閉
「多々良君が死んだ。自殺だ」
そう告げる店長は少なくとも見かけ上は冷静だった。彼は彼がそうあるべく規定したとおり、大人だった。どれだけシニカルに振る舞ったところで、結局は情に厚い性状のあの人が、その事実を飲み込むのに一体どれだけの意志が必要だったろうか。心なしか彼の頬はこけて見えた。
多々良は自宅の一角、例のピアノに突っ伏すかたちで倒れていたところを、マンションの管理人に発見された。年末年始連絡のひとつも寄越さない娘に小言のひとつでも聞かせてやろうとした彼女の母親が、連絡がつかないことを不審に思い、管理人に安否確認を依頼した、という運びらしい、と店長は訥々と語った。
死因は薬の過剰摂取による中毒死だったそうだ。発見当初、彼女の周りには彼女が随分昔からため込んでいたものと思われる処方薬が散らばっていたらしい。
どこからそんな詳細を入手したのかわからないが、この人たらしのことだ、事情聴取に来た警察から上手く聞き出したのだろう、と納得しておくことにした。
「……遺書はなかった」
なぜかすこしだけ間を置いて、店長は言った。
「君は、彼女から何か聞いていなかったのかい」
それからそんなようなことも言った。ぼくが首を横に振ると、店長はそうか、と小さく頷くだけだった。
ぼくはあの晩つくった曲をその日のうちに簡単なデモ音源にまで仕上げて、彼女に送った。彼女からの返信はなかったが、クラウドに保存してある曲のリンクを送信したメッセージは既読状態になっていたから、おそらく聴いてもらえた筈だった。しかしついにその感想を聞くことはないまま、彼女は死んでしまった。
彼女の葬儀は当然実家で執り行われることになった。ぼくはそんな遠方まで出かける金がなかったので行かなかった。どんな顔で、どんな立場から彼女を悼めばいいのかもわからなかった。店長だけは大人らしく喪服を着て出かけて行った。たった一日といえど、店長のライブハウスが休業するのは異例のことだった。
妹尾さんはぼくを半分泣きながら口汚く罵った。どうして救ってやれなかったのかと、何度も何度もぼくを詰問した。この人はいつだって他人に求めてばかりなのだ。ぼくが沈黙を返していると妹尾さんは項垂れて、またすまんとだけ言ってどこかへ行った。
ぼくは大学の図書館で借りたいくつかの図書ですっかり重くなったリュックを背負いながら、徒歩で帰路についていた。今朝は路面が凍っていて、自転車が使えなかったからだ。老教授が試験用に指定した文献はどれも嫌味に分厚いうえに禁帯出だった。それで仕方なく似たような内容の図書をいくつか借りることにしたのだった。
頭がどこかぼんやりしていて、重い筈のリュックはそれほど重く感じられなかった。凍った地面に滑らないように意識しようとしても、すぐに別のことに注意が向いてしまう。ぼくはぼんやりと考えていた。
なぜ彼女は自殺したのか?
何が彼女を死に追いやったのか。あるいはぼくは何もなくとも、むしろ何もないからこそ自殺するタイプの人間がいることを知っている。しかしそのどれもが、多々良志甫という人物からは遠いもののように思えた。けれどこうして彼女が自殺したことが事実である以上、ぼくの知らない彼女が、いたということなのだろう。ぼくたちは出会ってまだ二カ月も経っていない。そんな付き合いで、彼女のすべてを知っていたなんて言えば、それは傲慢というものだろう。
部屋に帰り着くと、ぼくはA4サイズの封筒が一葉、郵便受けに入っていることに気がついた。チラシのなかに埋もれていたそれを引っ張り出して、差出人を確認する。そこには達筆な字で『古閑朝日』と書かれてあった。ぼくは彼がこんな達者な字を書くことも、そして何より下の名前も初めて知った。
重いリュックを下ろし、封をそれなりに慎重に開ける。中からは達者な字で綴られた便箋一枚と、また封筒が出てきた。封筒には宛て先も差出人も何も書かれていない。ぼくはまず便箋に目を通した。便箋にはこうあった。
『淡島くん
正直なところ、これを君に渡すべきか僕はかなり迷った。君からもう一度、音楽を奪うことになるかもしれないという予感がしたからだ。しかし故人の希望ということもあるし、少なくとも僕が持っているべきものではないことも確かだ。
僕は迷ってばかりだ。君たちの前では必死で大人ぶってはいるけれど、君にどんな言葉をかけるのが正しいのかすらわからないんだ。まったく情けなくって申し訳ない。
これは多々良くんが生前、死を選ぶ本当に直前、僕のところに来て渡していったものだ。淡島くんへと言っていた。勿論僕は中を見ていない。見るか見ないかも君次第だ。けれどこれだけはもう一度言う。
彼女の遺書は見つかっていない。
これを書きながら、僕はまだ迷っている。これを君に渡していいのかどうか……。
どうか変な気だけは起こさないでくれ。今度手伝ってほしいイベントがあるんだ。
給料は弾むよ。じゃあ』
鼓動が速くなっているのがわかった。彼女がぼくに残したもの。唯一の遺書。
――彼女が、なぜ自ら死を選んだのか。その答えがあるいは手中にあるかもしれない。その可能性の前では、店長の懸念など何ら問題ではなかった。はやる気持ちを抑えながら、あくまで丁寧に封を開ける。
結果的に言えば、それは遺書ではなかった。いや、それはあくまで定義の話であって、ある意味では遺書には違いなかったし、今でもぼくはあれを遺書だと考えている。ぼくだって好きでこんなまわりくどい表現をしているわけではない。では端的に言って、それは何だったのか。
封筒の中から出てきたのは、楽譜だった。
プリントされた五線譜に、手書きの音符。それが多々良の遺作であることは、すぐにわかった。おろしたての紙、時期的にみても彼女が最後の一か月にこもりきりで制作していた楽曲で間違いないだろう。譜面から察するに三人編成のバンドを想定した曲だ。ぼくは曲を頭から脳内で再生してみることにした。
違和感は最初からあった。シンコペーションが多用されたイントロ。異様に手数の多いドラム。彼女の曲芸じみた音楽は、アクロバティックでありながら奇跡とも言えるほど危うい位置で見事に均整がとれていた。しかしこれは違う。好意的に捉えればそういった音楽に対するアンチテーゼとも取れるかもしれないが……。
そして何よりぼくを困惑させたのはその進行だった。
間違いなくぼくの知らない曲だ。多々良の新作であり、遺作。ぼくが知りうる筈もない。けれどぼくにはこの曲がこのあとどんな展開をするのかが手に取るようにわかった。どこで転調するかは無論、譜面からは読み取りようのない音色の変化まですべてがぼくの予想通りに進んでいく。
この曲は何だ?
楽譜を読み進めながらぼくはこの不気味な感覚の原因を必死で考える。そしてまもなく気づく。気づいてしまったのだ。
なんで。
なんで。なんで。なんで。
突然の吐き気に口を押さえる。
だって、これは。
――――それは、ぼくという音楽家のつづきだった。
そして最後の一枚。曲は最後までぼくの想定を外れなかった。外れたのはその最後の一枚の裏。彼女はどんな気持ちでそれを書いたのだろうか。推し量るにはぼくはあまりにも彼女のことを何も知らなかった。
そこには悲痛な筆跡でこう書き殴ってあった。
『売れたかった』
その時、彼女はまぎれもなく死んだ。
自然とこぼれる笑いを、ぼくは止められない。
なぜ自分が笑っているのか、わからなかった。
耳を澄ましてみても、もうあのファズとディレイは聴こえてこない。
あれだけ鮮やかに瞼の裏側を塗りつぶしていた青色は、思い出そうとしても、どうしてだかできなかった。
彼女の遺した、その曲の題名は、
『彼岸に寄せて』
誰もが、
彼岸に寄せて 古森四方 @__hiji
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