第21話 引き止める者

マーリャは薄らいだ意識の中、ぼんやりと誰かの声を聞いた。

それは一人が発したものではなく、年若い女性の声と年端もいかない幼児の声が寸分の狂いなく重なっていた。

「皆と同じ視点に立ち、同じ歩調で足を動かすことに妙な窮屈(きゅうくつ)さがありはしなかったか。本当はもっと高いところから俯瞰(ふかん)できる。もっと早く歩き、走り回れる。二本の足を使うより、前脚と後脚で動いた方がしっくり来る。そんなふうに思いながらも周囲の輪から外れるのを嫌がり、他者に倣(なら)って真似を続けてきたのではないか」

問いかけの形をとってはいたが、半ば確信をもって訊かれている。

大げさな言い回しながら大部分は同意できるもので、強く否定しようとは思わなかった。

自分と他人の姿形や思考が違うことなど、成長過程で誰しもが気付く。人より秀でた部分もあれば、いくぶんか劣った部分もあって当然だ。

そうかもしれないと同意を示すと、声は密やかに笑った。

「もう我慢する時期は過ぎた。誰に気兼ねする必要もない。外へ出よう。表に行こう。『私』ならそれが出来るはずだ」

急に背中全体が熱を持ち、手足までも汗ばんでくる。

寝苦しさに起き上がったマーリャの目は、壁の大きな窓をとらえた。

灯火の少ない暗がりの中にあって、街の明かりを知らせる透明なガラスはずいぶんと明るく見えた。

転ぶのを避けて膝を曲げた四つん這いで窓まで行き、施錠を解くと途端に風が吹き抜けてくる。

髪と服の裾を揺らす程度のささいなものだったが、ロウソクが尽きかけていたのか部屋の灯りが煙をあげて消えてしまった。

出入り口はおろか、部屋の間取りさえ判別しづらくなる。

しかし、開いた隙間に身体を押し込めればここから出られるはずだ。

頭で考えた瞬間、既に行動に移していた。

二階から落ちればどうなるか火を見るよりも明らかだったが、マーリャはなぜか地面にぶつからなかった。

靴を履いていない素足は土を踏まずに宙にふらりと浮いていた。

大型の鳥によく似た羽音が絶えず後方から聴こえる。ゴミを荒らすカラスかコウモリが近くにいるのだろうか。

口元も、いっそう噛み合わせが悪い。舌を動かして確認すると、上下の犬歯が異様に伸びてきている。

本来なら驚き、悲鳴をあげてもおかしくない状態にあって、マーリャはひたすら爽快感を覚えていた。

枷(かせ)を外されたように身が軽く、身の違和感や不都合な面が何ら気にならないのだ。

目の前が開けたような心地は幼子の頃の理由なき万能感に似ていた。

ひとまずはより高い位置に行こうと、マーリャは宿屋の屋根の上に降り立った。

両足で踏んだ緑色の瓦が浮き上がってズレを起こし、音を立てて数枚にヒビが入る。

「ダメだよ、カーバンクル」

静けさの中に柔和さがにじむ声は知己のエルフのものだった。

肩掛けを身につけて水平になった主棟(しゅむね)付近に座っており、マーリャが気を取られて動きを止めたとみるや近付いてくる。

誰しもが眠る真夜中、こんなところに彼がいるはずはない。

落下を免れたことといい、これらは総じて夢ではないかと錯覚する。

男は平然とマーリャの片手を取り、手の甲や手のひらを確かめた。

「これなら立派な晴れ姿を見せられるよ。『それ』をするのはいつだって出来る。大人になってから、羽を伸ばしたっていいんじゃないかな」

湯で磨いてもらったぶん容色が良くなり、鱗の痕もそれと意識しなければ気付きにくい。

「……あんたが、そう言うんなら」

害のない笑顔に自由への意欲が削がれた。

心なしか牙が縮み、喋りやすくなる。

しぶしぶ了承したのを受けて、男は話題を変えてきた。

「儀式が終わった後、どうするか決めた?」

「わ……吾(わ)は変わらん。村に戻りたい。都会が肌に合わんからやなくて、村で自分がええ思いしとったって分かったから、戻らんとあかん気がしてん」

考えを口にすればするほど、不気味なほどの身軽さは薄れていった。

地面を跳ねることはできても鳥や猫のように飛び上がるなど到底叶わない、人間の重量が戻ってくる。

夜の肌寒さも感じられるようになり、身震いすると男は肩掛けをマーリャに譲ってきた。

「恩返しってこと?」

わずかなニュアンスの違いに、首を振って否定する。

「領主さまも村長もええ人で、悪いことせん土地やったから村が住み良いち思うとった。作物の不作が少なうて、口減らしせんでもええくらい恵まれとったから暮らし向きも良かった。吾は産まれた家に粉挽き小屋があって、お金に困ったことがない。全部、ええとこばっか見とる」

異変や異常と呼べる事態が発生しない、きわめて平和な時代に育ったとばかり思っていた。しかし実際のところ、運が良かっただけなのだろう。

近隣に魔物が出没したのは、ほんの十数年前。これからも山を拓き川を使い作物を育てるならば、いつまた襲われてもおかしくない。

下働きや雑用だけではなく、取引の一端を担うようになれば、そこに人間同士のいさかいも降りかかってくる。

「吾の代でどうなるかなんて分からん。育てるのが上手くいかんで食い扶持に困ったら、戦争やらが起きて何もかも取られてしまったら、どうしようもない……でも、幸せに過ごしてきた分、ずっとそれが続くよう気を張れるはずなんよ」

都会で身を立てるより親しんだ村を保たせたい。

意欲ばかりで根拠はなく不確かな自信しかなかったが、気のおけない誰かに打ち明けておきたかった。

「それが君の判断なら、誰も文句は言わないさ」

意識の甘さを咎められても仕方がないと考えていた。

そんな中、迷わず言い放たれた肯定に胸が暖かくなる。

「あんたは……どうするん? 何ぞ目的があって旅しとるんやろし、ずっとこの辺りにおるつもりやないんやろ?」

「この後のこと、か。あまり詳しくは決めてないなぁ。長い命だし、焦って突き進むようなものでもないからね」

伝え聞いたところによると、人間(ヒューマン)にとっての十年がエルフにとっては一年以下の体感でしかないという。

ともすれば、マーリャが寿命を迎えても彼は変わらぬ姿であり続けるのかもしれない。

一抹の寂しさと共に、ある小さな思いが芽生えた。

春を匂わす紫色の双眸を、もう少しだけ見ていたいのだ。

「……迷惑やったら、すぐ断ってええ話なんやけど……」

控えめな前置きの途中で、あえなく鐘の音が鳴る。

眠気など飛んでいたのに目眩のように視界が暗転し、全身の力が抜けていった。

瓦屋根に倒れこむ寸前、病的に白い腕がマーリャを支えた。

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