青空

夏笛 菊紗

青空

「結局の所」

肌の色が透けて見える程薄いタンクトップを着たランテンは、そう切り出した。無防備に晒された腕は仄かに赤く、照りつける太陽の光を絶えず吸い込んでいた。

「こんな社会どうしようもないのさ。だったら好きなことだけした方がいいだろ」

ランテンは体を少し僕の方に向けながら、横を歩いていた。顔にはどこか悪戯っぽい表情を浮かべ、溢れんばかりの自信を湛えていた。

「俺は何でもするぜ」

そう言ってランテンは僕の顔を覗き込んだが、僕が表情を変えずに真っ直ぐ前を向いているのを見ると、そのまま納得したように自分で頷いた。僕が着ていた黒い学ランは熱を蓄え、その不快な熱気は騒々しい蝉の鳴き声と相俟って、僕を包む。

 そんな穏やかな日だった。いや、その日は記憶となって、僕の心の表面に穏やかに浮かんでいる。


 ランテンは他の子供とは幾らか違っていた。もっとも彼は、個性が鈍っているだけで本当はみんな違っている、と言っていたが。ランテンは滅多に学校に来ず、来たとしても直ぐに追い返された。何故なら教室に顔を出す度に髪型が変わり、授業など受けずに本を読むか瞑想するかしていたからだ。大抵奇抜な髪型だったので、教師に見つかれば当然家に戻された。授業中話を聞かず、給食になっても目を閉じて手で複雑な形を作りあぐらをかいているランテンは担任に早速呆れられた。そして給食を戻し、自分で持ってきたお弁当を手で無作法に食べるのが常だったランテンは、集団から浮き、疎外された。しかし彼は、孤立する自分を望んでいたようにも見えた。

彼に近寄る物好きはいたにしても、ランテンは話しかけられるや否やそいつを殴った。そいつの顔を鮮やかな色の血で丁寧に塗るようにランテンは何度も殴り、結局そいつは病院に送られ、ランテンは停学になった。それからというものランテンが学校に来る頻度は減り、一ヶ月に一回来ればいいものだった。

 そんな彼が何故僕に話しかけたのかは分からない。僕が友達と帰っている途中、停学中のランテンに鉢合わせた。僕たちの帰路にはランテンの家があったため、それ自体はなんということもなかったのだが、家の塀に放尿していたランテンは、僕たちの姿を横目で確認すると、ズボンを上げながら走ってきた。僕はその時のランテンの嬉しそうな表情を今でも思い出すことが出来る。僕の横に並んでいた友達は、硬直したまま真っ赤な血の色を思い起こしていたに違いない。ともかくランテンは僕の目の前で立ち止まり、暫くズボンの位置を直していたが、その間にもずっと僕の目を見つめていた。ランテンの水晶のように透き通った目の真ん中にある何処までも黒い塊は、僕を貫き、放すことがなかった。僕は目を離したら自分が消えてしまうような気がして、躍起になってにらみ返した。恐らくかなり長い間僕らは睨み合っていただろう。その内隣の二人が正気に戻ったのか、叫び、走り出した。暑さに耐えきれず揺らぐ空気にその叫び声は広がり、満足したようにランテンは口を開いた。

「お前、素質あるぞ」

そう言ってランテンは可笑しそうににやつき、そのまま家の中に戻っていった。生い茂る草木の緑が塀の中で窮屈そうにする中、ランテンの黄色い尿はそれらの間を、嘲笑うかのように流れ、日向の方へと伸びていった。

 それからは、僕が彼の家の近くを通る度に出くわし、ランテンは僕の横についてきた。そして何かよく分からない事を呟き、溢れかえったその言葉は、知らず知らずの内に僕の中に溜まっていったのだと思う。それだから僕がランテンを思い出すときは必ず、身が竦む冬の日に、夏の暑さが呼び起こされた時のような、もどかしい気持ちになる。

結局それまで僕の横を歩いていた二人の友達は、ランテンの影を見ると逃げ出し、僕とも疎遠になっていった。あんなつまらない奴らと付き合う必要はないさ、奴等は集団の餌食だ、とランテンは耳にこびりつくような声で僕に囁いた。


「この世界に区別を与えてるのは俺たち人間さ。言葉を使って何もかも分けてるんだ。でもさ、マリーゴールドと彼岸花に一体何の違いがあるって言うんだい。どっちも同じ物体だろ。そう言う区別が、世界を歪ませる原因になってると俺は思うんだ」

真面目な顔をしてそう言うランテンは、彼がいる部屋の異様な景色にすんなり溶け込んでいた。

「でも僕は彼岸花みたいな女の子の方が好きだし、男よりも女の方が好きだよ」

僕がそう言うと、ランテンは愉快そうに笑った。ランテンは笑うと目が三日月のようになり、口角は深い溝を作る。それは彼の滑らかで白い肌に合っていた。

「そりゃあそうだ。でも、それじゃあ駄目なんだよ」

ランテンは途端に意味ありげに目を尖らせ、僕の方を睨んだ。彼が睨んでいるのは僕ではなく、もっと遠いところだということは、なんとなく僕にも分かるようになっていた。その日は彼が無理矢理僕を家に連れ込んだのだ。とはいっても、僕も少しばかり好奇心が湧き、悪い気はしなかった。

 ランテンの家は平均よりも上の綺麗な家で、屋内も整理され、夏の日差しが差し込むのを寛容に受け入れていた。しかしランテンの部屋は違った。彼の部屋は二階の奥にあり、入り口の扉には黒いスプレーで大きく、「入るな」と吹き付けられていた。そして中に入ると壁中に、天井にも、隙間なく絵が貼られていて、その全てが、様々な色が複雑に絡み合ったような抽象画だった。空気は淀み、遙か彼方の匂いが塵芥と供に沈んでいるようだった。時が止まっている、と僕は直感的に感じた。

「整理できないんだ。したくないんじゃなくて、しちゃいけない気がするんだよな」

ランテンの言う通り、部屋の中にはゴミやら本やら服やらが散乱していて、床が見えなかった。落ちている本の一つを手に取ってみると、表紙に「東洋哲学」と書いてあった。そしてはみ出た付箋には、「あらゆるものは流転し、止め処ない。掴むのが少しでも遅れると、変わってしまう」と思いのほか綺麗な字で書いてあった。

 それからランテンは瞑想を初め、僕はうたた寝をした。あそこまで静かな眠りを経験したのは初めてで、それからも訪れることはなかった。僕が目を覚ますとランテンはいなくなっていた。僕は物事の見分けがつかぬまま通学鞄を持ち、彼の家を出た。外にもランテンはおらず、太陽はまだ赫々と光り、茹だるような熱気を作り出して僕を焦らした。何百年もの間寝ていたかのような心持ちで僕は家に歩き出した。


 ランテンと知り合ってから初めの頃は、僕は間違いなく彼に惹かれていた。どこか別の世界に触れるような好奇心が、僕に有り余るほどの力を享受している感覚を覚えた。そして学校でランテンの武勇伝を聞く度に、心が躍り、得意になった。ランテンは高い鉄塔に上り、警察に見つかっても逃げ切った。ランテンは黒人の彼女を作り、花火大会で一緒にいた。ランテンは電車の上に登り、そのまま海がある街まで寝そべっていた。ランテンは投資をして、大金を稼いだ。

 ランテンにまつわる話だけでも、中学生だった僕には新鮮で、自分も何か出来そうな気がしたのだった。


 しかし僕はその内億劫になってしまった。学校から帰る度に、肌の露出が甚だしいタンクトップを着たランテンが、訳の分からないことを際限なく語ることに、僕はもううんざりしたのだ。ランテンの話が理解できないのは自分の拙さだと、そう思うことも難しくなり、ランテンに対する煩わしさのみが残るようになった。そして夏の暑さが増すに連れ、僕のランテンに対する鬱然とした気持ちも強まっていき、地球が燃え尽きてしまうような夏至の日に、僕はたまらず帰り道を変えてしまったのだった。


 それからは余り覚えていない。ランテンと会わない日々は、あまりにも速く、僕は一日についていくのに必死だった。そして僕が地面を踏みしめる度に地球は回り、夏は過ぎ、全てを消し去る冬が訪れ、そしてまた生温い風が吹き始めた。それまで一度もランテンが学校に来ることはなく、卒業式に彼の椅子は空いていた。

 結局僕は時の流れに乗るのに精一杯で、立ち止まって深呼吸をする勇気がなかったのだ。そしてそのまま僕は気付かぬうちに大人になり、死に、朽ち果てるはずだった。


 僕は東京の高校に合格した。そして東京で暮らすことになった。東京に行く前日の夜、僕は風呂上がりの火照った体に厚いコートを着て、家の外に出た。

 家の庭には所々雑草が生え始め、微かに温かい風が僕の湿った髪の毛をなびかせていた。空には綺麗な形の三日月が浮かび、無数の星が、忘れ去られた自分達を悲しむように輝いていた。そして空は当たり前のように黒く、黙り込んでいた。

 僕が視線を下ろすと、果たしてそこにはランテンがいた。彼は暗い中でも、その力強い笑顔を崩さずにいた。僕はその時、怖気や猜疑は感じず、ただ彼が来ることを悟っていたのかも知れない。

 風が止んだ。

「お前、明日東京に行くのか」

何故それを知っているのか、不思議に思わなくはなかったが、この静かな時間の中で、僕は何か他に言うべきことがあると感じた。

「ああ」

しかし僕はその言うべきことがなんなのか分からず、曖昧な返事しか返せなかった 。

「俺は待ってるよ」

ランテンはそう言って、無造作にちぎられた紙切れを差し出してきた。僕はそれをコートのポケットに押し込んだ。

「信じ込むなよ、当たり前だと思うことが、違うかも知れない」

ランテンはそう言って険しい顔になった。月の光に照らされた彼の顔は、獣のような勇気と、変わることない自信を兼ね備えていた。

「自分を見失うなよ」

ランテンは怒ったように僕に言い放った。

 その時強い光と供に空が青く澄んでいった。僕とランテンは同時に顔を上げる。信念を湛えた青空が、夜を支配していた。星々は青空に掻き消され、三日月のみが、朧気に、しがみついていた。空は夜でも青かった。ただ闇に邪魔されていただけのことだったのだ。

 空は直ぐに暗闇へと戻ったが、僕とランテンはそれに気付かず、時に抗うかのように空の奥を凝視していた。僕達が視線を下ろしてお互いを見たとき、確かな力が、二人の間を行き交うのを感じた。だから僕は触れてもいないのに、ランテンの丸裸にされた腕から漲る熱を感じることが出来た。

「それじゃあ」

ランテンはそう言って歩き出した。しかし直ぐに立ち止まってしまった。回り込んで見ると、彼の視線の先には蝉がいた。そしてそれは生きていない、更に言うと抜け殻だった。その生き物の残骸は、秋を越え、冬をやり過ごし、そしてその頼りない焦げ茶色の足の爪で、始まりの季節までしがみついていたのだった。生きていた頃の変わらぬ意志が、それをここまで奇跡的に持ち堪えさせたように思えた。するとランテンは蝉の抜け殻を優しく摘まみ、口の中に放り入れた。僕が何か言うまもなく、彼はそれを噛みだした。ランテンの咀嚼音だけが、再度沈黙していた夜の中に、響いていた。咀嚼音の終わる気配がせず、僕は不安になってランテンの顔を覗き込んだ。するとランテンの潤んだ目は、月の淡い光を反射して光っていた。彼は顎を力強く噛みながら、目から溢れる涙を抑えずにいた。涙は雫となって、地面の土をえぐり、涙が口の中に垂れ込んでも、彼は噛み続けた。それは変わりゆく時の中で自己を保とうとする孤独な命を悼んでいるようにも見えた。ようやく噛み終えても、目から漏れる水滴は止まることはなかった。僕は初めてランテンが泣くところを見た。

「もういいんだ」

ランテンは消え入るような声で呟いた。

「もういいんだ」

彼の水滴のような声は夜の静けさに負け、生温い春風にのって遠くへ行ってしまった。そしてランテンは不意に駆け出し、姿を消してしまった。

生温い風だけが、僕の体を抱き締めた。


 夜空が青くなったのは近くの発電所の出火のせいだった。僕は翌朝にテレビでそれを知った。


 僕は東京の高校に入学した。そして大学生になった。そして社会人になった。僕が時を遅く感じられたのはあの夜が最後だった。時はいつまでも変わらず速かったが、重さだけは次第に加わり、徐々に黒く濁っていった。そして僕は濁ったその液体の中で足掻くこともなく沈んでいた。あの焼けるような夏の青空、闇の中に垣間見れた青空を、僕はもう見ることはなかった。ランテンがあの日僕に渡したのは紙には、電話番号が書き殴られていた。僕は高校に入学した当日に電話した。僕達はとりとめもない誰もがしそうな話を五分ほどし、手応えのないまま電話を切った。声だけのランテンは、弱々しく、生きているようには思えなかった。実体を持たないランテンはひどく退屈に思えた。それから僕はもう電話をかけることはなく、かかることもなかった。

 

その内僕は就職し、仕事にもすぐ慣れた。僕はすんなりと社会の中に溶け込んだ。そのような大きな集団の中で僕が孤独を感じることは決してなかった。そして皮肉なことに、漠然とした未来が単調に伸びている今になって、時はやっと遅くなっていった。しかし青空がなければ、緩やかな時間は意味を持つはずもなかった。僕は濁った鈍い時を、他人事のような憂鬱を忍ばせながら進むしかなかった。 

耐えきれなくなった僕は、発作のように部屋を荒らし、やっとのことでランテンの電話番号を探し出した。紙切れはすり減り、より紙切れらしくなっていた。僕はランテンに電話を掛けた。期待や希望が、僕の体の奥底からふつふつと湧き上がるのを僕は感じていた。しかし何度掛けても電話は機械的な音を繰り返すだけで、僕は次第に暗澹たる気持ちになり、携帯を壁に投げつけた。携帯も壁も傷の一つもつかなかった。それは僕をより苛立たせた。


 ランテンは何処に行ってしまったのだろう。彼は生きているのだろうか。彼は僕の心に触れ、そして去って行ってしまった。

 次にランテンに会ったとき、僕はきっと変われるだろう。沈んでいく時間を空に浮かばすことが出来るだろう。彼の勇気を、自信を、孤独を、本当の意味で理解し、新しい世界に僕は踏み出すだろう。

 しかし彼はどこかに行ってしまった。もしくはもう見ることの出来ない青空と供に、遠い彼方へ漂っていってしまったのかも知れない。

 僕はランテンに会って、今度こそ変わる。しかし際限なく続く灰色の空に、ランテンの姿はない。結局のところ、そういうことだ。

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青空 夏笛 菊紗 @karateka

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