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 ライブが終わり、観客がフロアを後にするなか、ぼくは呆然と立ちつくしていた。

 彼女の演奏を聴いてからこっちの記憶はほとんどなかった。続くバンドが次々登場してはそれぞれ自分たちの音楽を思うままに鳴らしたはずだけれど、その間ぼくの頭の中ではあのファズの自己発振がずっと唸っていて、目を閉じればあの青色が瞼の裏を塗り潰していた。まるで地に足がついていない感覚だった。

 煙草……。そうだ、煙草でも吸って落ち着こう。とっさの思いつきにしては上出来なひらめきにひとまずは満足しながら、ぼくは覚束ない足取りでフロアを後にした。

 このライブハウスはフロアでの喫煙が禁止されている。フロアでの喫煙の可否はライブハウスによってまちまちだけれど、今日のように人の入りがすくないライブならともかく、大勢がひしめき合うような日には、煙草の火は事故やトラブルの原因になりかねない、というのが店長の考えだった。したがってここで煙草を吸うには、先程店長自身もそうしていたように、入り口とフロアを連絡する、七畳ほどのちいさな部屋に行くしかない。重い足取りでぼくがフロアから出ると、一組の男女が言い合っていた。ぼくはつい先刻まで天才的とも思えたひらめきが、一転して悪手となったことを悟った。

「――何度も言うようだけれど、私の音楽にあなたは要らないし、あなたの音楽に手を貸していられるほど私も暇じゃないの」

 そんなようなことを彼女は――多々良志甫は――言っていた。苛立ちやその不遜さを、すこしも隠そうともしない様子で、男と対峙していた。綺麗な声だと思った。

 二人は口論の最中でも、あるいは口論により神経が過敏になっているためか、間悪く現れたぼくを見逃さなかった。元より部屋の構造上、彼女らに気づかれずその場を素通りすることは不可能だったけれど。

 当然二人ともぼくを無視して口論を続けるほど無神経ではなかった。男はきまりが悪そうな顔をしてしきりに頬を触った。脱色を繰り返したせいで雪のように白い髪。色素の薄い肌が印象的な美青年。幼い顔立ちで、一見年下に見えた。対して彼女はこちらを見てただ黙っていた。

「ああ、ごめん……。邪魔をするつもりはぜんぜんなくて……。いや結果として邪魔しちゃったんだから、こんなのはただの言い訳に聞こえるだろうけど……」

 ばつが悪いのはぼくも同じだった。ただそれ以上に、ぼくは彼女とこうして対峙していることにある種緊張を感じていた。彼女と話してみたいと思ったし、彼女という神秘を神秘のまま秘匿させていたいという感情もまた本当だった。煙草を吸っていないから、こんなにも思考が不透明なのだろうか。そもそも前者を実行するとして、話せることが何ひとつとしてぼくにはないのだった。何より、この空気がそれを許す筈もなかった。

 我に帰ったぼくは、謝罪が済んだ(そもそもぼくは何に対して謝ったのかわからないけれど)のなら早々にこの場から離脱しようと試みた。しかし彼女はそれを許さなかった。いや、正しくは、思わぬ行動をもってそれを実現させた。

 彼女は突然ぼくの腕を引き、地上へとつづく重い扉の向こうへと駆けたのだった。

 ぼくがその手を振りほどけなかったのは、きっと煙草を吸えていないからにちがいなかった。


 そうしてぼくたちが足をついに止めたのは、ライブハウスからかなり離れた、住宅街の中にある公園だった。近頃運動なんてまったく縁がなかったぼくは腰掛けたベンチで項垂れて息をなんとか整えた。もう辺りはすっかり真っ暗で、気温も相当冷え込んでいる筈だけれど、散々走ったせいで身体はむしろ熱く、息ばかりが冷えて白んだ。

「だらしないなあ、この程度で」

 息ひとつ乱さず彼女はそう言って、そしてそれほど悪びれもせずにつづけた。

「巻き込んじゃってごめんね。うまい具合に間男が現れたもんだから。でもおかげで助かったよ。彼、しつこくて。今日の企画だって彼の主催だって知ってれば出なかったのに」

 まあ、それはよく確認もせずに出演を引き受けた私が悪いんだけど、と彼女は付け足した。ぼくはそこでようやく、先刻彼女と口論していた男の顔を思い出した。ライブのトリ、つまりあの企画ライブを主催しているバンドでベースをしていた男だ。間男だなんて冗談ではなかったけれど、こうなってしまえばもう後の祭りだ。しばらくはあそこには近づけそうもない。観念して彼女の方を向く。

「君は……」

 ぼくがそう言外に尋ねると彼女は多々良史甫と名乗った。

 ぼくたちはそれからいくつかの、栓のないあれこれについて話した。ぼくはそのなかで彼女が同い年であること、北国に生まれで、今はおそらくこの街で最も有名な大学に通うために親許を離れ独り暮らしをしていることなどを知った。

「音楽は、いつから?」

「ちいさい頃からピアノはずっとしてた。ギターは高校から。はじめてバンドを組んだのは大学に入ってからだけどね」

 聞けば今日彼女とステージに立っていた二人は知り合いづてに集めた、つまり仮のメンバーらしかった。軽音楽、それもいわゆるコピーではなく自分たちで音楽をつくり発表することを目的としているバンドは、慢性的に人員不足に苦心している場合が多い。音楽や創作というものに対する熱量やそれに伴う技能、個人の趣向の足並みが揃うことは、存外に難しい。それでも構成員が自分以外補欠というのは、やはり珍しい部類と言えた。

 慣れない運動であがった体温ももうすっかり平温まで下がって、かいた汗が時折吹く風に冷えたけれど、ぼくはそんなことすこしも気にならなかった。ただ同時に、妙に高揚した自分を、性欲と切り離すのに必死な潔癖をぼくは自分の中に感じていた。実際今自分を高揚させているのは彼女のあの神性によるものだ。けれどこうした客観がいつだってつきまとうのがぼくの性質だった。

「ねえ、今日のライブ、どうだった?」

 彼女は急に真剣な顔でそう訊いた。

「……ぼくの感想なんて、なんのためにもならないよ」

 本当はぼくが感じた美しさを、持てる賞賛の言葉すべてをもって表したかった。けれどまだぼくは煙草を吸えていなかった。言葉にしようにも感覚ばかりが先行して、上手く表しきれる自信がぼくにはなかった。それに、ぼくの稚拙な批評が彼女の音楽に万が一でも影響を与えることをぼくは恐れていた。しかし、彼女は依然まじめな顔を崩さなかった。

「あなたの感想が聞きたいの。他でもない、あなたの」

 彼女の目はじっとぼくを捉えていた。

「どうしてぼくにそんなにこだわるの」

「あのライブハウスの出入りしていて、あなたのことを知らない人はいない――」

 彼女はぼくを見ていた。

 綺麗な瞳だった。

 彼女はぼくを見つめたまま、それを口にしていいか一瞬逡巡し、そして口にした。

「淡島樹くん。あなたはどうして、音楽をやめてしまったの」

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