第10話 戦略と戦術と戦果_その論理構造
――公開し公開される事の重大な意味とは、双方にとって危険を孕んでいるということです。僭越ながら、今書いている前書きも戦略と戦術と戦果の論理構造を判断基準として読み解いて、頂きたいと願います――
戦略と戦術と戦果_その論理構造
私がこのタイトルでこのエッセイで主張したいことはわかりますか?
殆ど誰にも解らないのが当たり前です。私は「孫子の兵法」とも同一であるその論理構造が、違憲訴訟の政教分離原則違反の判断基準とされる「目的効果基準」と同じだと考えているのですから。
憲法とは国家の「かたち」を定めるものです。国家とは一つの社会であり複数の国家の集合が国際社会と呼ばれています。同様に、一つの国家社会は包含されている「会社」「趣味の団体」「宗教団体」「学校」「家族」といった小さな社会(共同体)の集合であり複合体です。その最小の単位は二人で構成される社会(共同体)です。老人と孫、夫婦、男性二人、女性二人、兄と妹、男と女、様々です。
「人間は社会的動物である」とは、より正確に表現するなら【人間は社会に依存して生きる動物である】という事だと私は思います。更に【一人の人間(個人)は社会の存在なくして生き延びることすらできないのだ】と言い換えることも出来るでしょう。
戦術(行為や手段)の是非を評価する時の判断基準は、戦略(目的)と戦果(効果)の判断基準です。
戦略(目的)と『戦術(行為や手段)の目的』は一致しているのか。戦果(効果)の量と質はどうなのかを考察しなければ判断(判決)は出来ません。
私たちが経験する個別的具体的な出来事は、それぞれが特殊で異なっており、嘗てなく今後もない、世界で唯一の事件です。それでもそれは、抽象化さえすれば、普遍的なものであり、それでもそこには、普遍的な原理が貫いているのです。
回線を通して遥か遠くから、或いは隣り合わせに住む人なのか、判らないけれども、モニターの前に座っている私と貴方は生身の人間です。私たちは常に問われているのでこの私たちが共有する一つの世界と、どう向き合い?、どう生きるのか?
――このエッセイを読む人の全てが、国際社会と日本という社会とこのネットコミュニティーに同時に生きている――
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