第1話 出会い
東部地方メニル伯領、リジー村。
真昼ながらに薄暗い曇り空の下、少女が村の共用井戸で地下水を汲み上げていた。
少女の名はマーリャ。切りそろえた黒髪は頭巾ですっぽり隠れるほど短く、耳介が他人よりも少し上向きに尖っている。活発な光を宿す双眸は極めて赤みが強かった。
村を横切る川の水は調理や入浴の為の生活用水には向いていない。太い縄が指に食い込むのを耐えて釣瓶を上げきり、清い水を二つの水瓶に移す仕草は慣れた作業を感じさせた。
額ににじんできた汗を服の袖で荒くぬぐうと再び縄を持ち、空になった釣瓶を井戸の中に落とす。
単純な工程を繰り返し、ようやく瓶が満たされた時、手の甲に水滴が当たった。
頭上からぽつぽつと静かな音が降り注いでくる。
雨だ。
「あかんわ!」
めったに降らない雨は多くの恩恵をもたらすが、浴び続ければ当然、風邪をひく。
マーリャは急いで天秤棒を肩にかついだ。左右に物をつるして運ぶための民具で、運搬の難易度を下げてくれる。
目的地は川向こうの粉挽き小屋、その隣にある生家だ。
農作業を中断して家に入る人々を視界の端にとらえつつ、気持ちばかり早足で歩いた。水瓶の重量のみならず、服も濡れていっそう重たくなった。
「何じゃ……?」
村唯一の橋にさしかかったところで、マーリャは向こう岸から渡ってくる者に気付いて足を止める。
すれ違いに通れる程度の幅はあるのだが、相手が見慣れない人物だった。
遠目にも異様に背が高く、ふちに青いラインが入った質の高い祭服を着ている。加えて、頭を覆うクロブークの耳部分が横向きに伸びていた。
村の教会にも神父が暮らしているが、彼とは似ても似つかない姿だ。
長身と耳の様子から、精霊の森に住み、ときおり外界にやってくるというエルフではないかという推察が浮かぶ。実際に見たことはないが、商人などから噂話が流れてくるのだ。
亜人種の聖職者だとして、いったい何をしに来たのだろう。
興味を惹かれたマーリャは天秤棒を降ろし、橋を渡り終えた祭服の男を呼び止めた。
「あんた、神父か? 生憎やけど、ここにはもう人がおるよ」
男はロザリオと類似した円形のペンダントに触れながら、緩慢な動きでマーリャを見下ろしてくる。
目尻の長いタレ目は虹彩が淡い紫色をしていて、春に咲くリラを彷彿とさせた。
近くに寄れば寄るほど身長差は際立ち、マーリャの頭頂さえ男の肩に届いていない。
「祈りに来たんだ。ここが一番向いているから」
威圧を与える体躯に反して口角を上げた笑みは穏やかで、独特の柔らかい雰囲気があった。
初めて会ったはずなのに、どこか懐かしさすら漂う。
「巡礼者かね? せやけどここ、聖遺物やらは無いし、聖地って訳でもなかとやで」
宗教にせよ魔術にせよ、厳重な取り扱いが必要な品は領主メニル伯のお膝元、地方都市アンギナムに集められる。
都市への足がかりに村へ寄る巡礼者はたまにいるが、農村が目当ての者など今までいなかった。
けれど男は発言を訂正せず、むしろ当然のように頷いてみせる。
「個人的な用みたいなものさ。結構、長いこと旅をしてきた。ここの教会に挨拶に行くつもりだったけど、せっかくだから手伝うよ」
言うが早いか泥と化した地面に膝を折り、天秤棒を肩に乗せて立ち上がった。
少女の身の丈に合わせた短めの縄がぶらんと揺れて、振り子のごとく背の方向へまっすぐに引っ張る。
「あっ」
べちゃ、という泥の音と水瓶の落ちる鈍い音が同時にした。
マーリャの革靴にも泥が跳ねてきたが、それどころではなかった。エルフの男は、二つの水瓶と共に真後ろへ倒れてしまったのだ。
水瓶は運良く割れなかったものの、二つとも横倒しで水を吐いている。純白の祭服の背面も確実に汚れているだろう。
頭のクロブークがずれて地面に転がり、編み込まれた金髪まで泥まみれだ。全長を考えると異様な長さだが、それを指摘する暇もない。
マーリャがあっけにとられて動き出せずにいると、男はおもむろに半身を起こしてカラになった水瓶を立たせた。
手で亀裂が入っていないことを確かめ、申し訳なさそうに太い眉を下げる。
「ごめんね、君の仕事台無しにしちゃった。これ、大事な水だったんでしょ?」
彼の言う通り、マーリャは水を失った。男が手助けしようと言い出さなければそうはならなかったに違いない。
しかし、泥だらけになった事実を無視して人の心配をしている様など見るのは初めてで、怒る気が沸かなかった。
逆に、ふつふつと笑いが起きてくる。
相手の為に頑張ろうとしたのだから、という子供への対応めいた思いも芽生えた。
「また汲めばええよ。それよりも、早う教会に行き。神父さまが替えの服やら用意してくれはる」
マーリャが差し出した手を男はどこかありがたそうに取り、立ち上がる。降りしきる雨によって、多少は汚れが落ちていくようだった。
教会の位置を教えるだけでなく、ついていこうかと提案したがそれには首を横に振られた。
「一人で行けるよ。またね、カーバンクル」
泥まみれのまま愛想よく笑い、手を振って立ち去っていく。
名乗っていないのに意図の分からないあだ名を付けられて、マーリャは面白くも複雑な気分に陥った。
それが、その男との出会いだった。
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