日曜日。

眞壁 暁大

第1話

 ヒトが紙と呼ぶものがある。

「『フミダイドコナノ』と『ウザカワアカネ』を軸に『ジンセイタノシイ』を絡めるか……」

 呪文のように呟きながら男が今熱心に見ているのがそれである。


 人がペンと呼ぶものがある。

 男が呟きながら、下唇と顎の間のくぼみに押し付けている棒がそれだ。


 そして、ヒトが猫と呼ぶものがある。

「そこに乗るんじゃねーよ」

 男は、俺が前脚を置いていた下の「紙」を引っ張り、むりやり奪う。まどろみかけていたのが無理に起こされて急に視界がはっきりする。

「なんで猫はすぐ新聞に乗ろうとするかね……?」

 今まで地べたに広げていた「紙」の両端をつまみ上げた男は、手にしていた「ペン」を放り出す。


 無情な男だ。ヒトなのだから仕方ないが、それにしても無情である。

 俺は一つあくびをすると、地べたに座り込んでいる男の膝に右前脚を乗せ「にゃあ」と鳴く。察しの悪いヒトでもこれで分かるだろう。それは俺のものだ、いまならまだ許してやるのでよこせ。

 「紙」をずらした男は、無言で見下ろしてくる。奇天烈な風采であった。過去において俺の先祖が「のっぺりとしている」と評した容貌だが、この男の場合、その「のっぺりとしている」容貌とはいったい、どこからどこまでを指すのだろうか。

 しいて言えば、頭頂部から首の後ろまで、のっぺりしていない部分が見当たらない。

 ――のであるから、首から上まるごとのっぺりとしている、というべきなのだろうか。いまいち分からない。しかし他のヒトにはヒトが「生え際」と呼ぶものを境目に体毛が植わっているのだから、この男が特別に奇天烈なのであろう。首の後ろに俺の腹肉のようにたっぷりとした皮と肉を具えているのも他のヒトとはいささか違っている。きっとヒトから見ても、この男は奇天烈な面相であるに違いない。


 男は「紙」を畳むと立ち上がった。男の膝に置いていた前脚が空を切る。そして部屋の角においてある四つ脚の椅子に座り込み、ふたたび「紙」を開く。

 俺は男の無情さ加減にほとほとあきれ返ってしまった。

 ヒトはほとんど我々の意図を解しないが、それにしてもこの男ほど情けないヒトはそうはおるまい。

 俺は男の座る椅子に近づき、その足に擦り寄り最大限の譲歩を示す。よくぞこれで2足歩行などという不合理な生活を送れるものだ、と思うほど締まりのない足。あるいは送り切れていないからなのか、このところ重さに耐えかねて縮んでいる気がする。いずれ胴体で歩くようになるのかもしれない。


 頭上からカササッ、と音がする。男はまだ「紙」を持ったままだ。音のした方向に振り返れば、「紙」が一枚、地べたに落ちていた。

 ふむ。

 まるきり情を解しないわけでもないようだが、これでは足りぬ。とはいえ今はこれが精いっぱいかもしれない。

 これ以上の濃密なコミュニケーションを期待するには、男には紳士の器が足りなすぎる。これを教育しなおすのはさすがに骨だ。

 今日のところはこれで許してやろう。


 俺は男の傍から離れて、「紙」の上に寝そべる。

 これだ。

 これでなくては。

 地べたの木の感触も悪くないが、やはりこの「紙」は別格である。

 俺の食堂、俺の便所にも敷かれているこの「紙」こそが、俺の生活空間を彩るマストアイテム。

 地べたのように冷たくもなく、ヒトの座る毛衣の死骸のように不自然にぬくくもない。最適な寝心地。

 寝返りを打つたびにクシャっと形を変えるのも良い。男の理不尽な私刑により奪われた爪先でも切り裂くことのできる柔らかさも良い。爪を奪われたときはヒトというものの持つ根源的な邪悪と暴虐に悲嘆にくれるほかなかったが、また伸び始めた爪が「紙」に引っかかるようになったのは僥倖である。


 この「紙」でなくてはいけない。同じような「紙」であっても、てかてかとした奴はよろしくない。

 かつて、ヒトの女が大写しに描かれている「紙」の上で寝たことがあるが、どうも居心地がよくなかった。毛の先が滑るようで落ち着かない。伸びかけの爪の先だって引っかからない。「紙」であるにもかかわらず、いつものそれのように引っ掛けないので意地になって何度も削っていればどうにか爪が立ったが、そのあと男に折檻されてしまった。

 ヒトというのは理不尽で、自分が言葉ではわからないから、俺も言葉で説諭することはできないと思い込んでいるらしい。

 なにごとか喚きながら俺の首をつまみ上げると、そのまま振りかぶって投げ出しやがった。

 空中でくるくる目が回りかけたのも数瞬、無事に着地を決められたのは俺ならではだが、だからと言ってこうした横暴を許しておけるものではない。抗議の声を上げると男はため息をついて、例の縮みかけの足で俺の横腹を蹴りおった。蹴られながら抗議の声を上げるものの、俺はそのまま部屋から閉め出され、以来その部屋には入っていない。

 情けない。哀れみがつらい。男はなんと無慈悲で冷酷なのか。あれがふだん「万物の霊長」などと僭称して居るヒトの振舞いとしてあってよいものなのか。いずれ俺がトラに成長した暁には、なんとしても折檻してやらねばならぬ。もちろんヒトではないのだから、こんこんと説諭する腹積もりではあるが、それでもけじめはつけておかねばならぬから、軽く撫でてやるくらいのことはしても良かろう。いまからその日が楽しみである。


 不快な思い出が蘇りもしたが、この「紙」の寝心地はやはり良い。

 だが、二度三度寝返り、もっともよい睡眠姿勢を模索している俺の目の端に「ペン」が留まる。あれも、良いものだ。

 戯れに何度か殴ってやるとたいへん面白い反応を示す。尻から黒糞やら赤糞をひり出す癖があるようで、その癖を用いてヒトはなにやら書きつけに利用している。俺にはさっぱり理解できないが、男も、今俺が寝ている「紙」の模様とよく似た妙なのたくりをいくつも書きつけている。

 ヒトはどのようにしてその「ペン」から糞を絞り出しておるのかは今も謎である。何度か人を真似て「ペン」の細い胴を握りしめてみたことはあるものの、いっかなひり出そうとはせぬ。一度だけ、数滴ほど漏らしたことはあるがそれはどういう仕儀でそうできたのかは思い出せない。ヒトのやっているように長々と軟便を絞り出すなどという業は、ついぞ成功したことがない。両脚でもってもまったく固い「ペン」の胴はびくともせぬ。ヒトは膂力においては現在の俺を圧倒するというのは、遺憾ながら認めざるを得ない。


 さておき、「ペン」は便をひり出さずとも面白いものである。

「ペン」にはいくつか種類があるのを俺は知っている。もっともよい「ペン」は胴の一部、すぼまった尻の上の腰のあたりが色が変わって柔らかくなっているものだ。味は悪いが、これは噛めば噛むほど歯ごたえが変わるので、他の胴を噛むより面白い。没頭しすぎると腰がちぎれてしまうが、それもまた一興。「ペン」はなかなか噛み砕けるものではないから、一種の達成感、爽快感がある。

 これに比べると面白みがないのが腰のあたりに皺がいくつも走っているだけの「ペン」だ。

 透き通った体色は胴の色と変わらない。歯ごたえも同じく。舐めるとざらつきが他の胴と違うのだが、味があるわけでもない、舐めたところでさして面白みもない。噛むのに没頭しすぎたあと、我に返ると徒労感だけがこみ上げるので良い遊び相手ではない。それでも転がすとすぼまった尻を中心にくるくると踊るのでまだ可愛げがある。

 可愛げも面白みもないのは、尻に筒を被った「ペン」であろう。腰が柔らかい奴も、皺だらけの腰の奴も、どいつも等しく尻を覆った「ペン」は面白みがない。殴っても滑るだけだ。暇でしょうもないときにたわむれに殴ってみたりもするが、せいぜいよくて一回転。すぐに止まる。尻を覆った筒に生えている尻尾が邪魔で、上手く転がらない。糞をひり出すのを予防しているのだから優等生ではあるのだろうが、それ故に人物がかたい。相手をしていてもつまらない。


 さいわい、今日の「ペン」はそうではなかった。

 透き通った体色の真ん中に、赤い髄液がまっすぐと貫いている。小魚とよく似ている。おそらく「ペン」は魚の仲間である。

 腰回りは髄液と同じ色で柔らかい。俺が一番このみの奴だ。このまま寝ているのはもったいない。そもそも「紙」一枚では物足りない。「ペン」と遊んでいた方がまだ面白い。

 右前脚で殴り、左前脚で撫で、両腕両脚で羽交い絞めにして胴を食む。髄液や腰と同じ色の頭部は固い。これは頭蓋骨であるから当然。それでもやや胴よりも歯応えが緩く感じられるのは、進化の不思議のなせる業であろう。

 頭蓋骨ならもれなく、身体の他の部位よりも固いはず、というのは浅薄な思い込みに過ぎないのだ。

 俺は「ペン」の柔らかく赤い腰を噛み締めながら、いずれこの「ペン」の全生態を解き明かすことを生涯の課題としたい、そう思った。




「あれ、ペンどこ行った?」

 椅子に腰かけて新聞を睨んでいた男が呟く。新聞を畳むときょろきょろとあたりを見し、床でペンを加えてグネグネ動いている猫を発見する。

 見るからに必死の形相でペンのゴムを何度も咥えこんでいる猫に少し溜息をつくと、抱えていたペンを取る。取られた猫はしばらく呆然としているようだったが、男の関心はすでに猫からは離れていた。

 猫の唾液にまみれたペンをズボンの裾にこすりつけて拭ったあと、新聞紙に何ごとか書きつける。足元では猫がうるさくなーなーと鳴いている。

 新聞から書き込みのある頁だけ抜いて、残りを雑に丸めて部屋の隅に投げた。猫まっしぐら。


 アイツは気楽でいいよな、――男はそう思いながら部屋を出た。

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日曜日。 眞壁 暁大 @afumai

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