不可書紙可書筆不可読文字表想

東藤沢蜜柑

書けない紙と、読めない文字を書くペンと、穴のないドーナツ

「ねえ、これってもしかして宇宙人の贈り物かな?」

 そう言って笑った彼女の顔を、僕は今でも覚えている。


 新卒で入った会社がブラックで、三ヶ月どころか三週間で辞めた。家庭教師の派遣をやっている会社で、とにかく事務作業の効率が壊滅的に悪かった。本社は仙台にあって、東京がむしろ支店扱いなのだけれど、家庭教師として登録している大学生や社会人、それから顧客のデータベースを一応仙台と東京で分けている。分けているにも関わらず東京で検索しても出なかった名前が仙台で見付かる、またはその逆というのはザラで、しかもページのレイアウトが完全に同一なので少し目を離すと果たして自分がどちらのデータベースを開いているのかが分からなくなる。それをわざわざ確認して、更にパスワードを打ち込んでデータベースを切り替え、検索して、見付からなければまたパスワードを打ち込む。データベースを往復している内に一日が終わってしまう。そのシステムの根本的な欠陥を棚に上げ、先輩社員からは毎日のようにいびられた。ねえこれ、あたしなら五分でできるんだけどさ、何でできないの? 仕事覚える気あるか? 入ったばっかでまだ覚えられないっていうのは仕方ないけど、そもそもお前覚える気ないだろ。パワハラ、なんてお洒落なものじゃない。あれは人間が徒党を組んだ時にどれ程ろくでもないことになるかということの証明である、「いびり」だ。法という言語の通じない猿山に一人放り投げられた気分だった。三日で辞めなかったのは、むしろ僕が十分に社会に汚されていることの証明だろう。Mナントカ星から来た宇宙人なら三分で決着をつけるが、僕はと言えばその三分でカップ麺を作るのが精一杯だ。生憎とヒーローでない、いやそれどころか僕は僕の人生の主役すら満足に張れていない。それでも地元に帰りたくはなくて、バイトを転々としながらその日暮らしを続けていたらいつの間にか五年が過ぎていた。そろそろ潮時かも知れないな。東京で五年も暮らせば飽きる。ここに僕が居るべき理由は一つもなくて、だからいつまでだって、それこそ死ぬまで、僕はここに居られる気がした。それを幸福と呼んでもいいし、不幸と呼んでもいい。とにかく、僕にとってはきっと、潮時だった。

「おっすー、岩永。でら久し振りだがね。元気しとった?」

「おす、久し振り。まあそれなりに元気だったよ。そっちは?」

 なんやすっかり東京カブれおったの、と笑う圭吾に釣られて僕も笑った。東京で生まれなくて良かったと思った。東京で生まれていたら、今僕はここに居ない。

「あれ、智じゃん久し振り。こっち戻ってきたの?」

「久し振り。今年の頭に戻ってきた。東京居てもずっとフリーターやるだけだったし」

「そっかー、あ、由美子たち呼んでる。ちょっと行ってくるわ、また後で話そ」

 田辺ももうずっとこっちおるけど、全然東京弁抜け切らん。と、圭吾がこぼす。高校を卒業して以来、今日のこの同窓会まで僕は元3年D組の誰とも会っていなかった。そもそも同窓会の誘いがくるとさえ思っていなかったから、単純に驚いたし、嬉しかった。田辺はじゃあ、もう十年以上ここで暮らしているのか。


「これ、誰かの忘れ物かな」

 落とした消しゴムを拾おうとしたら、一冊のノートとペンを見付けた。

「え、ノートじゃん。ヤバくない?」

 そう言って田辺はページを捲り出す。表紙に名前が書いてないどころか、中はどのページも白紙みたいだった。

「あれ、もしかして新品? ねえ、これ貰っていい? あたし丁度ノート切れそうだったんだ」

「うん、全然」

「やった、ラッキー。ありがと」

「礼を言われても、俺んじゃないし」

「譲ってくれて、ってこと。素直に聞いとけよ」

 そう言って田辺は早速表紙を開いた。

「世界史飽きた。生物やろ」

 田辺は高2の二学期に転校してきた。出身は東京で、親の転勤に伴ってということらしい。僕は英語と政経が得意で現代文が苦手、田辺は数学と現代文が得意で英語が苦手だった。たまたま席が隣になったことから話すようになり、互いの得意分野と苦手分野を補完し合えるということで、試験が近くなるとこうしてファミレスで一緒に勉強するようになった。

「あれ? ねぇこれ、書けないんだけど」

「うそ」

「なんか、シャーペンじゃ無理? ぽい」

「紙質? ボールペンで書いたら」

 うん、と言って田辺はスニーカーみたいなデザインの筆箱のチャックを開け、三色ボールペンと数本のマーカーを取り出す。

「あれ、やっぱ駄目だ」

 ボールペンを三色試した後、水色と黄色のマーカーのキャップを外してペン先を擦り付けてみても、田辺はノートに何の痕跡も残せなかった。

「マジ?」

「うん。なんだこれ、使えねー」

 返す、と言って田辺はノートを僕に押し付け、閉じた世界史のノートを再び開いた。


「智、本当久し振りだね。十年振りくらい?」

 田辺は十年前と、少なくとも外見的にはほとんど変わっていないように見える。いや、単に僕の田辺を見る目が、この十年間変わらなかったというだけのことかも知れない。

「だね。もうそんなになるんだ、卒業してから」

「うん。十年かー、思えば色々あったようで、何もなかったようで」

「田辺は、何でずっとこっちいんの?」

「何でって、別に理由はないけど、特に行きたいとこもないし、友達もいるし。そっちこそ何で戻ってきたの?」

「ま、似たようなもんかな。別に東京にいる理由ないし、友達もいなかったし」

「うわー、辛気くさ! とりあえず飲めよ」

 いただきます、と言って僕は田辺の持つビール瓶に向けてグラスを傾ける。十年。そりゃ、歳取る訳だよな。

「あ、そう言えばさ、あれ覚えてる? 何か変なノート埋めたじゃん、学校に。ファミレスで見付けたやつ、何にも書けないノート」

「あー、あったね。覚えてる覚えてる。田辺が宇宙人の贈り物がどうとかっつってたやつだろ」

「よく覚えてんな、そんなことまで」

「記憶力には自信がありますので」

「ま、いいや。あれさ、今から掘りに行かない?」

「マジで? 面白そうじゃん」

「よっしゃ、決まり」

 おアツいね~、ヒューヒュー! と囃す圭吾や武田たちにうっせー、バカと吐き捨てて僕らは一足先に会を辞した。


 結局、僕はそのノートを家に持って帰ってきてしまった。それから、一緒に拾ったペンも。確かに、田辺の言う通りシャーペンもボールペンも鉛筆も油性ペンも水性ペンもクレヨンも絵具も、およそ「書く」為に作られた道具を以てしては、そのノートに一文字だって書き込めやしなかった。どうせ無駄だろ、と思いつつ僕は一緒に拾ったペンのキャップを取ってみた。見た目には普通の細長いマジックペンに見える。その先端をノートに押し付ける。と、ノートの白紙が初めて黒に染まった。驚いた。けれど、それをどう動かしても僕が書きたい文字にならない。今まで見たこともないような、アルファベットともハングルとも、勿論漢字やアラビックとも違う、絵とも文字ともつかないような何かが延々書き足されていく。何なんだこれは。混乱の中で、ふと閃く。このノートにはこのペンでしか書けない。しかも書かれた文字は誰にも読めない。だったら、このノートにこそ僕は誰にも言えない思いを書けるんじゃないか? 読めない文字でしか書けないこと。この世で僕一人だけが、このノートがラブレターだということを知っている。

「ほいこれ、あげるよ」

 翌日の昼休み、田辺から手渡された薄手のビニール袋の中には手の平サイズの出来損ないのお好み焼きのようなものが入っていた。

「え、何これ」

「ドーナツ」

「は?」

「だからドーナツ」

「いや、穴がないんすけど……」

「穴なんて飾りです、って習わなかった? 随分偉いんだね」

「え、何の話?」

「要らないならいい、返して」

「いや要ります、ありがとうございます、食べさせていただきます!」

「そこまで言うんなら仕方ない。断っとくと作りすぎちゃっただけだから。勘違いすんなよ」

 勘違いなんてしようがない。田辺は学年二位のイケメンと名高いサッカー部の速水翔と付き合っているんだから。

「あ、美味い」

「でしょ、味は悪くないのよ、味は」

「あ、そうだ。これ、昨日色々試してたら書けた。何か一緒に拾ったペンだと書けるっぽい。でも何が書けたかわかんないんだよね」

「どゆこと?」

 こんな、と僕はページを捲ってペン先を擦らせる。白紙に黒い幾何学模様が浮かぶ。

「え、すごい、何これ」

「わかんないけど面白いから、田辺持ってれば?」

 声は震えていなかった。完璧だ。いつも通りの、自然な会話の流れで、僕は田辺にこのノートを渡せる。そう思った。

「ねえ、これってもしかして宇宙人の贈り物かな?」

 田辺はそんな僕の気持ちに全く頓着せず、いつも通り笑った。


「おっかしいなあ、確かにここに埋めたよね?」

 もうすぐ三〇になるいい歳の大人が二人、廃校になった夜の高校に忍び込んでいる。何やってんだか、と思いながら、だけど久々に生きてる感じがした。

「うん、校舎裏の一番デカい木の裏に埋めた筈だから、ここで間違いないと思うけど」

 結局、田辺が気味悪がったので僕たちはノートとペンを埋めることにした。まさか大人になって掘り返すつもりなんて、その時の僕らにあったとは思えないけれど。なのに、根元を360度見回してもどこにも土を掘り返した形跡すら確認できなかった。

「ねぇ、もしかしてさ、夢だったのかな」

 そんな訳ない、あれは、夢なんかじゃなかった。でも、じゃあ何で見付からない?

「……かもね」

「でも、二人して同じ夢を見たんだとしたら、なんていうか、不思議だね」

「うん」

 不思議だ、人を好きになるっていうことは本当に。あのノートとペンはもしかしたら、地球に落とした宇宙人が拾いにきたのかもしれない。鼻腔を突き抜ける空気に少し湿り気が混じった気がした。

「雨、降るかも」

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