5

 その日は真冬にしては暖かかった。老教授はまだ神代文字について熱弁していたが、その熱量に比して内容が退屈であることに受講者の多くはすでに勘付き始めていた。ただ、一度だけ、奥さんにきつく言われついにその立派に蓄えられた髭を綺麗さっぱり剃り落としてきたときには、流石にみなの笑いを誘ったと見えた。

 いまだぼくの定位置は講義室中段やや後ろだった。

 樹木の多い構内では、この時期枯葉が寒風に舞う。乾いた葉を踏みしめながら、掃除が大変そうだ、なんて呑気なことを考えた。

 あれからぼくと多々良は何度か会い、そしてあの夜と同じやり方で音楽をした。場所は彼女の指定する喫茶店のときもあれば音楽スタジオでふたり交互に短い記号を交わし合うときもあったけれど、あの夜以来、彼女の部屋に入ることだけはなかった。

 彼女は最近、また新しく曲を書いているらしかった。どんな曲かを彼女は一切話さなかったし、ぼくはぼくで、作家が未完の作品についてあれこれ吹聴することの下品さを理解しているつもりだったから、特にこちらから尋ねるようなこともしなかった。

 多々良との会話は何も音楽だけに限らなかった。特に彼女は本のことをよく話した。根っからの読書家であるらしい彼女は、文学部のぼくも知らない作家の話を嬉しそうに語った。他にも、自分は音楽関係の仕事に就きたいと考えているが、両親は暗にそれをよく思っていないこと、大学の単位取得が進級に足るか微妙なラインにあることなど、そんなことを話す彼女はかみさまなどではなく、ひとりの大学生だった。

 講義を終えたぼくは生協で本を数冊買い、足に付きまとう鬱陶しい枯葉をぞんざいに振り払いながら、キャンパスの端に位置する研究棟の裏までたどり着く。非常用階段の裏には隠れるように喫煙所があった。大学のホームページでも掲載されている大学公認の喫煙所なのだが、そのアクセスの悪さと日中でもほとんど日が当たらない陰気なところが災いして、学生のほとんどに利用されていない。喧噪が苦手な一部の田舎者(つまりぼくだ)を除いては。

 ぼくははじめ、非常用階段の陰に隠れていた彼に気づくことができなかった。彼のほうも特段ぼくの近づくのに気づくことなく、静かに紫煙を燻らせていた。まったく意表を突かれたぼくは、先客がいたことにまず驚き、そしてその顔に見覚えがあることに重ねて驚いた。一度しか見ていない顔を、ぼくは確かに覚えていた。

「あの……」

 彼はぼくがそう声を掛けて初めてぼくに気づいたようだった。の向こう、双眸は大きく見開かれ、色素の薄い肌が一気に紅潮する。あまり友好的な様子でないことは明らかだった。

「どうしてここにいるんだ」

 不遜な態度で疑問を投げつけてくる彼は、しかし冷静を装っているように見えた。

「どうしてって……、それはまあぼくがここの学生だからだけど、君こそどうしてここに?」

「ここの学生だからだ」

 白髪の美青年は妹尾と名乗った。彼はこの大学の法学部に通う四年生で、幼い顔立ちからてっきり年下だと推量していたぼくの見立ては、つまり誤りだったことになる。ひとまずぼくはぼくの無礼を謝罪しようとしたが、妹尾さんはそれを制した。

「お前は敵だからな。払ってもらう敬意なんてないよ」

 吸わないのか、と妹尾さんは二本目の煙草に火を点けた。あまり人前で吸うのは、それが喫煙者であろうとなかろうと控えているぼくはその言葉を聞かなかったふりをした。

 それにしても『敵』とは一体どういうことだろう。好かれていないことは一目瞭然である以前に想像はついていた。だからこそぼくはあの日以来店長を訪うときも、できるだけ人気の少ない時間帯や曜日を選んでいたし、けっしてあのライブハウスで多々良と会うことはしなかった。そんな配慮がこんな奇跡のような悲劇で水泡に帰すとは思わなかったが、しかしこれほどの敵愾心を向けられる謂れにも、ぼくは心当たりがまるでなかった。

「なんでお前なんだ」

 ぼくが反応に困っていると、妹尾さんはぽつりと呟いた。その声は震えていて、怒気を孕んでいるようにも、またある種の諦観を帯びているようにも聞こえた。

「なんでお前なんだ」

 妹尾さんは同じ言葉をもう一度繰り返した。火を点けた煙草に彼は先程から一向に口をつけていなかった。白く細い煙が立ち上り、大気に溶ける。

「お前の曲、古閑さんに頼んで聴かせてもらったよ。あんなゴミみたいな曲、よく恥ずかしげもなく書けるよな。まあ、何もお前だけに限った話じゃないんだけどさ――」

 みんな揃いも揃ってゴミみたいな音楽をしやがる――妹尾さんは苦々しい表情で鼻を鳴らした。

 ああ、そうか。そういうことか。

 ぼくはなんとなく、この美青年は多々良に恋をしているのだと思っていた。あの夜ライブハウスで見た彼の執着は、そういった類の感情に由来するものだとばかり思っていた。けれど違う。とんだ恋愛脳だ。

「――多々良の音楽は、違った?」

 ぼくが尋ねると、妹尾さんはしばらく黙って、それからちいさくああ、と頷いた。

「……かみさまを、みたんだ」

 妹尾さんはそう言って、ようやく煙草を一口吸った。彼の吐く煙は、店長のそれと違って、苦い。彼しか知らないいつかを想うように薄く、長く彼は息を吐く。青色。ファズとディレイ。変拍子。Cのアドナインス。

 この人はきっと、彼女の才能を愛しているのだ。

 それはおそらく、信仰に近い。

 才能はとても暴力的で、でもとても神秘的だから。

「だからあなたは、そんなにも多々良に執着するんですね」

 自然と敬語を使ったぼくを、妹尾さんは今度は止めなかった。

「……あいつは、天才だ。今でこそあんな寂れた箱でライブをやってはいるけど――いや、違うな。売れようが売れまいが、あいつは天才なんだ。俺はあいつになりたい。なあ、淡島、お前もあんな不細工な音楽をやっていても、一時は創作家だったんならわかるだろ」

「……わかりますよ」

 線引きを済ませてなお、その向こう側を目指す強さが、ぼくにはなかっただけ。

 きっとこの人は、ありえたぼくなのだ。直感的にそう思った。

「だからわからない。なんであいつがお前を選んだのか。そこのところ、お前はどう思ってるんだ」

「……さあ。ぼくにはわかりません」

 語気は次第に萎んでいく。彼女がぼくを選んだ理由。彼女は一度もそのことに触れなかった。ぼくに彼女と音楽をする資格なんて、あるのだろうか? 今更の問いが、今更ぼくのなかで反芻される。

「お前、音楽やめたんだろ。それにお前が売れ始めた頃の曲、ありゃまるで――」

 そこまで言いかけて、妹尾さんはやめた。きっとこの人は、やさしい。

「とにかく――なあ、お前がいちばんよくわかってるんだろ。あいつは、本当はお前や、俺みたいな人間に見向きもしないでつくり続けるべきなんだ。そうだろ――」

 それはつまり多々良と今後関わるなということだ。

 ふざけるな。自分は彼女に接近しようとしているじゃないか。

 喉元まで出かかったそれらの言葉が、ついぞ声帯を震わすことはなかった。

 ぼくには妹尾さんのような強さはない。一度音楽をやめておいて、なお情けなく多々良の足を引っ張っている。こんなぼくが、これ以上彼女のそばにいていいわけがないのではないだろうか。

 ぼくが黙っていると、妹尾さんはすまん、と一言残して、喫煙所を去った。

 残されたぼくは、ひとり鼻をすすった。


 ライブハウスには、チケットもぎりという仕事がある。

 仕事内容といえばその名の通り、来場客の持つチケットから半券を切り離し、ドリンク代を徴収して、引換券を半券と一緒に返す。企画ライブなど複数の出演者がいる場合は、たいてい隣に客にどのバンドが目当てなのかを尋ねて集計する人がいて、これは出演者のノルマに直結している。客の払った入場料は、そのまま出演料に充填される。超過分は出演者に還元される仕組みだ。良い音楽をしていても、ノルマが払えずにアルバイト代で補填して、いつの間にかそこで正社員になっている。そんな人間を何人も見てきた。今日だってきっと皆がしあわせな結果にはなりそうにない途中経過だった。音楽に勝ち負けはないが、そこに競争を見出せない人間は伸びない。名声を得ることが正しい音楽家の在り方なのかというところも含めて、難しい。

 店長の店では入場の手続きが済んだあと、客の手の甲に蛍光塗料でスタンプを押すことになっていた。店長がすきだという梟をモチーフにした特注品だ。ライブハウスではたいてい、出演者には日付とバンド名が手書きされた布製のシールが配られ、これを衣服のどこかに張り付けておけばそれを証明に何度でも再入場できる仕組みが採られている。このスタンプはそれを観客用にモデルチェンジしたものだった。

 ぼくは受付でいつか生協で買った本を捲りつつ、まばらに来る客の手の甲にスタンプを押していた。次第に字を読むのがなんだかだるくなって、本を閉じぼんやりと頬杖をつく。

 あの日を境に、多々良とは一度も会っていなかった。

 多々良からは、毎日のように連絡があったが、ぼくは無視に徹した。彼女の足を引っ張らないことが、今のぼくにできる最善だと何度も自分に言い聞かせた。

 そのうちに連絡ははたりと止んだ。これでいいんだと思った。

 それでもここでこうしてライブの手伝いをしていれば、多々良とばったり出くわしてしまうことも十分にありえたけれど、どうやら彼女はここしばらくこの場所に出入りしていないようだった。

「どうせ、曲でもつくっているんだろう。彼女、曲作りが煮詰まってくるといつもこうなんだ。まあでも、一度つくりはじめたらもの凄い速度で書き切ってしまうタイプだから、今回はすこし長いね。余程難産なのかな」

 店長はすこし心配そうに言っていた。

 ぼくはといえば、精神的にすっかり安定性を欠いていた。夜眠れないことが増え、音楽をやめる直前服用していた薬に幾度も頼った。ベンゾジアゼピン系の、それほど強くない薬だと当時医者はぼくに説明した。

 手伝いを終えたぼくに店長はいくらかの金をバイト代として渡してくれた。さんざん好き勝手に呼びつけはするが、あの針金細工のような男が報酬を欠かしたことは今のところなかった。

 ライブハウスを出ると、外は今にも雪が降りだしそうな夜だった。

 ぼくの足は、駅にではなく、なんとなくある順路を辿る。

 息を切らしながらいつか走ったその道を、今度はゆっくりと踏みしめる。

 そこは、何の変哲もない、ある公園。

 多々良は、着膨れするほどの厚着で、ベンチに腰掛けていた。そのいでたちは、ほとんど球体に近かった。

 ぼくはわざと大きな足音を立てながら近づいていく。

「……久しぶり」

 上手く声が出たかどうか、自分ではわからなかった。多々良は横目でぼくを捉え、すぐに視線を外した。視線をそのままで、口を開く。

「ねえ、音楽は? ちゃんとやってる?」

 その言葉を聞いて、ぼくは胸が締め付けられる心地がした。

 何の説明もせずに、一方的に関係を断った。

 そんな理不尽な扱いを受けて、なお君はそう尋ねるのか。何よりも先に。

「……やってないよ」

「……そっか」

「……君はつくってるんだろ。君はつくるときいつもこうなんだって店長が言ってた。あの人、今回は君がなかなか顔を出さないから心配してたよ」

 勿論ぼくも、と続ける資格がぼくにないことくらいは、ぼくにもわかった。多々良はまた、そっかあ、と今度は間延びした声で言った。

 公園は相変わらずぼくたちの領土だった。あらゆる音がつめたい夜に沈んで、静寂だけがそこにあった。はるか遠くからわずかに聞こえる電車の音だけが、世界にぼくたちだけでないことを教えてくれた。

「淡島くんはさ――音楽って必要だと思う?」

 唐突な問いにぼくは面食らってしまう。それを見て多々良はうっすらと笑う。予想だにしない転調を思いついたときと、同じ笑顔。この子はいつだって読めない。多々良は続ける。

「ほら、よく言うじゃない。ご飯は食べないと死んじゃうけど、音楽はなくたって死なない……」

 それは、誰の言葉だったのだろう。ぼくは、そしてきっと多々良も、何度となくその言葉を投げつけられている。それを自ら嘯く人もいる。音楽を志した者であれば、誰もが一度は考えたことがある、ありふれた問題。『果たしてぼくたちのしていることに、意味はあるのか』。

「ぼくは……わからない。信じたいとは思う。音楽は世界を変えたりしないけれど、それでも、音楽がなければなかったいのちや、あるいは音楽が人を殺すことだって、あったんじゃないかって、良いライブを見たりすると思う。でも、やっぱりどれだけ良い音楽も、なくなれば皆、ああ嫌だな、惜しいなみたいな、その程度で、また毎日を過ごしていくんだろうなって、そうも思うんだ」

 だって、食べられなくとも死なないのだから。なくなったらかなしい。困りもするだろう。でも、死んだりはしない。

「君はどこまでも誰かのために音楽をするんだね。君らしい。それはとてもやさしいことだと思う。でもね、淡島くん。私はこう思う――音楽は必要なんだ。たとえ私たちが、いてもいなくても」

「ぼくたちがいなくても……?」

「そう。本当は、私たちがいてもいなくても、良いものは良いんだ。私たちが、ううん、人間がまだ見たことのない綺麗なものだって、この世界にはたくさんあるでしょう? だから私は、世界に私しかいなくなったとしても、それがたとえこの先誰にも聴かれない音楽だとしても、つくり続けていたい」

 だって、世界が美しいものであふれたら、それはとても素敵なことだと思わない? と多々良はまるで夢を見る少女のように声を弾ませた。

 無垢で高潔な、彼女の思想。それは、一点の汚れも知らない思想だった。

「私はだから、音楽がないと死んでしまう。生物としてじゃなく、私として」

 彼女は続ける。倍音を多く含む、澄んだ声で。

「君もそうだと思ってた」

 過去形で放たれた評価に、なぜか身体の芯が引っ掻かれたような感覚に襲われた。

「君もどうしようもなくつくる人なんだと思ってた。だからあの日私がいようといまいと、遅かれ早かれまた音楽をつくるんだろうなって。ううん、つくらざるを得なくなる、かな。だって私たちは、呪われているんだから……」

「ぼくも――」

 そうだと、そう言いかけて、その言葉はまばたきをするたび喉元を嚥下していった。一度音楽をやめておきながら、まして自分から彼女を突き放しておきながら彼女からの失望に耐えかねているぼくが、どれだけみじめに映るのか、それがただ怖かった。

 ぼくが何かを言おうとして、しかし何も言えないでいると、下卑た笑い声とともに不良少年たちが公園にやってきた。世界はもうふたりだけのものではなかった。多々良は彼らを一瞥すると、短く息を吐いて立ち上がり、「じゃあね」と言った。

 きっともう、会えない。それが被害妄想などではないという、確かな予感があった。

 不良少年たちの声は雑音が多く混じっていて、声量のわりに何を話しているのかさっぱり聞き取れなかった。彼女が去ったあとも、ぼくはまだ、何かを言おうとしていた。

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