第22話 レモンとパンの朝
再び目を開けた時、マーリャのそば近くにいたのはセルマだった。ひどく焦った様子で、ベッドに横たわるマーリャを揺り動かしていた。
身を起こす姿をみて、安堵のため息を漏らしている。
「今まで、どこにおったん? 急に居なくなるから心配しとったんよ」
「ごめんね。何や外行きとうなって、ふらふらして……」
口にしながら記憶を辿っていく。
原理もよく理解しないまま宙に浮き、ごく短期間ながら自在に飛んでいた。
普通なら起こりえない非現実的な現象が起きていたのに、自分では違和感を持たなかった。
「それで、あん人に……止められたん」
楽しい気分に浸っていたが見知った顔に勝手な行動を咎められ、やむなく外歩きを中断した。
一連の出来事は頭の中に残っている。しかし、不自然に抜け落ちた部分も少なからずあった。
「誰に言われたと? その人にここまで送って貰ったん?」
セルマの問いかけに対し、マーリャは首を横に振る。
「ジョサイア……やったと思う。けど、自信ないわ。途中で寝てしもたから、どれが本当か分からんの」
背が高く低い声を持ち、マーリャをカーバンクルと呼称するエルフの男。彼以外に該当者がいるとは考えにくいが、そもそもどこまで現実だったのか知れない。
空を飛んで屋根に登ったなどという話よりも、慣れぬ地の気苦労で夢遊病になってしまい一人で外出、親切な誰かをジョサイアと勘違いして引き返し、ベッドまで戻ったーーという人騒がせな話の方が真実味を帯びている。
後者の説明をすると、セルマはその突拍子のなさに少々納得しかねていた。
ジョサイアは公衆浴場(ベイン)までは行動を共にしていたが、まだ男性側の団体部屋に戻ってきていない。
そしてマーリャが居なくなった時間帯、宿屋の出入り口にはダーチェスがいた。
湯あたりのせいか若干の熱が出たといい、宿屋が雇っている用心棒の横で夜風に当たっていたのだ。
誘拐を疑ったセルマとディアンは、まず下へ降りて彼らに会いに行った。
だが二人とも、不審な人物はおろかマーリャすら目撃していなかった。もちろん、ジョサイアも見ていないという。
全て夢か勘違いだったとでもいうのだろうか。
「何にせよ、ずっと起きとったら儀式の時に船を漕いでしまうわ。短い時間でも寝とかんと身体に悪いし、マーちゃんが無事やってんなら、うちはそれでよかよ」
成人間際の少年少女は不可解な空白の時間の真相究明よりも、差し迫った現実的な用件の方を優先した。小さな謎は後でいくらでも検証できる。本人が見つかった以上、優先順位は下がった。
ランプを手にベッドへ向かうセルマを見ながら、マーリャが無意識に自分の肩に触れると寝間着(ナイトウェア)とは違う触感がした。
いつの間にか、タッセルの付いた柔らかく長い肩掛けを巻いていたらしい。
うっすらと幾何学模様が伺えるそれは、少なくとも宿屋が用意したものではなさそうだった。
おぼろげな記憶をたどれば、これは借りものである。身につけたまま朝まで眠るのはためらいがあり、外して枕元に置いた。
マーリャの足の裏がうっすら汚れていることを、夜の闇の中では他人はおろか本人までも気付かなかった。
就寝前の予想通り、怒涛の勢いで父親に起こされるセルマに合わせてマーリャも起床せざるをえなかった。
寝癖を整えて一階へ降りると、円形のテーブル席には既にディアンとジョサイアが座っていた。いつの間にか宿屋に戻ってきていたらしい。
軽い挨拶の後、マーリャはジョサイアに小声で尋ねる。
「よう覚えとらんのやが、昨日、これを借りたとやろか?」
改めてシワなくたたみ直した肩掛けを見せると、ジョサイアは口元を緩ませた。
「なんだか寒そうにしていたからね。役に立ったなら嬉しいよ」
いつ、どこで借り受けたのか言ってはくれなかったが、詳しく掘り下げるほどの時間もない。
手渡してすぐ、マーリャは空いている席に座った。
朝食は薄切りにしたパンの上にバターやジャムを載せて食べるタルティーヌだった。
見た目は簡易だが、麦の風味豊かな匂いとしっかりした食感が味わえてマーリャは満足していた。
村ではスープに浸した粥(かゆ)の状態で小麦を食す機会がとにかく多い。フワスなどの携帯食にはパンを使うが、あれらは具の調達に手間がかかる。普段食べるものではないのだ。
「このお水、黄色いもんが浮いてるけど何かね」
「ちぃと遠いとこで栽培されとる、レモンっちゅう果物や。酸っぱいんで、すり下ろしたり絞ったりして果汁だけ飲む。こういう薄切りで上に乗せてんのは匂い付けのためやけ、無理に噛まんでもええ。中のは蒸留酒(エール)に絞ったレモンと蜂蜜を混ぜたレモネードやな。口がすっきりするで」
セルマの小さな疑問にダーチェスが素早く回答する。酒といってもほとんど酒精はなく、過度に飲みすぎなければ害は少ない。
リジー村でも、井戸から安定した量の飲料水が得られるようになるまでは誰しもが蒸留酒を飲んでいた。
常時飲んでいても、赤ら顔で仕事にならないといった事態にはならなかったらしい。
「どんな味やろね?」
横で解説を聞いたマーリャは興味を抱き、レモネードを一口だけ飲んだ。
酸味の少ない食生活を送ってきたため違和感があるかと思いきや口当たりが優しく、蜂蜜の甘みも手伝って難なく喉に通せる。
味の付いていない普通の水よりはるかに爽やかさがあった。
「吾(わ)はこれ好きやわ。美味しい」
「……ふうん」
ディアンは飲料について興味の薄そうな表情でいたが、マーリャの機嫌が良くなったのをみて自分もちびちびと飲み始める。
人から良いと勧められると、不思議と受け入れやすいものだ。
よく観察すると彼は脂っぽいバターを好かないのか、パンにジャムばかり塗っていた。他の面々は特に好き嫌いなく平均的に食べているため目立ったのだ。
とはいえ声高に正すほど致命的な問題ではない。予定した時刻に教会へ行くべく急いでいるなら尚更、気にされ ない。
レモンの話題がひと段落して以降は、皆、黙々と咀嚼(そしゃく)を続ける口数の少ない食事風景となった。
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