1.<星のはしご>と星のグミ
さばり。と、音を立てて、少年は湯から立ち上がります。
そこは薄暗い空間でした。膝の高さほどに浅く湯のはられた公衆浴場。でも少年の他には誰もいません。水の音の余韻が響くだけです。
ちょっとぬるめの設定なのか、少年は肌寒く感じました。
脱衣所で身体を拭いて、急いで服を着替えます。
そうして湯屋を出る頃には、身体も温かさを取り戻しました。
大人が手を伸ばせば届くくらいの低い天井。ところどころに覗くむき出しの配線。頭にぶつかりそうな配電盤。そんな路地裏で曲がり角をいくつか抜けると、優しい光があふれます。
そこは、大きな大きな空間でした。
見上げれば、壁が四方を囲んでどこまでも高く続いています。天井なんて見えません。その縦に伸びる内壁を這うようにして、らせん状の階段がぐるりぐるりと築かれています。少年も、そんならせん階段の一段にいるのでした。
階段のひとつの段は、カプセル・ホテルの一部屋くらいの大きさです。
少年がいま来たような、壁に穿たれた通路の出口にあたる段もあれば、素敵な果物屋さんの段もあり、おじさんがソファでくつろぐ段もあれば、何もなくただ人が通るための段もあります。
そうしてたくさんの段が階段になって、縦に伸びる閉鎖空間の周囲を巡って、街を作って、どこまでも高く、らせん階段は続くのです。ここは<星のはしご>です。
少年は段のふちに腰掛けました。
らせん階段が伸びるのは、上にだけではありません。下にも深く、続いています。
少年は見えない遥かな底に向け、足をぶらぶらさせてみます。
空間の中心を、空高くから2人の人が落ちてきて、そのまま下に過ぎていきます。上の街から下の街まで、2人で旅をしているのです。
少年はちょっとうれしくなって、ポケットから星のグミを取り出しました。
熟れた赤色巨星を圧縮し、ゼラチンと混ぜて溶かして型に入れたお菓子です。型はゴーストの形をしています。1枚の板に6個の型がついていて、よく見るとそれぞれのゴーストは微妙に違っているのです。
少年は最後の1つをゆっくり型から剥がすと、まじまじと見つめました。
ぷるぷるして、みずみずしくて、明るく輝き、星のような重さがあります。
少年は特別のとき、星のグミを食べるのです。
「あ、星のグミ」
後ろから声がして、少年は驚きました。
「いいなー。おいしいよね、それ」
びっくりした少年は、慌ててグミを口に入れます。もぐもぐ噛んで、のみ込んで、振り向くと1人のお兄さんが立っていました。
「あー、急かしちゃったかな。ごめんごめん。取ったりしないのに。ホントはちゃんと味わって食べたかったよね。悪いことしちゃったね」
お兄さんは、申し訳なさそうに謝りました。
少年は手元の板に目を落とします。もうグミはありません。
グミの入っていたゴーストの型に水を入れて冷やすと、ゴーストの形の氷ができます。それはそれで楽しいのですが、それでもグミはもうありません。
「ねえキミ、インク、持ってない?」
お兄さんが少年に聞きます。
「そこの文房具屋さんで万年筆を買ったんだけど、インクを売っていなかったんだよね。キミ、インク持ってるかな」
少年は首を振ります。
「そっか。じゃあさ、インク売ってるとこ、知らない?」
「……しってる」
「ホントに? そしたらさ、ちょっと連れて行ってくれないかな」
見たところ、お兄さんは悪い人ではなさそうです。
けれども、少年はなにか、嫌な雰囲気を感じずにはいられません。
でも少年には断る理由もありません。
少年は立ち上がると、らせん階段の街をゆっくりと降り始めました。
「ねえキミ、さっきは悪いことをしたね。お詫びと言っちゃなんだけど、ムーンゲートチョコ食べるかい?」
「いらない」
「えっ、いらないの? けっこう珍しいんだけどな。ねえ、キミさ、チャルメラ派? それともサポイチ派?」
少年は少しだけ考えてから、答えます。
「チャルメラ派」
「ふうん、そうなんだ。でもさ、サッポロ一番もおいしいんだよ。こんど機会があったら食べてみてよ」
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