狼サンと赤ずきん
せらひかり
狼サンと赤ずきん
狼(おおかみ)×(と)
たとえ××じゃなくても、君のことを愛しているよ。
赤ずきん編
「ねぇパパ、どうして私は一人なの?」
真っ赤なフードをかぶせられて、少女は問いかける。
薄汚れた白衣の背中は、少女のことを振り返らない。
青白い電灯が、視界にちらちらとうるさい。
リノリウムの床が靴裏で鳴る。
「ねぇパパ」
「お前はすばらしい娘なんだよ」
振り向かないで、男は言った。
「胞をかぶって生まれてきた者には、未来を聞く耳がついている。この世のものではないものを聞き、この世のものを超越するんだ」
そんなものよりも、私はここにいて、パパに話を聞いて貰いたいのに。
ふてくされた少女に、ビーカーとフラスコを適当に並べ替えた男が、ようやく振り向く。
「僕の可愛い赤ずきんちゃん」
少女の、金の巻き毛をかきあげて、男は眼鏡越しに笑った。
「君はすばらしい」
実験動物の大型の鼠達はそんなふうに言われたことがないので、たぶん、少女はちゃんと、特別大事にされているのだろうなと、自分で思う。物足りないのは何故だろう。
「パパ、ママはどこ」
「あの女のことはどうでもいいじゃないか」
「パパ、どうして私の名前を呼ばないの」
「何を言っているんだい」
困惑したように首を傾げられたので、少女は小さくため息をついた。
「もういい」
「そこで大人しくしているんだよ。君が触れた動物は、全部治ってしまうからね」
男はするりと手を引っ込めた。少女は、薄暗い部屋の奥に背を向ける。
「ここにいる動物はすべて病気で、そうなるように作ってあるんだ。君はもう分かっているだろう? 絶対聖性を持つ女の子なんて、この世に君一人だけだ。すべての病と傷を癒す」
「でも、名前も呼んで貰えないの」
多分、生まれたときから、ずっとずっと、君は特別な女の子だと言われ続けてきたけれど、実際に人を治したことなんてないし、動物の怪我を治すぐらいだ。最近ではこの施設の敷地外には出たことがないし、自分のことを知っている人は、父親以外にいない気がする。
だからもしかしたら全て、この男の妄想かも知れない。
――私は、外では生きていけないのかもしれない。勘違いの可哀想な子。
昔は外で暮らしていたのに、ママが居なくなってからは、
「……」
思考を断ち切って、少女はそっと出口に立つ。ドアノブは金属で表面塗装が剥げていて、でも人の脂で濡れていた。
きもちがわるい。
それでも、少女はノブを掴んだ。
*
ある日、男が死んだので、少女は施設を追い出された。
空が重たく塞がっていて、今にも雨が降り出しそうだった。赤いフードのおかげで少しだけ暖かかったが、スカートは短いし靴下も中途半端で、このまま外にいれば夜は越せない。
(よく分からないけれど、誰も私に「怪我を治す力があるんだからそうしろ」なんて言わなかったから、やっぱり、あの力なんて嘘だ)
とぼとぼと歩き出す。
土埃が舞う。人の往来はない。
看板がいくつか立っていて、このまま進むと、右が海で左が森になっていた。
海では息が出来ないから、少女は森に行ってみることにした。
*
森はけばけばしいくらいの緑色をしていた。幹が太くて長いので、木々のてっぺんはどれも遠い。それでも草むらはあったし、こけむしているし、全体的にみっしりと緑だった。
「食べるものもない……」
ふと気づいたが、足は止まらない。進んでいく。
視界に、真っ白でふわふわした物体があった。
怪我をした兎だ。子どもだから柔らかくて、とても暖かそうだった。
ふくふくと息をしている。少女は寒かったので、手を伸ばした。兎を抱けば、暖かくなるような気がしていた。
兎は大人しく少女に触れられた。しばらく、じんわりとした生き物のぬくもりを抱えていると、もう歩きたくなくなってしまった。このまま、ずっと兎を抱いていたかった。
雨が降ったって、葉が茂りすぎて雨粒は落ちてこない。曇天も見えない。
このまま、生きていけそうだった。
でも、兎が、怪我をした後ろ足で、少女の肘を蹴った。
「あっ」
もがいて、バランスを崩して落としそうになり、少女は自分から腕をほどいた。放してやる。兎は、じっと少女を見上げた。後ろ足の怪我は、ない。
まっすぐな目に魅入られていると、兎は、急いで走り出した。
茂みのかげにいた親兎に飛びついて、一緒に、森に消えていった。
あの子には、帰る場所があるんだ。
少女は、言葉に出して喋ってしまうと、心の底が抜けてしまう気がして、黙っていた。
「……へぇ、本当に、怪我を治すんだな……」
突然、男の声が聞こえた。しゃがみ込んで動けなかった少女は、跳ね上がって、声の聞こえたほうを睨んだ。
「本当に治すんだな、って、何」
人影はない。荒い息づかいだけが聞こえる。
何か言ったようだ。
「何。聞こえない」
「……気の強ぇやつ……、街で、……絶対聖性のある、……聖域? 自分で持ってる、そういうふうに生まれついたやつが、いて、そいつが森に住んでるって聞いたことが、ある」
「私が森に来たのは、ついさっき。人違いじゃないの」
「あぁ……そうなの」
喉が苦しそうだ。少女は、眉をひそめ、いつでも跳ねて逃げ出せるように、背を丸め、ばねのように構えて、声のする茂みに近づいた。
生臭い匂いがする。血塗れの指と、血が伝う肘、汚れたシャツ、思ったよりは若いが、自分の父親とさほど変わらないような歳に見える男が、目に入った。
「怪我を、してる」
「どうも。……頼むから、触ってくれるなよ」
「何で」
「何で、って」
かすれた息で、吐き出すように男が笑った。
「狼サンには、近づかないのが吉ですよ、と」
男の手から、ごろりとナイフが転がり落ちる。
誰かを殺してきたのだろうか。少女は、血の気が引いたものの、すぐに誤りに気がついた。
「貴方、刺されたの。刺したの」
「さぁ……」
それきり、男は答えない。血塗れの胸が、上下している。死んではいない。
触るなと言われたし、そもそもワケがありすぎる男を、すみかも居場所もない自分が、どうしてどこへ連れていける。そう思って、少女は、その場を逃げ出そうとしたけれど、足が凍って、出来なかった。
座り込んで、ため息をつく。
「ちょっと……」
緑の深い、森の中。
赤いフードの自分と男が、二人っきりで取り残された。
思い立って、どうにか男の腕を掴む。力がなく、重たい荷物のようだった。
「しなないでよ……一人にしないでよ……!」
男の腕を放して、少女は付近を這って行った。幸い、もこもこした木々の向こうに、猟師小屋らしきものが見える。
人が、いるかもしれない。心臓が喉元まで跳ね上がった。
人に、見つかったら、男を殺した犯人扱いされるかもしれない。正当防衛だと思われるのかも、しれない。でも、そうした、理解できる理由よりも、もっと、見つかりたくないという、本能的な恐怖があった。
見つかりたくない。どこへも行けないのだから。
それでも、弱った足をひっぱたいて、少女は男の腕を掴んだ。手当たり次第に手をかけて、腕と足を一本ずつ掴まえて、歩き出す。
小屋は空で、古い毛布や薪の残りはあったけれど、残念ながら食べ物はなかった。ささくれていて素手で触るのもためらわれるイスの手前に、男の体を放り出した。
まだ、死んではいないらしい。だが、頬にも唇にも、血の気がない。
「置いて、行かないで……」
顔がべたべたする。涙のあとが乾いて、顔がかゆい。
少女はイスに座り込んだ。
泣き疲れ、知らないうちに眠ってしまっていた。
気づいたら、掌を広げてぼんやりしている男が、いた。
起きて、息をしていた。
死んでいない。
男は舌打ちして、少女を睨んだ。
男は小屋を出ていった。追いかけたかったけれど、名前もどこの誰なのかも知らない男を、追いかける理由が見つからなかった。持っているのは、追いかけたいという気持ちだけ。
戸口で、少女は立ち止まる。結局、イスをひいて座り込んだ。
日がまだ高いうち、ドアがノックされた。猟師だろうか。おそるおそる開けてみると、人は居ない。気配を感じて足下に目を落とす。真っ白い、ふわふわした毛玉がいて、よく見ると、この間の子兎のようだ。
「何。どうかしたの」
しゃがみこむと、鼻を動かしていた兎は、クローバーの葉をくれた。ハートが連なった葉っぱを、くわえて束ねていたらしい。少女は両手の平でそれを受けた。
「……これは、お礼?」
兎は、受け取ったと見るや、はねて逃げた。
「またひとりぼっち」
呟くと、森に広く響く気がして、少女は身震いした。
遠吠えがする。
「ほんものの狼だ……」
あの男はどうしているだろう。森を出て、家に帰ったのだろうか。それとも、
「悪い狼だから、殺されちゃったかな」
頬杖を突く。クローバーは食べられないから、水だけは、小屋を出て沢を見つけて飲んだけれど、なかなか果物や木の実が見つからない。食べるものがなくて死にそうだ。
「兎は治せても、私は治せないのかな」
治せるのなら、死にかけては戻り、死にかけては戻りの繰り返しだ。
試してみる勇気はない。
「……街に出ても、食べ物はないし」
街に仕事はあるだろうか。絶対聖性なんて、おとぎ話みたいにあの男は思っていたみたいだけれど、もし、ソレらしい少女が街場に出て、大勢に力を気づかれたら?
パパがしたみたいに、私は施設に入れたまま外に出して貰えない?
ママがいたころは、普通に外で暮らしていたのに。
怪我をした小鳥も、虫も、友達も、みんな治したのに。
パパが気がついて、この子は素晴らしい、手放しで褒めて、そうしていつの間にか少女は、どこか薄暗い施設の中で暮らすようになって。
――あまり、記憶が判然としない。
ごとん、とドアの外が鳴った。背を揺らして、少女は振り向く。小屋に鍵はなくて、木ぎれでつっかい棒をかけているだけだ。ごとごとと鳴らしたあと、外の誰かは、ため息をついた。諦めたのか静かになる。
ドアを開けてみると、あの男が座り込んでいた。
「何」
「何、って。雨露しのげる場所が、木陰じゃなくてここだって思ったからデスよ」
わざとらしく、心のこもらない素っ気ない口調。まだシャツは血で汚れたままで、多分、森の外には出ていない、のだろう。着替えなかっただけかもしれないが。
「ねぇ、どうして森を出ていかないの」
「さぁ。それを言う必要がどこにあるの」
拾った、穴と足跡だらけの新聞を畳んで、男はその辺に放り出した。少女は、ふと興味を覚えて手を伸ばした。
「殺人事件の一報は載ってない。残念ながら」
「くぎを差してくれてどうも」
残念ながら、の一言が、少女の胸に縄をかける。
やっぱり、誰か殺したのかな。
新聞は、触るとくずれそうにくたくたしていた。めくってみる。
特に興味を誘う記事はなくて、すぐに放り出した。
「読めない?」
「文字くらい読めるもの」
「さようで。そうじゃないやつも多いからな」
「……」もし、読めなかったら、代わりに読んでくれるだろうか。読み上げて。
「ストリーニ通り三丁目で飲食店経営イドルゴさんが」
「読まなくたっていいだろ」
少女の音読に、男が水を差す。
関係がある記事なのだろうか。上目でちらりと見ると、男は舌打ちして、眉間にしわを寄せた。
「貸せ」
がさ、と新聞を、引き抜き奪う。
「やだ」
端を掴んで言い返す。
「返せっつってんだろ」
「貸せって言った」
「言ってない」
「言った」
血塗れのナイフは、森の茂みに捨てられたままだ。男が持っていたナイフ。使い込まれたふうの、ごく普通の、多分食肉を刻んで食べてしまうためのナイフ。刃先はあまりとがっていない。血が乾いて汚れていて、ほとんど錆びているようにしか見えない。実際錆びているのかも知れない。拾う勇気はなかったけれど、何となく、そこにあるのを見ると、少女は安心した。
狼編
それは大切な女だった。
どこで初めて出会ったのか覚えていない。
名前を呼んだような気がする。呼ばれたような気もする。でも、覚えていない。
煙たくて、小汚いというより土煙の中に放り込まれたみたいな室内で、賭事か土木か分からない暗号を、男どもが口々に、思い思いに叫んでいた。煙草を、吸いたくて、外に出た。雨宿りしていた猫が、迷惑そうに、よどんだ緑色の水たまりを避けて逃げる。
気味の悪い雨が、あちこちを傍若無人に叩いていた。
店内でいったい自分が何をしていたのか忘れて、煙草を口にひっかけたまま停止する。何をしにきたのだろう。
しばらくして、その女が通りがかった。
路地に面したドアの前で、彼の前を彼女が通る。
雨でぬかるんだ道を、引きずるような荷物を抱えて、それでもやけに足取りは軽く、宙を踏んでいるようだった。
それが、彼女の溺れる、精神と肉体を引きずり落とす幻覚の悪魔からあらわれていたことに、そのときはまだ気づいていなかった。
近くのドアを開けて(鍵もかけていなかったらしい)簡単に子供が飛び出してきた。細くて、掴んだら折れそうな腕。やつれた女が、それでも、思いのほか力強く、子どもを抱きしめる。
折れるぞ、あれ。
吸っていない煙草が落ちそうになったので、慌てて拾った。シャツの胸ポケットに押し込む。
何故追いかけたのだろう。
靴底がどろっとした無舗装路を踏む。
確か店に金は払った、もしくは何も注文していない。食べてない。腹が減っている。多分食い逃げにはならない。
夢遊病みたいな足取りで、彼女の家の前を通り過ぎた。
行ってどうなるでもないし。
その後も、たまに、店の前で見かけた。
女の方が気づいて、たまに笑った。ずっと前にお会いしましたねと言われた。どこで? ここじゃないことは確からしかった。
「実は、貴方の、娘がいるの……」
女は深く、深く笑う。覚えていないかもしれないけれど。
――だから、初めて会ったのが、どこなのか、彼は未だによくは知らない。
「バーカ。何してんだ」
土けた窓から顔を出して、釣り竿を垂れていた小娘に、適当な罵倒語で構ってやる。あの女の娘は、慌てて窓を閉めて逃げようとしたが、釣り竿が邪魔して変な音が立った。
「ほんっとバカだな」
俺は今にも一階から入るところで、お前はまだ二階なんだぞ。
たまに、デリのテイクアウトを持っていく。その前に何をしていたのかは、あまり覚えていない。気づくと店にいるか、煙草を吸おうとしているかで、あんまりにも煙草の減りが悪いものだから、多分あまり、煙草のことは好きじゃない。
「あっ食べ物!」
少女が階段から飛び降りてきて、野良犬のような正確さで叫び声をあげる。年の割に小さな娘は、警戒した目で彼を見やった。
「お前、多少ありがたがったっていいだろ」
「うるさい、この残飯」
「出来立てなのに残飯扱いするな残飯食い」
テーブルの上に、持ってきたものを置く。
テーブルと呼ぶのも嘆かわしいほど、その辺の廃材で適当に組み立てた台は傾き、ささくれていた。きちんと「生活」をしようともしていない感が、室内のがらんどうぶりから明らかだった。しようという気がないのか、あってもそうはできないのか、男には分からなかったけれど、家賃の請求書が壁に貼り付けてあったから、勝手に住み着いてこそこそしているわけではない(少なくとも最初の内は支払っていた)のだろう。つまり、そのくらいの、生活は、しようと、している。努力。
「努力」
自分で思いついたことがおかしくて仕方ない。
笑った隙に、娘が吹っ飛んできて、デリの袋をかっさらった。
「鳥か何かみたいだなお前」
「うるさい」
返事をするだけましな方だ。初めの内は、母親を陵辱する悪魔か何かだと誤解していたくらいだった。失礼な。それほど不自由はしていないつもりだ。つもりだが、あまり古い記憶がないので、自信はない。
食べられないもの、アレルギーを起こさせるものは入っていなかったらしく、むしろ、歓喜の声があがる。エビだ、とか、豚、とか言っているので、手っ取り早いたんぱく源に、喜んでいるらしい。
「なぁ」
ひとしきり食べたあとで、腹を撫でて娘が言った。
「あんた、いつまでここにいるの?」
「さぁ」
始まりの、理由が特になかったので、終わりの理由が思いつかない。
「お前が成人するくらいか? お前の母親、それが楽しみらしいから」
ものすごい渋面を作られたので、男はおかしくなって笑った。
やがて娘はそこそこ懐き、少女らしい言葉遣いも覚え、男は変わらず、そのへんのデリなどで土産を買っては、自炊出来るのだから高いものを買うなと怒られ、でもおいしいからと全部独り占めされ、このだらけた日々は、終わらないような気がしていて――それでも、娘の母親が、薬物の汚染から逃れられなくなり、娘の前で、幻覚と幻聴、薬を抜いていても暴れる、暴力が娘の身に降りかかる、そうしたことが茶飯事になっていって、どこかに逃げ道はないかと、それを、男も娘も、多分母親自身も、考えるようになっていった。
その日、男は一階に誰もいなくて、気安いつもりで二階へ行った。
「だめ!」
少女の高い声が聞こえる。金物が倒れる音。母親を呼ぶ声。また、また記憶が暴走しているのだ。あの女のことは大切で、愛してだっているけれど、どうしたら止められるのかは分からなかった。
薬をやめさせても、彼女の自由時間は山とあって、隙間を縫っては、誰かと接触し、何をしてでも手に入れる。酒。煙草。白い粉。液体。何でも構わず、吐いても下しても、それでも泣いて懇願する。
どうしたらいい。
「やめて!」
声がかすれている。駆け寄ると、少女に馬乗りになった女が、涎を垂らしながら少女の首を絞めていた。少女の顔が紫になる。唇が震える。
それでも、少女は首を振った。
「だめ、こないで」
男に言っているのだ。
何故?
その辺で拾った包丁は先が錆びていて使えそうにない。でも、女の足首を裂くぐらいは出来た。ぶつりと変な手応えがする。
「だめえ!」
女よりも少女のほうが悲鳴をあげる。
だって、大切なんだ。
愛してる女の、娘なんだから。
守ってやったって、いいじゃないか。
貴方の子どもだったのよ、と、女は、とても古い年号と聞いたような地名を言って、確かにその日同じ場所にいた気がして、だけど、
もし、自分の娘じゃなかったとしても。
「あれ?」
いつの間にか、目の前からは少女がいなくなっている。組み伏せた女が、血塗れでうめいている。足以外、まだ、刺していないのだが。
少女がいないと思えたのは、少女が、男の懐に入っていたからだ。
ひっくり返されていた引き出しから、小型の、食事用のナイフを取って、少女は、男の胸に、突き立てている。
「ママを、ころさないで……! ひとごろし!」
このままだとここで死ぬ。
男は、ナイフの刺さり具合と、出血具合からみて判断する。体に力が入らなくなる。その前に、腕と膝で這って、階段を下りた。
死体が見つかったら、まずい。
女を殺しそうになった男を、刺し殺した、なんて、正当防衛にしたって、少女の行き場がなくなってしまう。
死体は、見つかってはいけない。
俺は、お前を愛してたんだから、さ。
たとえ誰にだって同じ事を言う女だとしても、愛した女の娘なら。
命がけでも、守ってやるよ。
森と街編
「ヒイロ」
ママが呼ぶ。日溜まりの中。
そうだ。私の名前。
ヒイロだった。
思い出したというのに、誰もその名を呼んではくれない。
男に教えてみたが、一瞥もくれないので、テーブルをがたがたっと鳴らしたら、ようやくのこと、「それで?」一言だけ返してくれた。
視線はくれなかったし、名前を呼んでもくれなかった。
「ねえ、どこに行くの」
男がすり切れた新聞を畳んで立ち上がったので、少女は小鳥みたいについていく。親を亡くした小鳥は、どこへ飛んだらいいか分からない。
男は薄気味悪い森の中を歩いていく。
ほとんど動物を見かけない。ただ、少女が後ろをついてくると、子鹿などがやってきて、少女に触れられるとやたらありがたがって去っていく。
ありがたがって。と、いうふうに見える。
ありがたがってるなら、我が身を炎に差し出して食わせてくれないかと思う。
久しぶりに煙草に火をつけようとして、ライターを無くしたことに気づいた。どこだっけ。
胸元の、未だ血にまみれたままのシャツを探る。怪我のあとは、見たくなくて、これまで一度も見なかった。
蛍光色の苔、うっすらと自ら発光しているような木々。青空が見えたためしはない。
この間、森の端で、風に吹き飛ばされた新聞を拾ったけれど、どうやら自分が殺されたという記事は載っていなかった。実際まだ死んでいないし、あの子も、死体を探すほどの愚かさもなかったということだろうか。
このまま外に出ていくわけにもいかない。
他の街を知らなかったし、元の街では、あの子が困る。
男は、再びあの女を見たときにどうするのか分かっていたし、それをあの子が望まないことももう知っていた。
親子か。
繋ぎ止めるものなど一つもないのに、重しもないのにこの世に足をつけて歩いているなんて、ひどく奇妙なことに思えた。ご先祖様が嘆きそうだが、気づいたらあの街に居てあんな暮らし(ほとんど覚えていないが)をして、それで、楽しくはないが不幸でもなかった。
それで、良かったと思う。
「さて」
途中から、少女がついてこられなくなったのには気づいていた。
軽く歩いていたが、凹凸をわざといくつも越えたし、つまらないぐらい距離も稼いだ。
少女の赤い布きれをかぶった頭が、道化みたいについてきて、やがて意気を失い、ふらつき、あえぎ、木に寄りかかり気味になり、ついでに小鳥が怪我をして飛び込み、ついには足をとめてしまったのを、面白く考えている。
それでも足を伸ばして、やっと、これでいいなと思った。
「初めの通りだ」
火のつかない煙草をくわえて、男はひょいと木の枝を拾う。生木と枯れ木、どちらがいいだろう。
首の動脈の位置は知っていた。
少女にさあお食べと身を投げ出す気はさらさらないが、森で死んで普通に動物に食われるのも気持ちが悪いと言えば悪い。自分も肉を食うくせに。おかしくなる。
ためらいもなく、堅そうなほうの枝の先を思い切り首に突き立てようとしたら、後ろからこれまた思い切り激しく、密度の高い塊がぶつかってきた。
反射的に「殺す気か!」と思ったが困ることではない。むしろ、失敗させられて困った。
「……何だよ。疲れ果てて倒れてたんじゃないの」
金色の髪の少女は、訳が分からなくて瞳を揺らしながら、それでも、絶対に離すまいと、男の服を掴んでいた。ついでに肉も掴んでいたのでとても痛い。いくら死ぬつもりだったとはいえ、その前に痛い目に遭いたいわけでもないので、離せと、腕をもぎはなした。
「何、しようとしたの……!」
「何って」
説明が面倒なので、
「見たまま」
「見たままって……だから、何で」
「何で。どうして。は、本当に赤ずきんちゃんは赤ずきんちゃんだな。言葉で説明できることだけがすべてだなんて、思うなよ」
「思わないけど」
触れた場所が、お互いのずれた脈拍で潤う。
不愉快な熱が、巡っていく。
眉をひそめて、少女が言った。
「死ぬの?」
「死なないの?」
からかう口調の端が、男にとって、自分でも、どこかの苛立ちに触れた。
ふと表情をなくした男に、気がつかないまま、少女は願う。
「私の力でもなんでも、全部、あげるから……! だから」
側にいて。
その言葉の重さを、男は笑った。
「どうしてどうしてどうしてどうして。うるさいなあ。小鳥ちゃんは」
少女の首を絞めて、引き倒して、男は呟く。
「嫌になるよなぁ」
「どうして」
「だって生きる理由も意味も俺にはないのに、お前がいるからいきなきゃならないだろ」
「人のせいにしなくても、」
「嫌になるよなぁ」だから殺してしまえばというのか。あの子みたいに。
あの子を殺し損なって、あいつを殺し損なって、あの子を大事にしてねって言うからあの子を大事にしようとしたのに、結局何一つ守れなくて。
何だったんだろう。
「……やめた」
あっさり解放されて、咳き込んだ少女は、意味が分からないらしく(当然だ)顔をしかめる。
「何で……」
「殺されたかったのか?」
「……」
全然。声は出ないが、涙目で首を左右に振られた。
「変な森だなぁここは」
何の決着も見ないまま、ここでずるずると生きているわけにはいかない。そのことを男はもう気づいているし、少女もそのうちに気がつくだろう。
格好を付けた感傷なんて何の役にも立たない。
食っていくためには食糧が必要で、森では小型の獣や木の実を見かけたけれど、それだけだ。
キャンプなんていう可愛い趣味も生活力自体も持っていないので、ライターがなければ火もおこせない。
――森を出て、まともに働いていくには、少女の存在は足手まといなのかそれとも、現実に繋ぎ止めるための足かせなのか。
(どっちにしたって錘だな)
笑う。薄暗く笑ったせいで、少女がおびえた顔をする。
そんな顔をしなくたって大丈夫だ、
「だめ」
「お前に俺をとめる理由も権利もないよ」
「だめ」
「お前を殺すのをやめてやるから、俺が好きにするのは止めるなよ」
「いやだ」
少女が必死で考えている。
その間にも、男はひらりと、軽い仕草で身をかがめ、落ちていたナイフを拾い上げる。ざらつく感触。
小屋から随分と近い場所まで、戻ってきていたのだ。バカだなぁ森の中で方角が全く分からないなんて。自嘲する。
これで喉をたてば、さぞかし痛むだろう。金属についた錆と、血。元々は自分の血液であったソレも、さすがに時間が経ちすぎて、容易に同化しはしないだろう。けれどどこか、懐かしさを覚えた。
「俺は道を間違えたんだ」
「だめ!」
駆け寄ってくるよりも早く、ナイフを握り、胸へと差し込む。肺をせりあがる血、咳、それをふさぐようにして少女の手が伸ばされる。蹴り倒して、近づかせない。
「俺達は会わなかった」
最初から。
出会わなかったのだ。
そうであれば男はあのまま死んでいたし、死体は街で見つからず、行方不明のまま、けれど誰からも気づかれないで、――そしてあの女の子は母親に食いつぶされるかそれとも母親がいなくなるのが先か、いずれにしろ多分、どうにかはなっていただろう。
「お前は、幽霊に会ったんだ」
ごふ、と血が舌をからめ取る。
「だから気に病むなよ」
「誰がっ、……誰が気になんか……!」
随分とつめたくなった体を、少女は引きずって街に出る。明け方の空はうっすらとけむり、太陽自体は見えないけれど、明るかった。空だけが明るかった。路地裏で野良犬が鳴いた。餌だと見なして寄ってくるのを、少女は犬のような声で威嚇した。
絶対聖性なんてもの役に立たなかった。
死にかけていた男をしばらくの間生かした、それだけだった。
心までは、どうにもならない。
父親は少女を閉じこめたが、同時に、少女を人と見なさず、別個体として見なさず、つまり自分の考えの内に閉じこもっていた。
分かってしまった。
人がドアの内側にいること。
そのドアの、開け方が、分からないこと。
どうしたらいい、どうしたらいい、助けたいのにこの手では届かない。
医者の看板の前で男をおろした。まだ、生きているのか分からない。生きていても、また同じことの繰り返しかもしれない。
もし、医者に、首を振られたらどうするんだろう。
医者に払うお金もないし、自分には、医者と競合するような力しかない。――治してしまうんだから。患者を。きっと。
「……かえらなきゃ」
もう一度、男の腕を引いて、引きずった。
森までの距離は思ったよりも近くて、でも、夜明けが鷹のように襲ってきて、夜が明けてしまう、早くしなければ。
どうせ埋めるのなら、見知らぬ墓地ではなくて、この森でなければならない。
ただ、自分も埋まるのは嫌だ。ごめんだ。どうしたって……。
土くれの中に男を落としたとき、うめき声を聞いた。
目を輝かせて見下ろすと、舌打ちが聞こえた。
「絶対に、死なせない。絶対聖性なんていう、何の役に立つか分からない力、誰も踏み込んでこない、誰も踏み込ませない、獣しか知らない私の力、貴方は実在してるのを知ってる。この力がある限り、死なせない」
かすれたうめきが返ってくる。最低とも、最悪とも聞こえた。
どんな痛みがあろうとも、男が諦めるまで、しがみつく。
いずれ他の世界を見つけ、少女は大人になり、街へ出て、普通に暮らすようになるのかもしれないけれど。
「狼は、赤ずきんのものにならないのなら、腹を割かれてしんでしまうの」
悪女だなぁ。おかしくなって、少女は笑う。
「さぁ、物語を始めましょ?」
医者はドアを開けて、血塗れの玄関に驚いた。
少女が座り込んで、あどけなく眠っている。
怪我はないようだが、ではこの血はいったい何だろうか。
「私、お父さんに捨てられたんです。何の役にも立たないから」
「どこに」
ストリートガールはよくある話だが、この辺りの通りには居なかった。もっとも、何区画か先ではあるのだが。
少女は黙って、ミルクティから目を離さず、腕だけあげて外を指した。
もこもことした緑が、通りの向こうに生い茂っている。
「……森に?」
少女は頷く。
「でも、お兄ちゃんが助けてくれたんです。お兄ちゃんはどこかでぶつけて、記憶がなくて。もしお兄ちゃんがいなかったら、私、森で狼にやられていたかも」
「あの森は……その……」
言ってもいいものか、医者はつかの間躊躇った。
「古い森だよ。昔、軍人達が接収した土地で、遺伝子だの物理学だのと騒いでいたが、もうずっと前に逃げ出した……」
白い湯気が、ふっと揺れる。少女が、ミルクティを飲みながら笑ったようだった。
「すまんね、医者のくせに、非科学的な話をして」
「いいえ、お医者様。全然、非科学的な話をしてなんていらっしゃらなかった」
「あぁ、そうか。そうだね。いや。あの森は、出るというから」
「出る?」
「絶対的に、誰にもけがされることのない、聖母のような女性がいて、それは小さな女の子なんだそうだ。何十年も昔から言われていて、軍人が来る前までは見かけた人もいたそうだけれど……魔女とも呼ばれていた。ただの伝説だな」
パパがいたところの近くで、そんなことがあったなんて。少女は小さく呟いた。
まるで自分のことみたいで、でも別人で。
「変な森ですね……」
「そうだな……」
しばらくの間を置いて、医者はふと気がついた。
「そうだ、その、助けてくれたお兄ちゃんというのは、今どこに?」
「さぁ」
少女は、わずかに首を傾げた。
「引き留めることは出来ませんでした……どこかでまた、会うことはあるかもしれませんけど……名前も、連絡先も、聞かなかったので……」
森を出るときにはぐれたのだと、少女は言った。
恐ろしい目にあったにしては平坦な口調だったが、手が震えていたので、感情をおさえているだけだと、医者は思った。
見知らぬ子を育てるには、医者には責任が重たく感じられたので、少女を遠くの施設へ預けることに決めた。連絡すると、幸いにも空きがあるという。少女も、もし勉強が出来て、自活する道も開けるのであれば、とてもありがたいと言った。ストリートに放り出されるよりは、ずっとずっとラッキーだと、その目の輝きが言っていた。
しばらくして、噂がたつ。
森には悪い狼がいて、赤ずきんちゃんを食べようとした。けれどそれに失敗して返り討ち。赤ずきんちゃんは逃げ出した。
狼は、今も森で、次の女の子を待っているという。
了
狼サンと赤ずきん せらひかり @hswelt
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