第121話 人間の味方
「ゴキブリだ!」
そう、それは身長二メートルをゆうに超える、二本足で直立する真っ黒いゴキブリ。口をクチャクチャ動かしながら、群衆の真ん中を突き進んでくる。しかも、それだけではなかった。
ゴキブリの隣に、少し小柄な猫背の白い姿。やたらと脚が細長い。カマドウマだ。その後ろには、ウネウネと動く長さ数メートルの茶色く太く長い紐に、無数の脚が生えた物。ヤスデである。
恐怖と困惑に包まれた群衆に向かって、ゴキブリが名乗りを上げる。
「オレたちゃ
群衆の中から男の声がする。
「何だおまえら、関係ないだろ」
言い終わった瞬間、カマドウマは稲妻の速度でその男の前に立ち、髪の毛をつかんで持ち上げた。
「いでででででっ!」
「居たぜ、文句のあるヤツ」
カマドウマが振り返ると、ゴキブリはいままで以上に口をクチャクチャ動かし、触覚をブンブンと振り回した。
「いいね、美味そうな人間じゃねえか」
その言葉で、人々に戦慄が走る。ゴキブリは――表情は読み取れなかったが――笑ったように見えた。カマドウマに捕まった男へ顔を近付ける。
「よお、一口食わせろや」
「ひいぃっ!」
悲鳴を上げてそむけた顔を、ゴキブリは両手でつかみ、強引に自分の方に向かせた。
「どうせイ=ルグ=ルに殺されるんじゃねえか、その前にオレに食われたって、たいして変わらねえだろうが」
「た、助けて! 誰か助けてくれ!」
だが誰も助けない。助けられない。そんな勇気などあるはずがないのだ。皆すくむ足で後ずさる事しか出来ない。自然と、その目はある一人に向かった。救いを求めて。
ケケケケケッ、と奇妙な笑い声が響く。巨大なヤスデが笑っている。
「おまえら、それはちょっと都合が良すぎるんじゃね」
長い体の前半分を蛇のように持ち上げて、人々を見下ろす。
「その手に持ってるのは何だよ。それを誰に投げようとしたんだっけ?」
皆、慌てて手に持った瓦礫を放り出した。それを見てヤスデはまた笑う。
「汚えなあ、薄汚えなあ、人間はよ」
「いいじゃねえか。薄汚え人間は大好物だぜ」
ゴキブリが男の顔から手を離すと、カマドウマも男を放り出す。
「助けられた恩義も感じねえ、自分の頭で考えようともしねえ、ボンクラで情けねえ自分勝手な馬鹿どもの腐った脳みそを、音を立ててすすってやりてえぜ。さぞ美味かろうよ」
ゴキブリは口をクチャクチャ鳴らしながら、そう
捕まっていた男は逃げ出し、それを合図としたかのように、人々は散って行く。ジュピトル・ジュピトリスと双子を残して。
カマドウマが舌打ちする。
「ゴメンナサイも言えねえのか、アイツらは」
「ありがとう、助かった」
ジュピトルは、いささか疲れた笑顔を見せた。ゴキブリはブンブンと触覚を振る。
「別に礼を言われたくて助けた訳じゃねえよ。これでも一応はダラニ・ダラに創られた身だ。あのババアに頼まれたら嫌とは言えねえ。まあそのダラニ・ダラが誰に動かされてるかって話はあるが、それを言いだしたらキリがねえしな」
ヤスデはまたあの奇妙な笑い声を上げた。
「人類の救世主様は、暴力がお嫌いかね」
ジュピトルは素直にうなずいた。
「できればね。でも最小限度の被害で、もっとも効果的な方法だと思うよ。合理的だし効率的だ」
「まだあんなヤツらの心配してんのか。マゾだな」
呆れ返るカマドウマに、ジュピトルは首を振った。
「投げ出したい気持ちがない訳じゃない。でもね、それでも人類を信じているヤツが居るんだ。僕は彼を信じてる。だから、人類も信じる」
「美しいねえ、泣かせるねえ。オレはそういうの大ッ嫌いだがな」
ゴキブリは鼻先で嗤った。顔に鼻は付いていないが。ジュピトルがたずねる。
「クリーピーズは三人だけなのかい」
「いんや。バッタ共まで行かねえが、もっと山ほど居るぜ。無闇に騒ぎが大きくなると思ったんだが、連れて来た方が良かったか」
ゴキブリの返事に、ジュピトルは空を見上げた。黄金の神人はまだ浮かんでいる。
「きっともうすぐ人食いが出る。ここは戦場になるよ。逃げるなら早い方がいい」
三人のクリーピーズは一瞬呆気に取られ、そして腹を抱えて笑い出した。
「オレらに逃げろってか!」
ゴキブリが言う。
「人間がオレらの事を心配すんのかよ!」
カマドウマが言う。
「そんな場合じゃねえだろうが!」
ヤスデが言った。
ジュピトルはキョトンとしている。
「だけど、君たちは」
「ああ、オレたちは人間なんぞいくら死んでも構いやしねえ。んな事は気にもならねえ。だがな、人間とイ=ルグ=ルのどっちかの味方になれってんなら、人間の味方するしかねえだろう。同じこの星の生まれなんだからよ」
まさか巨大ゴキブリにこんな事を言われる日が来ようとは、さしものジュピトルも想像だにしなかった。
「ありがとう。感謝する」
その率直な言葉に対し、ゴキブリはブンブンと触覚を振り回した。
崩れ落ちる壁を、天井を、屋根を切り裂き、ジンライは外へと飛び出した。満天の星空にヌ=ルマナの姿を探す。
「どこだ」
しかし、黒い鎧からは当惑の反応。
「居ない、見えない、どこ行きやがった」
その背後を通過する赤い閃光。天空からのビーム砲撃は、家の残骸に撃ち込まれた。巻き上がる埃と炎の中に、人のシルエットが揺れる。リキキマは快哉を叫んだ。
「見つけたぁ!」
実際に見つけたのはパンドラなのだが、いまそれを言っても意味がない。リキキマが触手を伸ばした方向に向かって、ジンライは身構えた。その視界に、不意に出現した全裸のヌ=ルマナ。反射的に斬りかかりそうになって、しかし四本の腕は止まった。
何故突然に見えるようになったのかが不明だ。さっきの事もある、リキキマの指示を待つべきではないか。けれど、指示はなかった。いつまで待ってもリキキマは何も言わない。いや、違う。これはおかしい。
ジンライは気付いた。リキキマの声だけではなく、他の音まで聞こえない事に。リキキマの触手が風を切る音も、自分の体の動作音も聞こえない。いつの間にか、世界から音が消えていた。こんな事が出来る者なら、一人知っている。ハルハンガイだ。ならばその意味するところは一つ。
イ=ルグ=ルが近くに居る。
ヌ=ルマナは攻撃を受けている様子もなく、何かを迎えるように両手を空に向けている。ジンライは星空を見上げた。だが無数の光点を遮る姿は見えない。とは言えこの状況、見えないから存在していない訳ではないのだ。すなわち、目と耳を同時に封じられているに違いない。
イ=ルグ=ルを前にして、これは万事休すか。そんな思いが脳裏をよぎったとき、視覚と聴覚が遮断された。ジンライの判断ではない。遠隔操作されている。体内の警戒システムが起動し、自動追撃モードに移行した。こんな操作が出来るのはパンドラだけであり、こんな手段を考えつく者など、どう考えても3Jしか居ない。
「無事だったか」
無音の闇の中で、自分の耳にも聞こえない安堵のつぶやきが漏れた。
ジュピトルの言葉通り、街には人食いが姿を現わした。顔面から大量の黒いイトミミズを湧かせ、耳まで裂けた口で周囲の人々に襲いかかる。イ=ルグ=ルの言葉を真に受け、心を寄せた結果である。
恐怖と絶望の悲鳴が渦巻く中、逃げる人々の波に逆らって進む集団。その先頭に立つのはジュピトル・ジュピトリス。後ろにナーガとナーギニーの双子を引き連れて。そしてさらに背後には、カサカサと蠢く無数の黒い影。人間大の巨大ゴキブリの群れ。
ジュピトルは進みながら一言、命を下す。
「殲滅!」
黒い群れがジュピトルを追い越し、人食いたちに飛びかかった。人の肉を喰らう化け物と、それを喰らうゴキブリ。そんな地獄絵図の中を、表情を変えず、歩みも止めずに進むジュピトル。その姿を、生き残った人々は恐怖と希望のない
「いいのか、これで」
群れの中で一番大きなゴキブリが、触覚をブンブン振り回しながらジュピトルにたずねた。
「ただ助けるだけじゃ、助からんぞ」
「天は自ら助くる者を助く」
ジュピトルは前を見つめながら答えた。
「でもそれは、自分で気付かなきゃ意味がないんだ」
「気付くまで助け続ける気か」
「ダメかな」
ゴキブリは口からクチャクチャ音を立てながら笑った。
「呑気っつーか、気の長い話だよ、まったく」
「パンドラから信号が来たよ! 全員でぶっ込むから覚悟決めな!」
ダランガンの教会の前で、ダラニ・ダラの言葉に皆うなずいた。ガルアムが、ケレケレが、クリアが、ドラクルが、プロミスが、ハイムが、そしてローラが。
「いや、おまえさんは違うだろ」
ローラに外れるようダラニ・ダラは言ったが、水色の髪の少女は笑顔で拒否した。
「枯れ木も山の賑わいです。何かあったら見捨てていただいて結構ですので」
「そうは言うけどね」
困るダラニ・ダラを見て、プロミスがドラクルにささやく。
「いいんですか?」
「ボクに聞かれても困る」
ムスッとした顔で、いかにも不満げにドラクルは答えた。
「いまは時間がありません。とりあえず、向こうに行ってから考えませんか」
最終的には、このローラの言葉に押し切られる形で、ダラニ・ダラは全員をエリア・ヤマトに飛ばした。
「ああもう、アタシゃ知らないからね!」
空間圧縮でダラニ・ダラたちが到着したのは、夜の森。それもグルグルと捻れた化け物じみた木々が天を衝く、巨大な、そして一切音のない静寂の森だった。
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