【KAC4】願いを叶えるのに

霧乃

必要なもの。

必要なもの。


まずは紙。

余計な情報が入るのは好ましくないため、無地なものが良い。


次にペン。

こちらは書ければなんでもよい。


そしてあとひとつ必要なもの。それは…。


***


「夏菜子さん…本当にやるの?」


 丈の長い、黒のセーラー服の、大人しそうな少女が不安そうに声を上げる。

 それを聞いたのは、同じセーラー服に身を包む勝気な表情の少女…夏菜子だった。


「…当たり前でしょ。今更引き下がれないもの…」

「でもでも…大変なことにならない?」

「不由美…無理についてこなくていいのよ? でも私はやるから」

「ええー…」


 後戻りなんてできない。

 そう決意を固め、夏菜子は暗闇に沈む、木製の学園の廊下を見据えた。灯りは手元にある手提げのランタンのみ。その灯りも心許無く、三歩先でも何も見えない。

 薄い硝子窓が風に煽られ、ばりばりと音を立てる。その音に不由美はびくりと体を震わせた。


 彼女たちがいるのは、数年前に設立された女子学院。

 木製で、モダンな建築が美しいと評判な、新しい学院。そこで少女たちは座学はもとより、料理、裁縫…つまるところ花嫁修行に励んでいた。通うのは良家の子女がほとんどで、いずれ嫁ぎ先が決まるまでの学び舎。

 つかの間の青春を彼女たちは謳歌していた。


 そんな新しいはずの学院に、実しやかに囁かれている不釣り合いな噂がある。



「あった…ここよ」


 周りには目もくれず、一目散に向かったのは長い渡り廊下の一番端。そこで現れたのは、モダンでお洒落な建物には不釣り合いな鉄製の古びた扉。

 錆びついていて、そこだけ異質な雰囲気が漂っている。しっかりと重たい閂と錠がかけられており、誰も寄せ付けない雰囲気が漂っている。


「この先、先生が入っちゃダメだって言ってる場所だよね…?」

「そう。でもこの先にあるのは昔ながらの井戸だけで、別になんのことはないって言っていたわ。たまたま先生が入っていくのを見たひとたちが言っていたもの」

「…夏菜子さんはそれでも信じてるの? あの噂…」

「信じるしかないもの…私にはこれしか方法がない」


 さっさと開けるの手伝って!と夏菜子は不由美にぴしゃりと言った。

 鍵はこっそり教師の部屋から拝借している。そもそもこんな、なんにもない扉に誰も関心を向けるはずがないのだ。

 …それでも。


 二人で息を合わせ、閂を開けて、そっと地面に置く。


「じゃあ私行くから。絶対戻ってくるから。私、まだ学園にいたいの」


 夏菜子は不由美を少しだけ見て、そうして踵を返す。

 鉄製の扉を両手でぐっと押しこむと、ぎぎぎと鈍い音を発しながらゆっくりと開いていく。予想外に重かったそれの隙間を滑るように抜けて、夏菜子は走り出した。


「夏菜子さん…」


 不由美はただただ心配げに鉄の扉を見つめるばかりだった。



***


 そこは洞窟のような場所で、整備されておらず外の光も一切入って来ない。石のひんやりした空気が頬を掠め、湿った泥が足を奪う。

 生き物の気配がなにもない、静かすぎる暗闇に夏菜子は息を呑む。

 しかしすぐにランタンを掲げ、意を決して歩き出す。

 べちゃべちゃと泥を踏みしめる足音だけが、自分の導になる。


 やがて見えてきたのは噂通りの古びた井戸だった。蔦が這い、取り囲む岩がすっかり苔むした円形の井戸には蓋はされておらず、ただ暗闇に存在していた。

 夏菜子はぎゅっと唇を噛み、ランタンを掲げそれを覗き込む。しかし奥は何も見えず、水の流れも聞こえなかった。カエルの一匹もいないらしい。

 あまりに純粋な暗闇に、自分がどこにいるのか、左右前後、起きてるのか眠っているのか、生きてるのか死んでいるのか……見失いそうになる。

 顔を上げてランタンを地面に置き、夏菜子はスカートのポケットを探る。


 …必要なもの。

まずは紙。白い紙。そしてペン。書ければなんでも良い。

そして。


 夏菜子はポケットから取り出したノートの切れ端、貰った万年筆を握りしめる。

 しばらくそうしていたが、やがておもむろに万年筆を手に取り、自らの左手に突き刺した。


「いった…」


 万年筆の先が皮膚を突き破り、血が滲む。

夏菜子は痛みに顔を歪めるも、そのまま血のついた万年筆を紙に滑らせた。


『まだ学院に居たいです』


 単純な、簡潔な願い事だった。

 夏菜子は涙目になりながら書き留める。


『ねえ夏菜子さん、知ってる?』

『なにが?波留子さん』

『私、先日卒業された方に聞いたのだけど、この学園にはふるうい井戸が遺されるのだって。どうも渡り廊下の先の古臭い鉄扉がそうだって誰かが見たのだそうだけど』

『波留子さんはそんなものに興味があるの?』

『やだ、ないわ!でもその井戸に願い事を書いた紙を投げ入れると、叶うって、そういう噂なのよぅ』


 気にならない?と裁縫の授業の合間に波留子が語っていた噂話。

必要なものは紙とペン。…そして自身の血。

 波留子は温和な顔をしながら怖いことを明るく言う。夏菜子はそんな呪いじみた噂、一蹴していた。


 でも今は。信じたい。信じるしかない。

夏菜子は最近決まった婚約者から貰った万年筆を握りしめた。

学園の生活を愛していると語った夏菜子に送られたものだった。

 婚約は父が勝手に決め進めたことだが、そもそもこの学園に入れられたのもいずれはそうなる予定があってのことだ。夏菜子だっていずれはそうなると思っていた。

でも、予想以上に予想外に、この学園の生活が楽しかった。だから続けたい。あともう少しだけ。


 夏菜子は縋るように紙を井戸に投げ入れた。

 しばらくじっとしていたが、何も音がしないので、どこかに引っかかったのかと夏菜子はランタンを掲げ覗き見た。

 ぽちゃん…

細やかな水音が聞こえた気がした。


「…なにか起こるわけないか…」


そう踵を返そうとした刹那、井戸の奥からなにか聞こえた気がした。


ありがとう

いっしょにいこう


「え?」


 ガチャン!とランタンが勢いよく地面に落ち、火が溢れる。

湿気っていたはずの洞窟内に火が勢いよく溢れ、燃えていく。


抗えない炎に夏菜子はその場から動けずにいると、だれかに手を引かれた気がした………。







 突然の火災に学院の人々は壮絶としたが、しかし死傷者や被害はなかった。

ただ生徒が一人行方不明になり、古びた扉はさらに頑丈に閉ざされることとなった。

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