君へ捧ぐ献身

坂本雅

プロローグ

世界の平和や破滅を願うほど、世界について知らなかった。

それに準じる、大それた願いもなかった。

お腹が空かない程度の食べ物が欲しい。

乾かずに済む量の水が欲しい。

暑さをしのぎ、寒さにもこごえない住処が欲しい。

対話できる隣人が欲しい。

つまりはーー居場所を得て、ありふれた幸せを享受できれば満足だった。

その権利が自分にあると、信じて疑わなかった。




竜は天を仰ぎ、怒りを示すように吼えた。

咆哮の余波で神々の姿を映したステンドグラスが粉々に砕かれ、壁や天井から降り注ぐ。

悲鳴をあげて逃げ惑う人々によってなぎ倒されたロウソクがカーテンや絨毯に引火し、教会の大広間を火の海に変えていく。

血と焼け焦げる臭いが充満するその空間から一刻も早く逃げ出そうと、出入り口である大扉に人の山が築かれる中、司祭服をまとった長身の男だけは動かなかった。

いかにも竜と対峙するような位置取りでいながら、彼は戦棍はおろか魔術書の類いも持たずに目の前の巨体を見上げていた。

切れ長の目が細められ、口元もほころび、不自然なほどに優しい微笑みをたたえている。

「おめでとう」

祝福を聞いた竜は鱗の揃った長い首を男の方に向けた。

前脚のわずかな動きだけで大理石の床がひび割れる。

「見上げんと顔が分からんかったのに、今はあんたが小そう見える」

方言の混じった高い声は、牙の生え揃う竜のあぎとから発せられた。

先端に鋭い突起のついた尻尾を揺らし、コウモリめいた皮膜の翼を背伸びするように広げて羽ばたき始める。

地獄と化しつつあるここから飛び立とうとしているのだろう。

風圧によって炎はわずかばかり弱まり、男は足をもつれさせて片膝をついた。薄手の白いベールの下から絹糸めいた髪が覗く。

床に手をつきながらも、その顔から笑みが消えることはない。

「自分は竜の餌にならんて思うとるんか?」

竜は激しい歯ぎしりの後、男の真上で口を開いた。


あまりにも長い間、騙されていたのだ。

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