第2話 同居
アカペラサークルの会員も増え、加賀谷の起こしたバンドのメンバーも揃い、 サークルの活動も軌道に乗り始めたある日のこと。
「
「ちょっと、どしたの? 加賀谷が練習抜けるなんて?」
加賀谷は答えるのも、もどかしいと言った様子。
「ごめん、戻ってきてから話すから!」
言うと同時に勢いよく飛び出していった。
「何だろ……加賀谷が慌てるなんて珍しいよな……」
「加賀谷だって、慌てる事もあるさ」
我関せず、といった感じである。
「ん……そう言えば何だか、部屋を探してるって言ってたか。今頃空いてる部屋なんて無いもんだがな」
肩を回し入念に身体をほぐす。
「部屋、か……」
あごに手をやり首を傾げほんの一瞬考えこんだ氷川だったが、何かを思いついたようにぽん、と手を軽くたたくとニコニコと真野の隣に立ち同じようにストレッチを始めた。
外は朝からしとしとと
部室のすぐ側にある
「……ただいま」
出て行ったときの勢いとは逆に、とぼとぼと肩を落として加賀谷が戻ってきた。
「どしたのさ? えらくヘコんでない? ……何かあったの?」
無邪気な氷川の問いかけに、加賀谷は肩を落としたまま答えた。
「午前中の講義で工学部の奴に、ある不動産屋にまだ空いてるいい部屋があるって聞いたから 急いでいってみたんだ。それが僕の来るたった一時間前に契約されちゃってて…… ちょっとがっくり来ちゃってさ」
「ああ、聞いたよ、真野さんに。でも、何でまた今頃部屋なんて探してんの?」
ちょっと困った顔をして迷いを見せた加賀谷だったが、ひとつため息をつくとゆっくりと理由を話し始めた。
「ずっと前から……その、ひとり暮らしを始めたいって思ってて、 バイトで貯めた貯金が目標額をようやく達成したから。それで部屋を探してたんだ」
「それじゃ、俺ん家来ない?」
にっこりと笑顔を向ける。
氷川の突然の申し出に加賀谷は少し驚いて、
「悠一のマンション?」
「俺ん家、親がわざわざ用意してくれた部屋なんだけどこれが無駄に広くて。 ひとりで住むのにリビング、ダイニングキッチン、バストイレ付きの他に部屋がもう二つも有って、 一つは一応寝室っつーことで。別にリビング一つ有れば済む事なんだけどさ。 だからもう一部屋はまるまる空いてるから。加賀谷さえ良かったら一緒に住まない?」
「で、でも、迷惑じゃない? それに御両親に悪いよ」
あくまで遠慮する加賀谷の言葉を遮る様に氷川は言った。
「ああ、全然平気。部屋代だって親の仕送りだし、俺あんなに広い部屋いらないってさんざ言ったのに、 無理矢理住まさせられてんだ。何て言っても掃除がタイヘン!俺掃除キライだから、もう、 めんどくさいのなんのって!」
おどけて見せた氷川に思わず加賀谷がつられて笑う。
「ホントに……いいの?」
あくまで遠慮がちに訊く。
「加賀谷が一緒に住んでやれば、コイツの遅刻も減るんじゃねーの」
黙って横で聞いていた真野が何食わぬ顔で言った。
「むっ! ま、確かに遅刻はするけれど……別に加賀谷に起こしてもらうのをあてにしてるとかじゃなくて、 加賀谷が部屋を探してるって言うから、俺……」
言えば言うほど言い訳に聞こえて来る様で、加賀谷は堪えきれず笑いながら言った。
「ありがとう、悠一。とても助かるよ」
「いや、別に……」
やさしく微笑み、氷川を見つめる。
その加賀谷の眼差しに、何故か胸の鼓動が早くなるのを氷川は戸惑いながら感じていた。
「加賀谷、でも単にそれだけの理由なのか?」
真野がふと気づいたように訊いてきた。
一瞬、加賀谷の表情が曇ったのを氷川は見逃さなかった。
「例え他に理由が有るにせよ、別に今、言わなくてもいいよ。 加賀谷が言いたくなった時に話してくれれば俺、それで良いから」
氷川は軽くそう言ってカレンダーに目をやり、いつでも引っ越してきて良いからと言って水を取りに行った。
テーブルの上のペットボトルのキャップを開けながら、 さっきの胸の鼓動は何故だろうと思いつつも、 ぐいっと水を飲み込む勢いと一緒にその疑問も飲み込んでしまった。
「さあ、練習再開するぞっと」
気持ちを切り替えるため自分自身に言うように皆に言って、キーボードの前に立つ。
外は何時の間にか雨が止んで日が射していた。空には虹が弧を描いている。
雨に濡れた
緑がいっそう濃くなる、そんな恵みの雨が優しく降る、
加賀谷のこころに氷川のやさしさが
その数日後の事。
その当日、加賀谷は想像以上に少ない荷物で氷川の部屋へやって来た。
「荷物、たったこれだけ?」
教科書類の書物と本が何冊かと、ノートパソコン。テニスラケットとシューズ、 そのほか衣類がダンボール箱に三つとあと細々した生活用品。 そして色あせた写真の入った額。
「うん、何時家を出ても良いように物はためないようにしてたんだ」
――何時家を出ても良いように……
気にはなったが訳は訊かないと決めた以上、 氷川は詮索するのは止めておこうと思った。
その時、ふとセピア色に変色した写真が目に入った。
夫婦らしきカップルとその真ん中に少年がひとり。少年は小さい頃の加賀谷の様だ。
両親と写っている写真。
――何故こんな小さい頃の写真なんだろう、最近撮ったものを使えば良いのに……
ふとそう思ったが、それ以上深く考えるのを止めた。
引越しはあっけないほど早く済んだ。
「加賀谷、これからお互いがんばって行こう。何でも相談に乗るから。 あっと、あくまでも俺に出来る範囲での話、という事で 。朝、俺に起こしてくれって言ってもそれだけは無理! あっ、まだ有る!掃除、洗濯、家事はどれもダメ。……これじゃ何の役にも立たねーの」
真面目な顔をして頭を掻きながら言う。
「家事ならいくらでも僕がやるよ。部屋代取らないなんてあんまり悪いもの。 せめてそれくらいは僕にやらせてね、悠一」
笑顔で答える加賀谷に氷川はかえって申し訳なくなってきた。
「ありがとう……。なんだか俺のほうが良い思いしてると思う」
額に汗をかき目を逸らしてすまなさそうに言う氷川に、
「礼を言うのはこっちだよ、本当にありがとう」
やさしく微笑む加賀谷。その眼差しは限りなくやさしく氷川を見つめていた。
こうしてふたりの共同生活が始まった。
今後のふたりの人生の中で忘れられない
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