第131話 トリック

 黒い熾天使セラフィムは空中を直進する。朱雀塔の方向へと。途中にある建物など盾にはならない。熾天使に触れた物は、その高熱にことごとく蒸発した。


 朱雀塔のセキュリティセンターでは、全員がジュピトル・ジュピトリスの元に集まっている。


「タクラマカン砂漠を逃げる」


 ジュピトルの言葉に、ドラクルが眉を寄せる。


「どうせなら北極とかの方が良くないか」

「高温になった水蒸気で、肺の中まで蒸し焼きになるけどね」


「それは、確かに嫌だな」


 困ったような顔のドラクルにジュピトルは微笑むと、こう言った。


「そこで夜の王を見込んで、頼みがあるんだけど」


 目を細め、思いっきり嫌そうな顔でドラクルはたずねる。


「拒否権はあるのかい」

「ないよ」


「まったく、君らと来たら」


 ドラクルがため息をついたと同時に建物が揺れた。モニターの中では黒い炎の天使が、朱雀塔の壁に易々と大穴を開けている。


「もう時間がない」


 そう言って見つめるジュピトルに、ドラクルは渋々うなずいた。


「……で、何をすればいい」



 オーストラリア大陸のエリア・エインガナの空に、ダラニ・ダラたちが戻って来た。見上げる3Jに向かって叫ぶ。


「緊急事態だよ!」


 その背後に暗黒の熾天使が現れた。燃えさかる黒い炎を見て、3Jは告げた。


「燃やせ」


 クリアの両目が黄金に輝く。


「天元の炎!」


 クリアが右手を突き出すと、熾天使は赤い火球に包まれる。ダラニ・ダラは慌てた。


「何やってんだい! 火の化け物だよ、燃やしてどうする!」

「黒くとも、ヤツの本質が炎なら」


 3Jは言い切る。


「他の炎によって同一性を失うはずだ」


 赤い火球はどんどん大きくなる。それにつれて、中の黒い影も大きくなった。エネルギーを喰らっているのだ。だが、次第に六枚の翼が縮み、輪郭がぼやけて行く。人の姿を維持できなくなり、やがてただの黒い炎へと変わった。


 そうして赤と黒の混じり合った火球は周囲に熱を放ちながら急速にしぼみ、ついには消えてしまった。


 ダラニ・ダラとガルアムは、ヘナヘナと腰が抜けたように倒れ込む。少女の姿に戻ったリキキマは、呆れたように3Jを見つめた。


「おまえ、もうちょっと有難味ってもんがあるだろうよ」

「有難味なら、俺に感じろ」


 そしてパンドラのインターフェースを呼び出す。


「ベル」

「ほいきた」


 鈴を転がすような声が耳元に聞こえる。3Jはたずねた。


「ジュピトルは」

「トルファンの朱雀塔は沈黙してる。さっきの黒いのと同じ反応がタクラマカン砂漠を東に移動中だから、そっちかも」


 3Jは数秒考え、ダラニ・ダラに目をやった。


「イ=ルグ=ルはいまどうしている」



 ここは元の世界と、隣接する小さな異世界との結節点。この場所に身を置いてどれほどの時間が経ったろう。数分かも知れない。数日やも知れない。そもそもこの場の時間の流れが、元の世界とどれほど異なるのかは、よく知らない。長居するつもりなどなかったから。


 小さな異世界とは言え、銀河の一つや二つは含まれている。その程度では知的生命の存在しない可能性もあるが、それは構わない。元の世界には人類が存在している。食料には事欠かない。重要なのは、異世界にも『神』に相当する大きな力がある事だ。


 この小さな異世界の神々を、イ=ルグ=ルが支配できたなら。それは巨大な戦力となる。もはや人類などに後れを取ることはあるまい。もし従わぬなどと言えば、飲み込んでしまえば良い。そもそもイ=ルグ=ルによって存在を許されている世界なのだ、イ=ルグ=ルに不可能はない。


 無論、イ=ルグ=ルの生み出した異世界とは言え、『大いなる意思』の統括下に入らざるを得ない。その存在が否定されれば、世界そのものが抹消されるだろう。その前に傷を癒やし、力を蓄え、万全の状態に戻らねばならない。


 ただし幸いな事に、『大いなる意思』も一枚岩ではない。しかも彼らは時間の制約を受けない存在だ。故に決定には途方もない時間がかかる。幾千幾万の年月がかかるだろう。イ=ルグ=ルが回復するには十分なインターバルだ。


 万全でさえあれば、『宇宙の目』『宇宙の耳』を取り込んだイ=ルグ=ルを止められる者など、もはや『宇宙の口』ケルケルルガくらいしか存在してない。だが巨大過ぎて小回りの利かないケルケルルガ如き、恐るるに足らずと言える。すなわち、万全のイ=ルグ=ルは自由の身となるのだ。


 そのためにも、いまは逃げる。小さな異世界のどこかの惑星へと逃亡し、世界を閉じる。人間の寿命は短い。次にイ=ルグ=ルが元の世界に戻る頃には、あの厄介な二人の人間は土に還っているはずだ。勝利はすでに我が手中にある。


 問題があるとするなら、イ=ルグ=ルにはこれ以上移動するためのエネルギーが残っていない事だろう。この世界においていずれイ=ルグ=ルになるはずだった存在は、いま戦わせている。戻ってくるまで待つ手もあるが、いつになるやら知れたものではない。やはり他の神々になるであろう存在を呼び寄せるしかないか。


 おや、空間が揺らいでいる。


――戻ったのか


「戻りはしない」


 虹色の空間に響いたのは、3Jの声。



 冬の夜、タクラマカン砂漠は氷点下二十度を下回る。本来ならば。だがいまの気温は四十度を超えていた。その灼熱の中を、汗だくで走る七人の一団。その背後に、黒い炎の熾天使が迫る。先頭のムサシが声を上げた。


「ホレ、来おったぞ」

「よし、跳ぼう」


 ジュピトルの声にドラクルはうなずき、七人の姿は消えた。


 次の瞬間、およそ十キロほど東に離れた位置に七つの人影が現れる。気温は氷点下。だが一分と経たないうちに黒い熾天使が後を追って現れ、気温が急上昇する。


 ムサシはニヤリと笑った。


「食いついておるな」

「こっちは笑い事じゃないんだけど」


 ドラクルはぶつくさ言いながら、また他の六人と共にテレポートした。


 十キロほど離れた場所に現れ、直後さらにテレポートする。これを三度繰り返した。ドラクルはさすがに疲れたのか、グッタリと膝に手を付きながら、しみじみつぶやく。


「絶対に病気になるよね、コレ」

「何じゃ、寒暖差で風邪でもひくか?」


 ムサシのからかうような言葉に、ムッとした顔を向けたものの、もう余裕がないのか言い返さない。その目が空を見上げた。星空に黒い炎が湧き上がり、天使の似姿を取る。


 ナーギニーが言う。


「もう追いついて来た」


 ナーガも言う。


「何とか時間を稼げないでしょうか」


 ムサシは首を振った。


「さすがに無理じゃな。次元が違うわい。ワシらに出来るのは、黙って逃げる事だけじゃろうて。のう」


 そう言って、ドラクルに目をやる。


「……まったく、気楽に言ってくれる」


 ドラクルは顔を上げた。黒い熾天使が舞い降りて来る。そう、いまは黙って逃げるしかない。それが生き残る唯一の方法だ。この間抜けな天使がトリックに気付かない限りは。


 七つのシルエットは、また姿を消した。



「ジンライ、イ=ルグ=ルを狩れ」


 3Jの言葉に返事すらせず、銀色のサイボーグは飛び出した。宙に浮く三枚の思念結晶に向かって、二本の超振動カッターが襲いかかる。しかし、それを斬ったはずの手には一切感触が残らず、思念結晶はそこに浮いたままだ。


「影だな」


 クリアに支えられながら、3Jは一歩前に出る。


「ここに実体はない。だが、そう遠くには居ないはずだ」

「とは言え、どこを探すよ?」


 リキキマは周囲の虹色の空間を見回した。隠れるとしたら、巨大な天秤の陰くらいだろうか。3Jは隣に立つ小さな獣人を見た。


「ズマ、ガルアムと血のニオイがないか探せ」

「あいよ」


 そして背後に立つ魔女にこう命じる。


「ダラニ・ダラは全方向をスキャンしろ」

「簡単に言うんじゃないよ。いつもとは勝手が違うんだ」


「勝手が違うのはイ=ルグ=ルも同じだ」

「ホント、可愛げのないガキだね」


 文句を言いつつ、ダラニ・ダラは周囲に思念を向けた。


「3J、かすかだが血のニオイがあるぞ」


 ガルアムが、向かって右側の壁面に鼻を押しつけている。


「ある、こっちにもあるぜ」


 向かって左側、大天秤の陰からズマの声。一方ダラニ・ダラは難しい顔をしている。


「あるね、確かに。その場所に何かはある。けど、それが何かはわからない。しかも、他にも二つある。上と下だ。合計四つ、何かがある」


 つまり上下左右の四方向に目に見えない『何か』があり、うち左右の二つからは血のニオイがしていると言う訳だ。


 けれど、リキキマは鼻先で笑った。


「んなもん、左右同時に攻撃すりゃいいじゃねえか。どっちかにイ=ルグ=ルが居るんだろ? 別に片っ方に罠が仕掛けてあっても構いやしねえ。ここに居る連中が死ぬだけだ。どうって事ぁないだろう」


「それはそうだな」


 そう言う3Jに、リキキマはニッと歯を剥き出した。


「決まりだな」

「いや、攻撃は待て」


「何だよ、づいたのか」

「死ぬのはどうでもいいが、間抜けに馬鹿にされるのは我慢がならん」


「はあ? 何言ってんだ?」


 3Jは右手で杖を振り上げた。


「ダラニ・ダラ、空間を押し潰せ」


 そして杖の先を向ける。


「この方向だ」


 それは、上下でも左右でもなかった。後ろ、自分たちがやって来た入り口の方向。


「何が起きても構わん。どうせここに居る連中が死ぬだけだ。どうという事はない」

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