第31話 趙無眠氏著:『もし、日本が中国に勝っていたら』_論考(3)

【趙無眠氏著:『もし、日本が中国に勝っていたら』_論考(3)】


【 日本の対英米の戦いは不可避だったのか? 】


この問いに答えるためには、歴史的事実を確かめる必要がある。


・【大正デモクラシー】


“護憲運動,普選運動などを含む大正期の政治現象をいうが,大正デモクラシーが政治学上成立したのは,信夫清三郎『大正デモクラシー史』 (全3巻) 刊行の 1950年代後半である。大正デモクラシーを (1) 政党勢力,政党政治の発展という側面からとらえる視点と,(2) 民衆運動,民衆闘争の展開過程から把握する視点とに大別できる。したがって大正デモクラシーの時期設定については相違がある。しかし両者は対立しているのではなく,大正期に盛期を迎えた議会政治と自由主義的民衆運動のいずれに比重をおくかという差異にすぎないといえる。前者からすれば桂軍閥内閣に対する第1次護憲運動 (1912~13) に始り,原政党内閣成立を経て清浦特権内閣を打倒し普通選挙制度を実現した第2次護憲運動 (24) までが主要な対象となる。思想的側面では吉野作造の民本主義,吉野,福田徳三,新渡戸稲造,穂積重遠,大山郁夫らの設立した黎明会 (18) の主張,初期の新人会の思想が重視される。これに対して後者は,大正デモクラシーを日露戦争後から大正末期,昭和初年にかけての広範な人民諸階層の運動であったとする。そしてこの運動を推進させた要素は,自由主義者と社会主義者の提携による普選運動,『大阪朝日』『報知新聞』『東洋経済新報』などのジャーナリズム,片山潜らの議会政策派,下層ブルジョアジーの対政府運動などから成るとしている。出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典“




・【1929年世界大恐慌に続く昭和大恐慌】。


東京で職を無くした労働者の群れが徒歩で農村へ帰郷し、沿道には、沿道の住民たちによって、支援の為の炊き出しが各所に設けられたそうだ。


・【張作霖爆殺事件】

“張作霖爆殺事件は、1928年6月4日、中華民国・奉天近郊で、日本の関東軍によって奉天軍閥の指導者張作霖が暗殺された事件。別名「奉天事件」。中華民国や中華人民共和国では、事件現場の地名を採って、「皇姑屯事件」とも言う。終戦まで事件の犯人が公表されず、日本政府内では「満洲某重大事件」と呼ばれていた。 ウィキペディア 場所: 中華人民共和国 瀋陽市 皇姑屯駅 開始日: 1928年6月4日“


治安維持法改悪の主犯田中義一元首相と張作霖爆殺の首謀者・主犯の河本大作大佐、この二人は銃殺にすべきだったと思う。大恐慌によって大正デモクラシーは終わった。やはり土台は経済にある。

投稿者:ボーロン  [ 2019年 04月23日 (火) 21時24分 ]


食い詰めた農村では娘たちを娼婦として売り息子たちには満州で兵士として死ねと望む有様だったという。


英米などの帝国主義諸国は、【大東亜共栄圏】という理想と侵略という二面性のある主張がなされるまで、日本に対して寧ろ融和的政策をとっていた。


以上大雑把な前提からでも十分である。私は、太平洋戦争は回避できたのだ。と結論する。


歴史を改変する事は出来ないが、歴史を学ぶ事によって、新たな悲劇を緩和する事は出来るのです。

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