ふたつの卒業式
菜宮 雪
第1話
今日は、ひとり息子の小学校卒業式。
PTA役員をやっている私は、朝からバタバタしていた。一般の保護者よりも早く会場へ行かなければならない。夫を会社に送り出してすぐに、息子よりも先に家を出る。
好きで引き受けたわけでもないPTA役員。私はくじ引きで副会長に大当たりし、この一年は何かと学校行事に駆り出され、気分的に忙しい日々を送った。
でも、それも今日で終わり。
役員から解放される喜びで、足取りも軽く、役員の集合場所となっている音楽室へ向かった。
音楽室では、ピアノを囲むように先生方数人が集まって、校歌の合唱練習をしていた。
歌の邪魔をしないように静かに壁際に移動すると、教頭の青木先生が私に気が付き、合唱練習から離れて駆け寄ってきた。
四十代半ばの青木先生は、いつも細かいことまで気が回るよくできた男の人で、私たちPTA役員にとっては、なくてはならない人だ。
「おはようございます、岡部さん。実は、先ほど学校に連絡がありまして、PTA会長さんが、今日はインフルエンザでお休みだそうです」
「インフルですか。あー、それは仕方がないですよね」
私は、なんとなくその先に続く嫌な予感を押し殺し、普通に返事をした。
「それでですね」
青木先生は申し訳なさそうに、話を切り出した。
「PTA代表としての祝辞を、副会長の岡部さんにお願いできないかと思いまして。急なことで、大変申し訳ないのですが」
「私が……みんなの前で挨拶するんですか……」
いやだ! やだやだ! 絶対に無理! 大勢の前であいさつなんて、役員就任の時だけでもうこりごり。
やんわりと断る。
「あの……私が挨拶すると言っても、急なことで何も考えてきていないですし、会長さんがご欠席ということなら、PTA挨拶はなしにしても……」
「もうプログラムには載っていますので……岡部さんには、本当に申し訳ないのですが、副会長としてのお話をお願いできませんか」
「でも」
「簡単なひとことでかまいません。いつもお子さんにかけているような言葉だけでいいので」
「いつもの、言葉……ですか」
私が子供に与えるいつもの言葉なんて『宿題やった?』とか『さっさと寝なさい!』とか。
およそ、祝辞にはふさわしくないものばかり。
「やっぱり私には無理です」
「そうおっしゃらず『卒業おめでとうございます、これからもがんばってください』だけでもいいですから」
「そんな短くてもいいんですか?」
「形だけですので」
「そうですか……」
「お願いできますね?」
「……わかりました」
あっさり屈服。全然乗り気じゃないけど、やるしかなさそうだ。
ああ、憂鬱。何を言えばいいのか。私が壇上でしゃべる予定を知らない息子は、突然出てきた私を見て、どう思うだろう。
音楽室の端で悶々と考えているうちに、校長先生が入口に姿を見せた。
「お見えになりましたから、すぐに始めます」
この音楽室で、たったひとりの卒業式が、一般の児童に先だって行われる。
校長先生に続いて音楽室に入ってきたのは、遺影を抱いた女性とスーツ姿の男性。サエちゃんのご両親だ。
サエちゃんが亡くなったのは、この秋のこと。自宅での自死だったと聞いた。遺書はなく、いじめは確認できず、事件性もなかったということで、彼女が何に悩んで命を捨ててしまったのかは誰にもわからなかった。
同じクラスだった私の息子に、サエちゃんがどんな子だったのか聞くと、
『しゃべったこともなくてよく知らない、目立たない、いてもいなくてもわからないような子』だったそうだ。
サエちゃんの卒業式は、最初は音楽室でやるのではなく、他の児童と一緒に体育館で名前を呼ぶことに決まっていたが、ご両親はそれを強く拒否した。死んだ娘と同学年の子供たちを見ることがつらいと。
そこで、子供たちが登校する前の早い時間にサエちゃんのご両親を呼び、一部の教職員と役員で、ひとりだけの卒業式を行うことになったのだった。
「では、始めましょうか」
青木教頭先生に促され、一同は二列に並んだ。役員まで合わせても全部で二十人ほどだ。黒板には『祝、卒業』とチョークで大きく書かれ、ピンクや黄色の花が描かれている。
サエちゃんのご両親は、中央の式台のすぐ前にご夫婦で立った。
「第四十一回、東南第一小学校の卒業式を始めます。一同、礼」
ピアノ伴奏に乗せて、君が代、校歌斉唱、と歌が続く。先生方の精一杯の歌声を聴いているうちに、目の奥に涙がたまってきてしまった。先生方はサエちゃんのためだけに歌っている。サエちゃんのご両親の姿は、私からは背中しか見えないが、その心中を考えると、自分の胸が高波にさらされているようにざわついた。
校歌が終われば、すぐに卒業証書授与。PTA挨拶はここではなしで、少しだけほっとする。
担任の花房先生が、教頭先生に促されて一歩前に出た。
花房先生は、息子の学級担任でもあり、新任としてこの学校に着任して四年目になる二十代の女の先生。六年生の担任をするのは初めてで、がんばっておられたところ、受け持ちの児童を自死で失った。その衝撃で、この先生は一か月近く休職していた。
心なしか、今日の花房先生は顔色が悪い。大丈夫なのだろうか。他の先生方も花房先生の様子を心配そうに見守っている。
葬儀帰りのような真っ黒スーツ姿の花房先生は、震える声で、失った女の子の名を呼んだ。
「六年三組、太田サエ」
「はい」
二つの大人の声が返事をした。
校長先生が卒業証書を読み上げる。サエちゃんのお父さんが、校長先生の正面に立ち、おごそかに卒業証書を受け取った。遺影を抱いたお母さんには、卒業証書を入れるためのファイルが進呈された。
「サエさん、卒業おめでとう」
校長先生がかけた言葉は、サエちゃんの遺影に向けられたものだった。写真のサエちゃんは目を細めて楽しそうに笑っている。自死に至るような陰りのひとつもなく。
卒業証書を受け取ったご両親は、一同に向かって深く頭を下げた。
「サエのために、本日はありがとうございました。このように特別ですばらしい場を設けていただき、娘も喜んでいると思います」
サエちゃんのお父さんがお礼を述べると、花房先生がご両親の前に飛び出し、パッ、と両手をついて頭を床にこすりつけた。
「サエちゃんを救うことができなくて、申し訳ありませんでした。私の指導力不足でした」
花房先生は、涙を流しながら、何度も謝罪を繰り返す。
「私、担任のくせに何も気が付かなくて、ほんとうに……気くばりが足りませんでした」
サエちゃんのお母さんが、堰を切ったように声をあげて泣くと、先生方や役員のお母さん方も、感染したように次々にすすり泣き始めた。
見ている私もたまらず、ハンカチで口元を隠す。嗚咽が漏れてしまいそうだ。
サエちゃんのお父さんが、花房先生にやさしく声をかけた。
「先生、お立ちください。サエは、先生のせいで死んだわけではないですから」
「いいえ、私がもっとしっかりしていれば、サエちゃんの様子がおかしかったことに気が付いたかもしれないんです」
「サエは、もともと、人と話すことはあまり得意ではない子でした。家の中でも無口で。もしも、先生が相談に乗ってくださったとしても、あの子が心の中まで打ち明けたかどうか。先生に責任はありません。娘が死んでしまったのは、一緒に暮らしていながら、気が付かなかった私たちのせいです。私たちは親として失格でした。サエのことを何も見ておらず、こうなったことの原因すらわからずで」
サエちゃんのお母さんの泣き方が一段とひどくなり、お父さんがお母さんの背にそっと手を添え、言葉を続けた。
「だから、先生は、笑って送り出してやってくださいませんか」
他の先生に支えられながらよろよろと立ちあがった花房先生。他の先生方も泣いている。
暗い場を流すように、校長先生が閉会宣言をした。
「これにて、第四十一回、東南第一小学校の卒業式を閉会といたします」
「一同、礼。卒業生、退場」
未来や希望を歌う卒業式歌もなく、卒業記念品もない。それができない事情はここにいるみんながわかっているから、短すぎる式でも誰も何も言わなかった。
少ない拍手の中、サエちゃんのご両親が音楽室の出入り口に向かって歩いていく。
ご両親は、ここに集ったすべての人に会釈し、最後に戸口で、「本当に、ありがとうございました」と二人で深くお辞儀をした。それは、いつ終わるのか、と思えるほど長いお辞儀だった。
頭を下げるご両親の肩がひどく震えている。お二人の涙が床にポツポツと落ちて音を立てた。
気丈にふるまっていたサエちゃんのお父さん。ずっとにこやかに振舞っておられただけに、悲しみの深さを余計に感じた。
私も、しばらくの間、涙が止まらなかった。
サエちゃんの卒業式は終わった。今から私の息子の卒業式。気持ちを入れ替えないといけない。
私は、壊れた蛇口のようになってしまった目をハンカチで押さえ、深呼吸した。
まだ役員としての仕事がある。祝辞をどうしよう。
困ってスマホで祝辞を検索。ありがたいことに、検索で、PTA会長用祝辞の見本を発見したけれど、スピーチタイムは三~五分ぐらい、原稿用紙で三、四枚と書いてあった。そんなに長くしゃべるものなのか。
上から目線はダメだとか、お父さんお母さん、という言葉は使わないとか、タブーもあるらしく、考えるだけで頭が痛くなってきた。サエちゃんのご両親の涙で、私は今も頭の中がくちゃくちゃに乱れている。まともに考えることなんかできそうにない。
もういい。ちゃんとしたお話なんて、がんばっても私にはできないから、本当にひとことだけにしよう。どうせ誰も聞いてない。短くても、言葉に詰まっても問題ない。私だって、小学校の時の祝辞なんて、誰の言葉も覚えていないんだから。
体育館へ移動し、式終了後の打ち合わせなどをしているうちに、時間となり、卒業式が始まってしまった。
私の出番は、校長先生の挨拶、町会議員さんの祝辞の次。
緊張がどんどん高まっていく。
それにしても、町会議員さんのご挨拶、長すぎ。いつ終わるのか。
立派な四字熟語が入ったすごい挨拶だけど、何を言っているか、さっぱりわからない。
子供たちもつまらなそうにしている。やっと終わったわ、と思ったら、次は私の番。子供にとっては、また挨拶されるのは、うんざりだろう。
「PTA副会長、岡部芙美子さん」
名を呼ばれ、私は元気よく返事をして壇上へ向かった。
大勢の目が私を追っている。息子も見ている。
私が呼ばれたからびっくりしているかな?
在校生の後ろの方はずっとざわついている。
みんな、退屈だよね? さっさと終わらせるよ。言いたいことはひとつだけ。
息を吸い込んで、大勢の目を受け止めた。
「卒業生のみなさん、保護者代表として、ひとつだけお願いがあります」
声が震え、言葉に詰まりそうになる。
しっかりしろ、私。
声に力をこめた。
「それは……みなさんが、ここにいる保護者や先生方よりも先に死なないこと、です」
ざわついていた場が、ピン、としまった感じがした。
「お願いはそれだけです。みなさんが、大人よりも先に死なないこと。
今日も、明日も、その先もずっと、私たち大人が齢を重ねてあの世へ行く日まで、みなさんと一緒に生きていきたい。それが、みなさんとかかわっている大人全員の願いです。ここにいる先生方も、保護者もみんなそう思っています。みなさんは大切な宝物です。
だから、卒業生のみなさん、これからも、人生の少し先を歩いている私たちと共に生きて、前を向いて歩いていきましょう。
卒業おめでとう。
PTA副会長、岡部芙美子」
拍手の中、無事に壇上から降りた。
終わった。ああ、終わった。
ちょっと短かったかな。サエちゃんのことを暗に言ったことになってしまったけど、一足先に行われた卒業式の余韻で、私の頭はいっぱいで、他にいい言葉なんか出てこなかった。上から目線になっていたっぽいけど、もう気にしない。
PTA席に戻るとき、花房先生が泣いておられるのが目の隅に入った。あの先生もきっと同じ気持ち。誰も、大切な子供を失いたくはない。死ぬな。私たちより先に死ぬな。勝手に死ぬな。ただそれだけ。
卒業式は無事終了した。
私は泣いている暇もなく、後片付けに追われた。
体育館の片づけがほぼ終わるころ、六年生たちの最後のホームルームが終わり、卒業生たちが校庭に出てきた。幸い、外は三月としては暖かい日、雨も降っておらず、助かった。
中庭でのクラス写真撮影が済むと、すべての行事が終了し、解散となった。
私はスマホを手に写真を撮ろうと、息子に近づくと、いきなり言われた。
「なんでお母さんが挨拶してたの?」
あはは、やっぱりそう言う?
「会長さんがインフルでね、代理」
「いきなり出てきてびっくりした」
「あんな挨拶しかできなくてごめん。急なことで立派な言葉なんて思いつかなくてね」
私の挨拶を、息子はどう思ったのかは言ってくれなかったけれど、息子は穏やかな笑顔を見せてくれた。気持ちは伝わったと信じたい。
他のお母さん方と写真を撮り合いっこした後、花房先生と息子のツーショットも写真に収め、息子と徒歩で帰路についた。
私と並んで歩く息子。初めてネクタイを締めた息子が、妙に大人びて見える。息子は、いつの間にか、私と背丈が変わらなくなっていた。中学のうちに私の身長を抜くだろう。
「博、ねえ、手、つないでいい? 体育館の中も、外で待っている時も寒かったの。温めてよ」
いやだ、と言われるかと思ったけれど。
息子は私の手を握ってくれた。
「うわっ、冷たぁ!」
自分も冷たくなってしまうだろうに、それでも私の手を温めてくれる。
もう中学生。母親と手をつないで歩くのは、おそらくこれで最後だろう。
サエちゃんのご両親のことを思えば、こうして息子と歩けるなんて、ぜいたくの極みだ。
息子の手は、私の手を包むほど大きくなっていた。ふわふわだった幼児の手ではなく、肉のない男の手に変わりつつある。
息子は、いつかは大人の男になって私から羽ばたいていくのだ。その日は近い。私はそろそろ子離れしないといけない。私も徐々に息子から卒業しよう。そんなことを思える私は幸せ者。失ってしまえば、そんなことを思うことすらできないのだから。
息子がいること。
そして、今、手をつないで隣を歩いていること。
この一瞬一瞬が、奇跡の連続。
風は冷たいけれど、陽射しには確実に春が入っている。こうして季節をひとつずつ積み重ね、戻れない時間の中に私たちは生きている。このひとときが永遠に続くことはない。
私は、手から伝わる息子のぬくもりに心まで温められながら、雲が浮かぶ空を見上げた。涙がこぼれないように、そして、それを息子に悟られないように。
照れくさくて言えないいくつもの言葉を、心の中に並べた。
博、卒業おめでとう。大きくなったね。うちの子に生まれてきてくれてありがとう。
一緒に歩いてくれて……そして、今日も、元気に生きていてくれて、本当に、本当にありがとう。
私も、今日から子離れできるよう、がんばるよ。
息子とつながっている手の力を、ほんの少しだけ強めた。
了
ふたつの卒業式 菜宮 雪 @yuki-namiya
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