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 は部屋の押し入れのいちばん奥にあった。埃をかぶってもう久しいそれは、当たり前のようにそこにあったが、けっして持ち主との再会を望んではいなかったであろうことは想像がついた。

 それでもぼくは金具を外し、ゆっくりとそれを開く――九四年製のテレキャスターが、変わらずそこにはあった。錆びた弦。すり減った二弦三フレット。記憶が正しければチューニングは半音下げのレギュラーチューニングのままだ。

 ぼくがこいつを買ったのは、初めて店長のライブハウスでライブをやることが決まった頃だった。それまで使っていた安物を持ってステージに立つことが気恥ずかしいという理由からだった。こいつを買うためにぼくは初めてアルバイトをした。

 呼吸が浅く、速く不規則になっていることにはとっくに気づいていたが、しかし何とか意識しないよう努力していた。冷や汗が出ている。視界はにじみ、彩度を失っていく。

 いくら呼吸をしても一向に酸素が取り込めていないように感じるのは、おそらく錯覚ではない。多々良の家でギターを握ったときとは比べようもないほど苦しい。今からぼくがしようとしていることを思えばそれも当然だった――何せリハビリをすっ飛ばして、また音楽をつくろうというのだから。

 それもとびきり美しいやつを、だ。

 多々良が言うそこにあるだけの美しさなんてものが本当にあるのかなどぼくにはわからない。仮にそんなものがあったとして、ぼくたちはその美性を理解しうるのだろうか。だって、人間が美の判定者として完全であるとは、人間以外の誰も主張してこなかったじゃないか。

 それでも、彼女はひたすらに美への奉仕者だった。その姿は敬虔な信者か、あるいは奴隷を思わせた。その健気さが、その気高さが、ぼくはすきだ。

 だから信じてみることにしたのだ。彼女と、そして彼女の信じるものを。

 ネックを握ると案の定、錆びた弦が指先に食い込んだ。ざらついた感触。しかし弦を張り替えるだけの余裕は今のぼくにはなかった。握ったネックから手を放したらおしまいだと思った。そうなればぼくはもう一生音楽をやらない、そんな気さえした。ぼくは生唾を飲み込む――今だ、走り出してしまえ!

 はじめに鳴らしたのはE。次に根音はそのままで長七度を加える。それからA。Am7……。こみ上げる吐き気に、喉を閉めて対抗する。

 激しく咳き込む。肺が一気に空になる感覚があったが、それでも演奏はやめない。いや、やめられない。いつだってそうだ。不随意筋や勝手に伸びる爪、前髪。生きようとしているのはいつだってぼくという人格ではなく、ぼくの身体だ。おなかがすいているということに、今さら気づく。苦しい。もうやめてしまいたいのに、演奏は続いていく。

 楽しいだけが創作ではないと、多々良は言った。彼女もこうしてひとり苦しみながら、もがきながら音楽に向き合っているのだろうか。彼女の提示する進行や着想はいつだって魅力的で、しかも彼女はそんないろいろを、ちょっとコンビニに行ってくるときの気軽さで持ち帰ってくるように見えた。簡単にぼくよりずっと遠いところまで行ってしまえる彼女が、ぼくは羨ましかった。

 進行が徐々にミニマルなリフレーンに収束していくにつれて、思考が澄んでいく。音楽は本当に自由なのか? 人間の可聴域なんてたかだか二万ヘルツの幅に収まってしまう。そんな中でぼくたちはどこまで自由であれるのか――。

 それから考えるのは彼女のこと。かみさまみたいな女の子のことだ。ぼくたちはもっとこういう話をするべきだったのだ。震えのとまった手は、ゆるやかにアルペジオを鳴らしていた。君と話がしたい。きっとただでは取り合ってもらえないだろうが、この曲を持っていけばすこしは話を聞いてもらえるかもしれない。

 待ちわびていたように、最後の音が鳴る。

 ぼくはその日、音楽をつくった。


 そしてぼくが彼女――多々良志甫の自殺を知ったのは、それから二週間後、年明けの真新しい空気もようやく薄れてきた頃のことだった。

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