悠一……」

部屋のドアを開け、そっと中をうかがう。

「うん、何?」

ベッドで横になっている氷川に体温計を渡し、熱を測るよう勧める。

「うーん、三十八度二分か……ちょっとあるね」

体温計のデジタル表示を見ながら考え込む。

「今、氷枕用意するからね。それとこれ、お薬」

加賀谷は錠剤と水の入ったコップをのせたトレイを差し出し、 トレイごと渡すと氷枕を用意しにキッチンへ向かった。

「俺、薬ってキライなんだよな……」

好き嫌いで薬を飲むのを躊躇ためらう氷川。トレイを膝の上からそばのテーブルへ移してしまった。そこへ早々に加賀谷が氷枕を手にして戻って来た。

「悠一、お薬飲んだ?」

心配している加賀谷の問いかけに

「後で必ず飲むから、今はちょっと寝かせて」

そう答えて、起きているのも辛いとばかりに横になってしまった。

「なるべく早めに飲んでね」

 心配はしたもののそれ以上は無理強いせず、氷川の頭を少しだけ浮かせて氷枕を滑り込ませる。額の上には濡れたタオルをあてた。その冷たい感触が肌に触れると氷川は目を細めて気持ち良さそうにありがと、と礼を言った。

「何かあったら呼んでね」

加賀谷のやさしい声に、氷川は頷くのが精一杯だった。








 本を読む目を壁の掛け時計に移すと針は夜中の二時前を指していた。

「もうこんな時間か……明日はテニスのインストラクターのバイトがあるんだっけ」

気になってしばらく起きていた加賀谷だったが、明日のアルバイトに差し支えると思い、寝る前に一度枕の氷を変えようと氷川の部屋へ向かった。

「悠一、入るよ」

そっと中をうかがう。

「……う……ううん……」

「悠一?」

様子がおかしい。

そばへ駆け寄りベッドの横へひざまづく。額のタオルをどかし手を当ててみる。

「熱が上がってるみたい……薬、飲まなかったの!?」

テーブルの上には差し出したときのままの状態でトレイが置いてあった。


――このまま熱が下がらなかったら……


不安がよぎる。今はそれ以上の事を考えている場合ではないと軽く頭を振り、そっと声を掛けた。

「悠一、お薬飲もう。身体起こせる?」

「……」

 返事は無い。熱に浮かされて朦朧もうろうとしているようだ。

加賀谷は左手で軽く氷川の肩を起こした。ぐったりとされるがままに体重を加賀谷の腕に預けている。もう片方の手でトレイから薬を取り、包みから錠剤を取り出すと口へ含ませた。

コップを取ろうと目を離した隙に、氷川の口から錠剤が零れ落ちる。

もう一度口へ含ませようとしたが、熱のせいで自力で飲み込めるような状態ではなかった。

「どうしたら……」

一呼吸おいてから、加賀谷は躊躇ためらわずにコップの水を口に含んだ。

零れ落ちた錠剤を軽く自分の唇にくわえて、氷川の唇へ重ねる。

少しずつ、ゆっくりと、水で薬を流し込む。


――お願い! 飲み込んで!


ごくり、と喉が鳴る。

加賀谷の思いが通じたのか、氷川は薬を嚥下えんかした。

「良かった……」

やさしい眼差しで見つめる。

額のタオルをもう一度濡らしてのせ直し、しばらく様子を見ようとベッドの横へ椅子を持ってきて座る。

小さな変化も見逃さないよう、注意深く付き添った。


――早く、早く薬が効いて……


頬を伝う汗を時々タオルで拭いながら息をのんで見守る。

しばらくすると呼吸が落ち着いてきて、苦しそうな声も出さなくなってきた。


――熱、どうだろう……


額に手を当ててみる。

先ほどよりは下がってきているようだった。

「もう、大丈夫かな」

ほっとして気が緩んだのか、急に眠気がおそってきた。

加賀谷は腕を組んだまま、椅子の背もたれに体重を預けうとうとと眠りはじめた。







 翌朝。

「ううーん……」

 身体を起こし、両手を天へ高く伸ばす。

枕元に置いてあった眼鏡をかけてふと横を見ると、 加賀谷が椅子に座ったまま、腕組をしてうつらうつらと眠っていた。

 ハッとして思わず目を見開く。

「……ずっと側にいてくれたのか!」

胸の奥深くから熱いものが込み上げて来る。

ぎゅっと胸が締め付けられる。

「いつも加賀谷には、世話かけてばっかだな、俺」

少しうつむき、頭をガシガシ掻きながら自嘲じちょう気味につぶやく。

加賀谷のやさしさと、その存在に改めて感謝する。


――俺、やっぱり好きだよ、加賀谷の事。


 改めて自覚すると急に気恥ずかしくなってきた。ふと目の前から視線を逸らすとテーブルの上のトレイが目に入る。そこには中身のない薬の包みと空っぽのコップがあった。

「あれ? 俺、薬飲んだっけ?」

首をかしげて思い出そうと試みるが、全く記憶に無い。

その時、加賀谷が目を覚ました。

「う……ん、あ、悠一おはよ。どう、具合大丈夫?」

 起きるなり氷川の事を気遣う。

そんな加賀谷を、こころの底から愛しく思う。

自然と笑みがこぼれていた。

「もう、全然大丈夫! 俺みたいなおバカが風邪ひくなんて、台風直撃するかもな」

冗談めかして言った。

「もう、台風のシーズンだから、あんまりシャレにならないよ」

加賀谷が笑って言った。

「そりゃそうだ!」

「あはははは」

ふたりして笑いあう。やさしい空気があたりを包む。

 すっかり元気になった氷川に、加賀谷はバイトがあるからと部屋へ着替えに戻った。


――良かった……元気になって。本当に良かった。あのまま、熱が下がらなかったらと思うと……怖かった。悠一に何か有ったらと思うと……。こんなに悠一の事が、僕の中で大きくなってるなんて……思いもしなかった。悠一が、悠一の事が、……好きだ。


胸の奥が熱くなる。

自然とあふれてくる、熱い想い。

そのこみ上げてくる想いをなんとか抑えて、氷川の着替えを出しにもう一度、部屋へ戻る。

「汗かいて気持ち悪いでしょ。着替え出しておくから。無理しないでお昼過ぎまで横になってて。 僕、午前中で切り上げて帰ってくるから」

熱もすっかり下がりほとんど回復した氷川は退屈そうにしていたが、他ならぬ加賀谷の進言に素直に従った。

「早く帰ってこいよな。待ってるからさ」

目を合わせずうつむいてつぶやく氷川の頬が、こころなしか赤い。

「!」

そんな言葉を聞かされると思ってなかった加賀谷は、ドキッとして少しだけ顔を赤くした。

「うん。……戻ってくるまで、大人しく寝ててよ」

頬を染めたまま、にっこりと言う加賀谷。

大きくひとつ頷き、それに笑顔で答える氷川。




自転車で風を切って走る。

まだ残暑の厳しい夏の終わり。

アルバイト先へ向かう加賀谷の胸は、その季節より熱い想いでいっぱいだった。

それと同じくらい熱い想いで、加賀谷の帰りを待つ氷川。

少しだけふたりの距離が縮まる、そんな夏の終わりだった。


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