4

 音楽をやめたその日、ぼくはギターが弾けなくなった。

 ――きっと、これは罰だ。

 創作を冒涜した罰、たくさんの人に迷惑をかけた罰。

 それ以来ギターには触れていない。

 弦は、もうとっくに錆びている。


 彼女はまた黙っていた。ぼくはなんだか申し訳ない気持ちになって、それからぼくに非がないことを思い出した。そもそもぼくの拒絶を無視して、半ば無理やりここまで連れてきたのは彼女で、あるいはその固辞の姿勢が甘かったとしても、この空気に対してぼくが感じるべき責任など、どこにもない。そう思いつつ、けれど、ぼくはやっぱり申し訳なかった。

「――Cadd9」

 多々良は、唐突に、固く結んだ口をようやく開いて、静かにそう呟いた。それは、彼女がライブで最初に鳴らしたコードだった。

 ぼくは彼女がどうして急にそんな記号を呟いたのかがわからずに困惑した。いくら待ってみても彼女から続く言葉は放たれない。彼女の――多々良の視線は、ただまっすぐにぼくを見据えている。それはまるで、そう、――。

 そこまで考えたところでぼくは気づく。彼女が一体何をしたいのかを。

「E7sus4……?」

 おそるおそる、まさしく手探りのような感覚で、ぼくは記号の名前を発声した。声は震えていた。……こういうことなのか?

 彼女がしようとしていること――それは紛れもないセッションだった。要するに目の前にいる少女は、記号の応酬だけで音楽を成立させようとしている。

 ギターが弾けなくたって、こうやって音楽はできる――彼女はそう言いたいのだ。

 ぼくは数分前、彼女が自分の耳と記憶だけを頼りにアコースティックギターを調律してみせたことを思い出した。音は、彼女の中にある。そして、それはおそらく、ぼくも同じだった。

「Am7」

 彼女はすかさずそう口にした。その進行がぼくの予想とは大きく異なっていたためにぼくは少し驚き、そしてやや時間を取ったあと、続く記号を返した。今度は彼女が驚く番で、目を閉じ、眉間に皺を寄せながら、唸る。きっと感情が表情に出やすいのだろう。ライブハウスで、男相手に嫌な顔を隠そうともしないでいた彼女を思い出しながらぼくは思った。きっとそれは表現者としては才能だとも思った。

 そんな応酬が、無限とも思えるほど長い時間続いた。突拍子のない進行を提示するのは、おおかた彼女のほうだったが、力技のような展開になると応答の難易度が上がるのはお互い様で、多々良も何度となく眉間に皺を寄せた。多々良はぼくの思いもよらないタイミングで転調をほのめかし、そしてそういうとき彼女はいつもいたずらっぽく笑った。

 それは音楽だったし、対話でもあった。交わされるのはただの記号で、勿論今自分の中で鳴っているこの音楽と同じものが、彼女の中にも流れている保証はどこにもなかった。しかし、間違いなくぼくらは通じ合っていた。声は、いつの間にか震えなくなっていた。

「――楽しい?」

 随分時間が経ったあと、彼女はぼくにそう尋ねた。ぼくはふと夢中になって次の展開を考えている自分に気づいて、だから少し面映ゆくなって、一言楽しいよ、とそんな言葉を返した。それを聞いた彼女は薄く微笑んで、

「良い曲だった」

 と言った。ぼくも同調した。ひどく冗長で不完全な、とても人前で披露できたものではなかったけれど、それでも良い曲だと思った。

「私たちは、つくり続けるしかないんだ」

 多々良は、どこか、ここではない遠くを見るようにしながら椅子の背もたれに重心を預けていた。

「どんなに格好悪くて、どんなに苦しくても、そうしていないと生きていられない――」

「……まるで呪いみたいだ」

 そうかもしれないね、と多々良はかすかに笑った。

 その時ぼくはほんの少しだけ、音楽に対する活力のようなものを取り戻しつつあるのを感じていた。夏になると、飲めもしないサイダーをふとほしがる時の、あの感覚に似ていた。

 しかし同時にこうも考えてしまう。この、かみさまみたいな少女は、やはり特別なのだ。誰よりも音楽を、つくることを愛している。ぼくには、これほどまでに芸術に対し誠実で、清潔であり続けることはできなかった。そしてそれがやっぱり、ぼくは悔しいのだった。あるいは、この悔しさが、彼女の言うところの『つくる側』の人間であることの証明なのだろうか。だとすれば、ぼくたちは、どこまでも救われない人種なのではないだろうか。そんなことを考えながら彼女を見遣る。彼女は笑っているようにも、沈んでいるようにも見える表情で、ただ窓のほうを眺めていた。

 例えばこの先にありうる地獄を、この少女はすでに知っているのだろう。でも続けていくのだ、この少女は。今までそうしてきたように、ごく当然に、そして非常に自然に――。

 多々良との対話セッションを終えて、ぼくは自分の明らかな変質を感じていた。けれどぼくはそんな彼女にぼんやりと、雪だね、とそんなようなことしか言うことができなかった。

 彼女の視線の先には、部屋の温度に溶けた雪が、露となって窓ガラスに張り付いていた。


「それで、君はそのまま彼女の部屋に泊まったのかい」

 後日、店長は冷やかすような笑顔と口調でそう言った。くつくつと笑うとき彼の痩せた身体は風に吹かれた枯れ枝みたいに小刻みに震えた。

「……別に、店長が面白がるようなことは何もありませんでしたよ」

 ぼくはあの夜のことをこの針金細工のような男に話した軽率を早くも後悔した。話す必要なんてそもそもありはしないけれど、店長は何の挨拶もなしに(特に多々良はあの日機材を丸々放置していた)寒空の下突如消えたぼくたちを大層心配したそうだし、何よりぼくはぼくの潔白を誰かに主張しておきたかった。実際、ぼくたちがあの後二言三言交わし、別々に眠ったことは、すでに先程から何度も念押しするように繰り返していた。

「それにしても、君と多々良君かあ」

 店長はまだ半分は残ろうかという煙草を念入りに灰皿に押し付けた。相変わらず気障な吸い方をする。

「だから、そんなのじゃないですってば」

「いやいや、そうじゃなくってね……」

 店長が手持ち無沙汰にジッポライターをいじるたび、武骨なそれは薄暗い照明を鈍く照り返した。骨ばった指が静かに真鍮を愛撫する様は、なんだか絵になっていた。

「――彼女の音楽、よかっただろ」

 彼が聞いて、ぼくは初めてその可能性に行き着いた。思えば、ぼくが音楽をやめたとき、いちばん自分を責めていたのはこの人だった。

なる前に、僕には何かできたんじゃないかって、今でも思うよ。だってあの時君たちはまだ子供で、僕は大人だったんだから……』

 店長はいつかそんなことをぼくに言ったことがあった。

「あの日ぼくを呼んだのは、彼女とぼくを引き合わせるためだったんですね」

 多々良とぼくが出会って、それから――その先に何をこの人が期待したのか、ぼくにはわからない。きっとこの人にもわかっていなかったんじゃないかと思う。けれど、あの夜ぼくが音楽をしたのは事実なのだ。音楽をやめたぼくが、どんなかたちであれまた音楽をした。それだけは本当だった。

「お節介よりもっとひどい、僕のエゴだと思ってくれてかまわないよ。事実、これはまったく僕の独り善がりだ」

 店長はわざと悪びれもしない風で、鈍色を弄んだ。

「それで、実のところ、どうだった」

 聞くまでもないけれど、と言外に言われている気がして、少し苛つく。

「……よかったですよ。本当、自分がみじめに思えるくらいには」

 自虐気味な応答になったのは、軽い意趣返しのつもりだったけれど、それで自ら傷ついては、本当に世話がなかった。

 才能というのは暴力だと思う。特に同年代の才能なんてものはほとんど劇物と同じだ。

 天才は自分の才覚に自覚的であるべきだ、と言っていたのは誰だったろうか。自分がどれだけの絶望と諦めの上に立っているのかを理解すべきだ、と語っていたのは? 使い古しのそんな感情を、ぼくはやはり逆恨みとしか思えない。というより、これが逆恨みであることなんて皆わかっているのだ。

 わかっていて、それでも、自分の不出来を、無能加減を、そのまま受け入れることは難しいから、ぼくたちは誰かを嫌い、見下げないと自分を保っていられない。ぼくはそうやって創作という病に取り憑かれた人間をたくさん見てきたし、おそらくぼく自身がそうだった。腕を組んでライブをみて、帰り道には自分のほうが上だとひとりほくそ笑む。そんな、醜い化け物。

 きっと多々良史甫はこんな苦悩とは無縁なのだろう。ぼくは店長と別れたあとの帰路の途中、ぼんやりと彼女のチューニングの美しい手つきを思い出した。

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