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 その日ぼくは大講義室の後ろ寄りの席で、なんとなく勢いで取った講義を受けていた。自由席だった。教壇では顔中毛むくじゃらの老教授が(正確にはぼくは彼が教授職に就いていたかを知らないし、就いていたとしてその本籍がこの大学にあるのかさえ知らなかった)神代文字について熱弁していた。室の前列付近に座る学生たちは熱心にその話に耳を傾け、時折頷いてみせ、ノートを取っている。講義はその空間だけで完結していて、老教授がその視線を室の後ろ側に向けることはなかった。ぼくはそこに加わる勇気も熱量も持ち合わせていなかったけれど、自分より後ろで思い思いの時間を過ごしている人間とは同じにされたくなくて、いつしかこの中段後ろ寄りの席がぼくの定位置になってしまった。ささやかで、矮小な自尊心だということは、自分でもわかっている。

 後ろで小さく笑いが起こった。ぼくは頭の中で舌打ちをする。そのあと、そんなに気に障るのなら自分も前に座ればいいのに、とまた頭の中で呟いた。こんなことをもう何度も繰り返している。結局ぼくは何にもなれていなかった。

 講義も後半に差し掛かった時分、上着のポケットに入れたままにしていた携帯が振動した。講義は講義室の半分で完結している。ぼくは目を憚ることなく届いたメッセージを確認した。

『今晩暇なら、ひさしぶりに顔を見せにおいで』

 馴染みのライブハウスの店長からだった。店長とはぼくが時からの知り合いで、ぼくが音楽をやめてからもこうしてたまに連絡をくれる。ただ、たいていは他愛もない近況報告か、それでなければ突然の人手不足が出たときの応援要請だ。今回のように用件も明かさず呼び出すなんてことはめったにない。やわらかな語調ではあるが、ともすればやや意味深にみえないでもない文面が引っ掛かった。

 とはいえ、知らぬ仲でもない。そういえばしばらく会っていないことも思い出した。今日の講義も今受けているもので最後だ。どうせすることもないので、ぼくはすばやくメッセージをフリック入力する。

『わかりました』

 後ろからまたひそやかな笑い声が聞こえてくる。人目も憚らずメッセージのやりとりをしたぼくは、今度は舌打ちができずに、代わりに窓の外に目を遣った。

 今にも雪が降り出しそうな寒空だった。


 講義は定刻ちょうどに終わった。老教授はまだ話し足りないといった様子で蓄えた髭を撫でたが、学生をむやみに拘束しようとはしなかった。前方で懸命にノートを取っていた連中は、チャイムが鳴り終わるころにはもう筆記道具を片付けていた。

 外に出ると冷たい空気が肌を刺した。吐く息は白い。寒いのはあまり得意ではなかった。自然と背が丸まってしまう。視線を落とすと前髪が視界をふさいだ。そろそろ髪を切らなければ。そう思いつつ、ぼくはこの伸びた髪を気に入っていた。他人に視線を悟られずにすむからだ。

 時刻は午後四時半。今から電車に乗れば五時過ぎには着くだろう。店長からのメッセージでは時刻は指定はされていないが、どうせいつ行ったって変わらない。いつだっててきとうに人がいて、てきとうに音楽をやっている――あそこはそういう場所だ。

 大学まで乗ってきた自転車は最悪一晩くらいならあのままでもいいだろう。ぼくは大学を出て最寄りの駅へと向かった。

「やあ、淡島くん。来たね」

 繁華街の一角、地下へと続く階段を降り、防音のためにやたらと重いドアを開けると、それに気づいた男がぼくに平手を見せた。

「……おひさしぶりです、店長」

 この男の名前は古閑という。下の名前をぼくは知らない。ぼくはこの人を呼ぶときには『店長』と呼ぶし、古い仲でも『古閑』だとか、とにかく下の名前が呼ばれている場面にぼくは出会ったことがなかった。長身痩躯で、よく体調を崩す。こんな場所で見なければ誰もこの人のことを経営者、それもライブハウスを経営しているだなんて思わないだろう。

「今日、何かのイベントなんですか」

 店内にはすこし活気があった。ここにはいつだって誰かがたむろしているけれど、そもそも本来的にここはライブハウスで、何かのイベントでもないかぎり人の出入りはそれほど多くはならない。せいぜい馴染みの客が数人立ち寄って音楽談議に興じている程度だ。店内は知らない顔ばかりだった。つまり今日は何かのイベントがあって、ぼくは例によって人員の頭数のひとつとして、まんまと呼びつけられたわけだ……。そう判断したぼくを、店長は一笑した。

「いやいや、たしかに今日は目にかけている子たちの企画ライブだけれど、別に淡島くんをこき使おうって腹じゃなかった。本当だよ。まあ、今日のところはというだけだけど。ただ――」

 店長は何かを言いかけて、やめた。シャツの胸ポケットから煙草を取り出すと、昔露店で買ったという真鍮製のジッポライターで火を点ける。

「身体に障るからやめるって言ってませんでしたか?」

 愚問とわかってはいたが、形式は貴ばなければならないということを、ぼくは大学に入って二年余りで理解しつつあった。

「まあ、こればっかりはどうしてもね……。そういう淡島くんは? まだ吸ってる?」

「……ぼくは元々、店長ほどヘヴィじゃありませんから」

 その言葉は嘘ではなかった。二十歳になってからなんとなく吸い始めた煙草はあまり身体に合っていなかったらしく、以降本数は一向に増えることのないまま、なんとなく習慣化してしまっている。

 店長が煙をゆっくりと吐き出す。甘ったるいにおいが鼻腔をくすぐった。

「――音楽は? そっちは、やめちゃったまま?」

 店内を薄暗く照らす間接照明が、一瞬揺れた気がした。自分の肩が震えただけだということにもすぐに気がつく。店長もあえてこちらを見ようとはしない。

「……はい」

 ぼくはそう一言紡ぎ出すのが精一杯だった。

 店長はすこしさみしそうな顔をして、それから微笑んだ。新しく客が入ってきて、店長に軽く声をかけた。店長は片手をあげてそれに応じ、短く息を吐いた。

「まあ、今日は本当に君の顔が見たかっただけだ。君、最近全然遊びに来ないから。それなりに元気そうで安心したよ。しかしなんだ、せっかく来たんだ。見ていきなよ。今日の企画はそれなりに聴けると思う。チケット代はタダにしといてあげるから」

 言い終わらないあいだに手近の灰皿に煙草を押し付けて、その場を立ち去ろうとした店長は思い出したようにはたと立ち止まって、三十代とは思えないほどいたずらな笑みを浮かべた。

「ドリンク代は払っていけよ」


 観客はまばらだった。

 店長と別れたあとぼくは言われたとおりきちんと五百円玉をラミネート加工されたちいさなドリンク引換券と交換して、開演前のフロア後方を陣取った。ステージは開演前特有の青色で満たされている。ぼくはこの照明の色がすきだった。

 両手の指で足りるとまでは言わないまでも、フロアにいる人間はそう多くはなかった。しかしアマチュアバンドの企画ライブなんてどこもこんなものだろう。この中の何人が出番を控えた演者なのだろうかと、勘繰るだけ酷というものだ。観客はみな自由に開演までの時間を過ごしている。早々に引換券をコップ一杯の酒に変えている者もいた。携帯の液晶を確認すると、開演はまもなくだ。

 店長は『それなりに聴ける』と、そう言っていた。店長が言うのだからきっと『それなりに聴ける』のだろう。ぼくは彼の耳を信用している。

 時間潰しにぼくはタダでもらったチケットに印字されたバンド名をひとつひとつ目で追ってみることにした。どれも知らない名前だ。どんな音楽をやるのか見当もつかないけれど、企画をやるくらいだからきっと既存曲のカバーではなくて自分たちの音楽をつくっているのだろう――ぼくはそんな誰にでもできるような推測を立ててチケットを鞄にしまった。


 はじめの二バンドが演奏を終えたころ、ぼくはもう帰ろうかと考え始めていた。率直に言って退屈だったからである。たしかに演奏は上手い。『それなりに聴』くことができた。しかし曲の構成、音作り、歌詞、あらゆる要素が既存の楽曲を踏襲することだけに躍起になったとしか思えなかった。伝統トラディションではなく模倣イミテーション。音楽が消耗品となった現代においてそれはあまりに致命的だった。

 雪が降り出しても面倒だ。五百円玉と交換した引換券は無駄になるけれど、そのあたりに放置していれば観客の誰かが有効活用するだろう。ここに求めるべき良識のようなものはないし、そもそも求めてもいなかった。ぼくは帰ることに決めて手近のテーブルに引換券を出来るだけ無造作に置いた。

 彼女が登場したのは、その時だった。

 ギター、ベース、ドラムのスリーピース編成。今回の企画でははじめてだったけれど、別段珍しいことではない。自分たちで音楽をつくろうなんて心意気のバンドは、往々にして慢性的なメンバー不足に苦慮している。珍しくなかったのは彼女のギター、そして彼女がちいさな体躯で運んできたかなりの数のエフェクター群だった。彼女のジャズマスターは傷だらけだった。はじめはレリック加工のものかと思ったが、それにしても傷だらけだ。しかもリバースヘッド。ピックアップはフロントとリアで別々のものが取り付けられている。

 あまりにも目を惹く機材にぼくはすっかり出口の方向を向いていたつま先を元に戻した。彼女がどんな音を出すのか気になった。

 転換中フロアに流れている音楽がフェードアウトしていく。転換が終わり、演奏が始まる合図だった。

 澄んだ音で和音がひとつ鳴った。ぼくの耳が正しければ、C のアドナインスだ。

 協和音のような響きを持つ、不協和音。

「やります」

 聞こえるか聞こえないか、そんな声量で彼女は伏し目のまま言った。

 カウントがみっつ。

 曲が始まってすぐ、ぼくは数分前まで自分が退屈していたなんてもうまるで信じられなくなっていた。

 彼女のバンドはいわゆるインストゥルメントバンドだった。つまり歌わない音楽。

 曲の構成などあったものではなかった。予定されていたとは到底思えないやり方で、時には強引に、目まぐるしく転調が繰り返される。拍子が変わっていく。加速したかと思えば途端に減速する。曲中にカポタストを付ける曲芸じみたことまでやってみせた。

 足元のエフェクターを存分に駆使し、スリーピース編成とは思えない音圧で奏でながら、彼女はマイクに向かって発音した。音だった。コーラスで用いるような、繊細で、しかし音圧に埋もれないぎりぎりのラインで発声されたミックスボイスが、根音の三度下を美しく羽ばたいていく。

 彼女はまるで楽器そのものだった。

 ――ああ、これは音楽だ。

 ぼくは、音楽をみている。模倣イミテーションではない確かな『本物』がそこにはあった。ぼくはそこにある種の神性すら見出していた。

 演奏が終わってなおファズとディレイによる自己発振が轟音を生んでいる。

 照明が転換中の青色に変わり、轟音の中肩で息をする彼女は、

 あまりにも美しかった。

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