In My Heart ―木漏れ日の中で―
天沢真琴
In My Heart ―木漏れ日の中で―
第1話 運命
あれは大学に入って随分経ってからの事だった。
一浪してやっと入った大学。
入学したはいいものの、何をしたいのか漠然としていた。
一、二年はただ講義と、バイトと、パチンコの毎日。
三度目の桜が散って新緑が眩しくなってきた、そんなある日の事。
なんとなく目に入った、掲示板の張り紙。
『アカペラサークル、サークル内でのバンド結成のため会員募集中!! 』
――へぇ……アカペラか。久しぶりに唄うのも……悪くないかな……。
思うとほぼ同時だった。気が付いた時にはその張り紙に記載されている連絡先に電話を入れていた。
「あ、もしもし? 会員募集の張り紙見ました。ええ。今から行ってもいいですか?」
それが全ての始まりだった。
指定された部屋へ入るといかつい感じの男性がひとり、椅子に座って楽譜を読んでいる。
「あのー。さっき電話したものですけど……」
同じ大学生とは思えないほど落ち着いた、いかにも年上そうなその男性がじろりと見上げて言った。
「ん……入会希望? バンドのメンバーも同時に募集中だけど、そっちの方もこの申し込み用紙に記入して」
手渡されたA四サイズの紙に必要事項を書き込んでいく。
「……これでいいですか?」
男は用紙を見ながら声に出して読んだ。
「ひかわ……ゆういち、と。 フム、中学高校で合唱の経験あり。全くの素人って訳じゃない、と」
「ああ。でも一浪してるんで。 それに今は全然やってないです」
「あ、俺より一個下か」
「ええっ!?」
「……何?」
少しくぐもった、低い声で聞き返す迫力に氷川はたじろいだ。
「いやっその、なんでもないです……」
色白の整った顔立ちから、想像もつかないほど汗が吹き出てくる。
「ああ、俺は
……いきなり呼び捨てである。
「ええっと、ハイテナー、やってみたいんですけど」
「ああ? ハイテナーならいらない」
「ええっ!? いきなりそんな……」
顔の汗は収まるどころか酷くなる一方。
「ここの発起人がハイテナー担当だから」
「……それじゃあ ずっとやってたバリトンでもいいです」
「フム、じゃ、キマリな」
「……はあ」
氷川はあたりを見回した。
他に部員らしき人影が見当たらない。
いぶかしく思いはしたが、一呼吸おいてから真野に訪ねた。
「あのー、バンドの他のメンバーや部員は今日、いないんですか?」
申し込み用紙を机の引き出しにしまい、早々に楽譜に目を戻した真野はさも面倒そうに言った。
「まだ足りないんだよ。俺と発起人とお前とで今んとこ三人だけ。だからとりあえず自主トレってことで」
「へっ?」
細い目を見開いて氷川は間の抜けた声を出した。
そんな氷川にお構いなしに楽譜から目を離さず答える。
「何か分からないところがあったらそこの本、参考にして。なんだったらネットでその手の動画見ながらでも」
「……」
見開いた目が元通りに細くなる。一瞬だけじっとりと真野を見つめ、ふぅと小さくため息をついた。
意気揚々と言うわけでもなかったが、出鼻をくじかれこうまで素っ気無くあしらわれてしまうと、何だか先行き不安になって来る。
「俺、ちょっと外の空気吸ってきます……」
ふらりとおぼつかない足取りで氷川は部屋を後にした。
クラブハウスの横から校庭の方へ向かうと、すぐそこにフェンスに囲まれたテニスコートがあった。
そのフェンスに沿って
初夏の日差しに近い、五月も半ば。
風に揺れる葉のざわめきが清涼感を醸し出していた。
「俺、何しに来たんだっけ? 何だか久しぶりにすごく歌いたい気分かも」
軽く空を仰ぎ、気を取り直して大きく深呼吸をする。
気持ちが落ち着くと自然と周りの音が耳に入ってきた。
すぐ横のテニスコートではボールの行き交う音と、部員たちの掛け声が聞こえる。
ふとその騒音とは別に風に乗って歌う声が聞こえた。
風に似た涼しげな、良く通る声。
音の元を辿ろうと並木道を行くと、その一番向こうの
周りの木々が風に揺れる。
木の葉を揺らしているのは風なのか声なのか。
周りの景色がぼやけていく中、それは鮮やかに目に飛び込んできた。
声の主に視線が定まった瞬間、時の流れが止まった。
――天使が歌っている……
氷川はそう思った。
一瞬で全ての感覚を引き付けた存在感。
その歌声は天にも届くのではないかとさえ思えた。
木漏れ日を受け光の中で天に向かって歌う様は、さながら俗世と対極の位置に有る聖なる者と言った感じである。
その上外見までもが細く華奢で一見して男性だとは分かるものの、 どこか中性的な印象を受けるのはその声のせいであろうか。 男性の発する限界を軽く超える高音域の声が、あたりの空気を震わせていた。
何となく近寄りがたい厳かな雰囲気に飲まれ、声を掛けるのを
そんな氷川に気づいたのか、彼は歌うのをやめて笑顔を見せた。
「僕に何か用ですか……?」
笑顔と同じくらい優しい声。
歌っている時とは反対に、遠慮がちな小さな声で訊いてきた。
彼のその眼差しは、何故か分からないがどこか懐かしい感じがした。
そんなふたりの間をやさしい風が通り抜ける。
「えっ…あっその…お、俺、氷川悠一と言います。……良かったら俺と一緒に歌って下さい ! 」
思わず口から出た言葉に、氷川自身がなにより驚いた。
いきなりの事でちょっとだけ驚きはしたが彼はすぐさま笑顔で答えた。
「ええ、良いですよ。今日はたまたまテニスの方で練習があったので顔を出せなかったんですけど、 僕アカペラサークルにも所属してますから、そっちの方で」
ここで初めて気づく。
「あ、アカペラサークルの発起人のハイテナーって……あなたですか?」
「そうですけど …ひょっとしてサークル入会希望の方ですか? 僕、
加賀谷はにっこり笑って、右手を差し出し握手を求めた。
慌てて手を差し出し握手を交わす。
「こ、こちらこそ、よろしく」
やさしい風がふたりを包む。
――何故だろう…初めて会ったはずなのに、懐かしい感じがするのは……
氷川はふとそう思った。
新緑の木漏れ日の光の中で、ふたりは出逢った。
ふたりを包む全てがやさしく見守る。
緑の木々、空に浮かぶ白い雲、眩しい日の光。
ふたりの未来が今、ひとつに重なろうとしていた。
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