3

 ぼくがあのバンドを組んだのは、大学に入ってすぐのことだった。

 ぼくのことを知る同郷の知人が、ぼくがひとり作曲を趣味にしているのを知って声を掛けてきたのがきっかけだった。故郷を離れ、新生活への期待がまだ抜けていなかったその頃のぼくは気の知れた人間たちと何かをするという行為に抵抗はなかったし、何よりぼく自身が自分の創作欲の捌け口を探していた。返事には困らなかった。

 元々全員が例えば音楽で生計を立てることなどを目的としているわけではなかった。だから活動はあくまで趣味以上の意味を持つことはなかった。取り立てて技術があったわけでも、余程運があったわけでもないぼくたちがそんな熱量で活動に取り組んだところで勿論客がつくこともなく、その場に居合わせた人たちに向けて音楽をやった。ライン録りをそのまま焼いた手書きのタイトル入りの音源はすこしも売れなかった。それでも、

「楽しかったんだ。何もかも」

 ぼくは当時を思い出しながら笑った。彼女は黙っている。

 ぼくたちの活動に変化が表れはじめたのは、バンドが結成されておよそ一年ほど経った頃だった。当時メジャーで活躍していたあるバンドが解散した。ぼくは特別ファンというわけではなかったけれど、それなりに彼らの曲も知っていた。

「はじめは、遊びのつもりだったんだ」

 ぼくがしたのは、彼らのだった。彼らの曲のコード進行、アレンジを、まさしく遊び感覚で模倣して、まったく新しい音楽をつくった。それは自分でも思わず笑ってしまうほど精巧な贋作だった。こんなものが売れる筈がないと思った。

 けれど予想に反して曲は売れた。自分たち目当てにライブに来る客も増え、贋作は本物の箔を押され、人々の目に留まるようになった。メンバーは喜んだ。いかに趣味の範疇を越えない活動だったとはいえ、それは将来にいくらかの、それも現実的な期待を抱かせるには充分な変化だった。そうしてぼくは当然のように、贋作をつくり続けることを強いられるようになっていった。

 その頃からぼくは露骨に精神的に調子を崩すようになった。それは周囲からの圧力というよりむしろ自分の音楽に対する態度や評価によるものだった。自分の中の評価と世間からの評価がまったく乖離している感覚がぼくを苦しめた。しかしそんな思いとは裏腹にぼくの音楽はどんどん評価されるようになっていった。ぼくの音楽はすでにぼくの手から離れ、一人歩きを始めたのだった。

「こわくなってしまったんだね、音楽が」

「音楽が……?」

 ぼくがそう言うと彼女はそう訊き返した。

「うん。その頃にはぼくはぼくの音楽が何なのか、何がしたいのか、何もわからなくなってしまった。だから――」

 だからぼくは、音楽をやめた。


 ぼくが話し終わると多々良は虚空を眺めて黙っていた。呼吸が浅いのだろうか、彼女の白い呼気は薄く伸びていた。

 ぼくはぼくの軽率さを反省していた。こんな話を今日初めて会った女の子にしてしまった迂闊さを、悔いるまではいかずともなんだか恥ずかしく思った。悲劇ぶるつもりはない。運が良ければ、あるいは悪ければ、誰にでも起こり得る、いわばよくある話だ――そんな思ってもいない自己評価が、しかしぼくをいつだって苦しめていた。

 ぼくは彼女の顔を窺った。ここでぼくは初めて彼女の顔をよく見た。病的なほど白い肌が公園の電灯に照らされてまるで青白く光っているように見えた。肩にかかる細い髪は先程走ったせいで少し乱れている。長い睫毛が震えていた。

「――それで、やりたい音楽はみつかった?」

 彼女は気まずい沈黙を打ち破って、そんなことを言った。

「はあ?」

 自分でもあまりに頓狂な声が出たのがわかった。ぼくは音楽をやめたと言ったのだ。それは追い込まれたぼくが取りうる唯一の選択だったし、何よりぼくが、まがりなりにもひとりの創作者としてできるたったひとつの誠実だった。逃避であったのは確かだけれど、けっして生半可な気持ちで選んだ結末ではなかった。つまり訣別だ。こんな思いが、さっきのすくない説明で伝わるとは思っていなかったが、それどころか彼女はぼくの昔話をすこしも顧みることをしなかった。この子は、ぼくの話を聞いていたのか? ぼくは混乱した。

「まず、君も音楽家なら、何かをつくる人間なら、音楽が――創作が――楽しいだけだなんて甘い考えがそもそも間違ってるんだ……。君の苦しみは君だけのものだけど、だから私はそれをわかるだなんて言うつもりはないけど、それだけは間違いだって言える」

 彼女はぼくのほうを見ずにそう言った。その語調の変化に従って、白い呼気が淡く口からこぼれた。ぼくは自分の頬が一気に上気し、そしてまた急速に冷めていくのを感じた。自分の苦悩を軽んじられたという屈辱と同時に、しかしその言葉が、創作論の一端が、すっと自分のなかに浸透してくるような、複雑で情けない気持ちになった。すこしの反発と、何かを求めるような気持ちでぼくは尋ねた。

「苦しんでまで、ぼくたちは何かをつくらなくちゃいけないのかな」

 今日初めて会った女の子に、こんな質問を投げかけている自分がすこし可笑しかった。けれどぼくには彼女ならあるいは、その答を持っているのではないかという期待があった。彼女はやや間をあけて。

「それが苦しいなら、君はそうすべき人種なんだと思う」

 そう言うと、彼女はすくと立ち上がった。

「ねえ、君の音楽が聴きたい。ギターは?」

 突然の問いにぼくは狼狽する。だって、ぼくはもう、ギターが。

「……ギターは家だよ。ここからは遠い」

「なら私ので……、でも私のはライブハウスに置いてきちゃったし……。取りに帰るにもあいつがいるかもしれないから今日はもうダメか……。だったら……」

 ひとりで多々良はぶつぶつと自問自答を繰り返していた。ぼくは彼女の思いつきが、どうにか終息する方向に傾くことを祈った。しかし彼女の次の一言はこうだった。

「――じゃあ、これから私の家に行こう」


 彼女のアパートは公園からほどなく歩いた住宅街にあった。彼女に手を引かれライブハウスを飛び出した時ぼくは彼女が闇雲に、ただそこから離れようと走っているのかと思っていたが、どうやら彼女のほうでは意識してのことかはともかくとして、知った道を選んで駆けていたようだった。

 道中ぼくたちは一言も言葉を交わさなかった。さすがの彼女も今度は走るようなことはしなかった。けれどその手はまたもぼくの腕をしっかりと掴んでいた。それは勿論物理的な意味だが、気持ち的な意味でも、彼女はぼくを確かに先導していた。ぼくが彼女の手を振り払うことは可能だった。しかし彼女はそれを許さなかった。少なくともぼくは無言のなかにそういった有無を言わさない何かを感じ取った。こういう意味で、ぼくは彼女につき従うしかなかった。

 十二月の寒空の下、小柄とも言える女の子に、黙って腕を引かれる男という組み合わせや状況は、きっと周囲から見ればかなり奇異に映っただろう。しかし幸運なことにぼくたちは道中、電信柱にもたれて酔いつぶれた、サラリーマン風の男を除いて誰とも会うことはなかった。

「さあ、散らかってるけど気にしないでくれるとうれしい。入って」

 多々良は気楽な調子でそう言ってぼくを促した。ぼくのほうはどぎまぎしてしまっていた。何らかの期待にも似た気持ちがなかったと言えば嘘になる。けれどそれよりもむしろ、ぼくはこうした慣れない状況にあることがとても苦手に感じる性質だった。

「ここ、君の大学から言ったら、すこし遠くない?」

 出来るだけ平然を装ってそう訊いたけれど、その答は、部屋に入ってすぐになんとなく察せられた。

 十畳ほどの(アパートの一室としては比較的大きい)ワンルームの一角に、古い電子ピアノが陣取っていた。ぼくはこの部屋が角部屋であったことを思い出した。また壁も割合厚そうだった。これを不自由させないためには、学生の一人暮らしの範囲では、この上ない環境だと思った。

「無理言って実家から持ってきてもらったの。ギターももう長いけど、やっぱり作曲なんかだとこっちのほうが扱いやすいから」

 彼女はそう言って電子ピアノの表面をそっと撫でた。譜面台に開かれている楽譜が何の曲か、ぼくにはわからなかった。

 彼女の部屋は彼女が言うほど散らかってはいなかった。ただ整頓されている、というよりも物が少ないと言ったほうがおそらく正しかった。ピアノの他には机、本棚、ベッド、ギター……それくらいの物しかなかった。起床後そのままであろう乱れた布団以外は、生活感に欠けていると言ってもいいくらいだった。随分殺風景だね――そんな軽口は、あまりぼくの好みではなかったから言わずに置いた。

「そのへん、適当に座って」

 彼女に促され、ぼくはベッドに、彼女は机と同じく黒を基調とした回転椅子に座る形になった。彼女は即座にスタンドに立て掛けてあったアコースティックギター(これはライブで彼女が弾いていたようなマニア仕様の物ではなく至って平凡な、しかしそれでいて弾き古されたギターだった)を抱き、六弦から順に一弦ずつ鳴らした。そのあと三弦だけほんのわずかに調律して、これで大丈夫だと思う、と言ってぼくに手渡した。普通チューニングは五フレット(三弦だけは四フレットだが、これは二弦が他の弦と違って三弦と長三度の関係にあるからだ)とその下の開放弦を鳴らして合わせるか、ハーモニクスの倍音を用いて合わせるかという方法が主流だけれど、彼女はそのどちらでもなく、ただ開放弦を順番に鳴らしてそのずれを正したのだった。ぼくはその手際に思わず見惚れて、ギターを受け取ってしまった。

 久しく触っていなかった――いや、それは、あまりに重く感じられた。動悸が激しくなるのがわかった。呼吸もいつの間にか荒くなって、ついにぼくは彼女から渡されたピックを落としてしまった。そこでぼくは自分の手が震えていたことにも気づいた。

 多々良は異変にすぐに気がついた。そしてぼくの手からそっとギターを抜き取った。口を固く結んで、なぜだか悔しそうな表情で、

「――もしかして君は、もう弾けないの?」

 外は、ついに雪が降りはじめていた。

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