第107話 猟犬

 エリア・エージャンに夜が来た。イ=ルグ=ルの行方はようとして知れない。サウスサイドのシェルター群の内部は人で溢れていた。


「ねえ、もうイ=ルグ=ル居ないんでしょう、お家に戻ろうよ」


 少女は泣きべそをかき、両親が困っている。


「どなたかこの子を、うちの息子なんですが、知りませんか」


 画像の映った端末を手に、老婆が彷徨さまよい歩く。


「だからよ、結局オレらが戦わなきゃ話にならん訳だ」


 酒の勢いで勇ましい言葉をまくし立てる男。


 皆わかっていた。このひとときの平穏は、邪神の気まぐれが生んだ仮初かりそめのものだという事を。自分たちの生殺与奪の権は、すでに自らの手にはないのだという事を。もはや祈るくらいしか、できる事は残されていないのだという事を。ただ、いったい何に祈ればいいのか、誰も知らないのである。



 硬い床に座り込み、あるいは寝転ぶ人々を避けながら、シェルターを奥へ奥へと歩いて行く、栗色の髪の若い女。


「この状況で探し物なんて……無理でしょ」


 思わずつぶやいたのは、プロミス。彼女が探しているのはもちろん、人の姿を取って行方をくらましたイ=ルグ=ル。だが相手がエージャンのシェルターに隠れている確証などない。いや、仮にあったとしても、エージャンのシェルター群はエリアの南、北、西にあり、さらにエリア中央部の地下街にも避難民は居る。範囲が広大すぎて、一人で受け持つには手に余るにも程がある。


 とはいえ、デルファイの面々の中で人々を驚かせずにイ=ルグ=ルを捜せる者など、プロミスの他にはドラクルとケレケレくらいしか居ない。かろうじてリキキマとハイムも大丈夫かもしれないが、昼間の戦闘で疲弊している事を考えれば、無理はさせられない。


 そして実際イ=ルグ=ルが、どこのエリアに居るのか――そもそも本当にどこかのエリアに居るのかすら――わからないと来れば、結局のところプロミス一人でエリア・エージャン全体を受け持つしかないのだ。ドラクルとケレケレは、またそれぞれ別のエリアを捜している。


 断ろうと思えば断れた。しかし可能なら先手を取りたいという3Jの意図もわかるし、自分に出来る事なら進んで協力したい。恋する女の行動力である。


 と、自分で納得してはいるのだが。いるものの。いるのだけれど、それにしても広い。広すぎる。何の手がかりもなく捜し続けるこの徒労感。早々にくじけそうになる心を何とか奮い立たせて、プロミスは進んだ。


「とにかく、見つけるしかない」


 そうつぶやきながら。



「見つける必要はない」


 感情のこもらぬ、抑揚のない声で3Jは言った。


「猟犬が放たれていると、イ=ルグ=ルに伝わればそれでいい」


 しかし大統領は首をかしげた。


「だったら、もっと派手にドカーンと、追いかけてるぞーって」

「パニックになりますけど」


 ジュピトルの冷静なツッコミに、ジェイソンは顔を覆った。


「……そっかー」


 世界政府の大統領執務室は静まりかえった。


「とは言うものの」


 ジュピトルは一つため息をつく。


「イ=ルグ=ルがどんな反応するかまで想定してる?」


 問われた3Jはこう答えた。


「想定など出来る相手と思うか」

「思わない」


「ならばそういう事だ」


 そんな会話を聞いて、ジェイソン・クロンダイクは目をぱちくりさせた。


「え、ちょっと待て。次にイ=ルグ=ルがどう動くか、想定してないのか」


 3Jは視線すら向けずにつぶやく。


「もう寝ろ」

「いやいや、いやいやいや、まさか行き当たりばったりで戦う気なのか。相手は神だぞ」


「だからどうした」

「どうした、って」


「確かに相手は神だ。常識も物理法則も通じない。だから想定も立たない」

「つまり勝てないって事じゃないか」


 ジェイソンは食い下がる。自分に理解出来ない世界の話をしているのなら黙るしかないが、これはそうではないからだ。たとえ苦手な相手でも、言うべき事は言わねばならない。それが世界政府大統領としての務めであるし、誇りでもあった。しかし、3Jは淡々と話す。


「いまのイ=ルグ=ルは手負いだ。動きさえすれば叩けるし、状況によってはトドメを刺せる。手強いが、たいした脅威とは言えない」

「たいした脅威では、ない?」


 いぶかるジェイソンに3Jは視線を向けた。凍りつくような視線を。


「無論、おまえが足を引っ張るのなら話は別だ。脅威ではないイ=ルグ=ルが脅威になるとしたら、おまえのような存在がマイナスの働きをするせいだろう」


 そのプレッシャーに、ジェイソンは思わず視線を逸らした。3Jはもう一度言った。


「もう寝ろ。当面おまえに出来る事は何もない」


 今度はその言葉に素直に従い、ジェイソンは執務室から出て行く。口をへの字に曲げてはいたが。


「……3Jは大統領に、キツく当たり過ぎなんじゃないかな」


 ジュピトル・ジュピトリスは言う。だが彼は、ジェイソンがヌ=ルマナから提案を受けた事を知らない。3Jも話すつもりはないらしい。


「無能な味方は敵より危険だ」


 ただ、そう答えた。



 それは誰の声だったろう。


「こんな事になったのも、全部イ=ルグ=ルのせいだ」


 ほの暗い地下街に、嘆く声が聞こえる。


「イ=ルグ=ルは人を食うんだってよ」

「エインガナでは子供も食われたらしい」


 怯える声。怒れる声。


「ジュピトル・ジュピトリスだけに任せっきりでいいんだろうか」

「我々も何かするべきなんじゃないのか」


 考える声。奮い立つ声。


 そして、誰かがこう言った。


「イ=ルグ=ルはいま、人間に化けて紛れ込んでいるらしい」


 それに応える声。


「そう言えば、怪しいヤツを見かけたぞ」


 声には尾ひれが付き、噂となって人々の間を駆け巡る。しかし、彼らは気付いていない。これらの声を発した者たちの顔を、誰一人として覚えていない事に。



 闇が多い。そんな印象。


 エリア・アマゾンのシェルター群も他のエリアのそれと同様、突貫工事で造られたはずだ。実際、あちこちに手抜きが感じられて、新品なのに古めかしい。ただ、それにしては横穴があちこちにあって、隣のシェルターとつながっている。横穴を掘る手間暇を考えれば、そのコストをもっと他のところに回せたような気もするのだが、その辺はドラクルは素人である。考えても仕方ない。ただ、たいていの横穴には照明が設置されていない。だからそこら中が闇ばかりに思えるのだ。


 もっとも『夜の王』にとって闇は故郷と言える。決して不愉快なものではなかった。その中から見つめる視線さえなければ。横穴に立ち入った瞬間からつきまとい、どの横穴にも、どの闇にも、必ず誰かが居る。避難民のそれとはまったく違う、体温を感じない、機械的な、だが防犯カメラなどでは決してない独特な存在感。その感触には覚えがあった。


 エリア・レイクスで、『ビッグボス』ジョセフ・クルーガーを殺したときに出会った連中。マヤウェル・マルソの私兵、特別警備部隊ヨナルデパズトリ。


「なるほどね」


 ドラクルは一つ、ため息をついた。あまり好きなタイプのヤツらではない。だが恐れるほどの相手でもない。そもそもいまはイ=ルグ=ルを捜さねばならないので無視しているのだが、どうにも落ち着かない事この上ない。そんなとき。


「オレはイ=ルグ=ルじゃねえ!」


 横穴の出口付近から聞こえてきた悲鳴に、ドラクルは足を速めた。鈍い打撃音が続く。


 男が一人、集団にリンチされていた。


「おい、あんたら何してる」


 ドラクルの声に、集団が一斉に振り返った。


「何だおまえは」

「イ=ルグ=ルの仲間か」


 ああ、これはダメだな。ドラクルはそう思った。いわゆる目が据わっている状態である。自分たちが何をやっているのか、わからなくなっているのだろう。


「我々はこの地区の自警団だ。おまえはどこの地区の者だ」

「文句があるならハッキリ言ってみろ!」


「何とか言えよ、この野郎」


 その瞬間、周囲の気温が一気に下がった。天井の照明が点滅し、辺りが闇に飲まれる。ドラクルの目が妖しく輝いた。


「誰に向かって口を利いている」


 その場に居た者たちの心に、湧き上がる恐怖。殴っていた者たち、そして殴られていた男まで、悲鳴を上げて逃げ出した。しかし。


 一人だけ、逃げ出さない者が居た。特徴のない背格好、特徴のない服装、そして特徴のない顔。性別すらわからない。ただ、ドラクルには一つだけハッキリとわかった。体内に血の流れている気配が感じられないのだ。


 その『存在』は、顔に何らの表情も浮かべることなく、不意に背を向け、人混みの中に走り去った。ドラクルはすぐに追おうとして、気付いた。どんな顔だったか覚えていない。


「こいつはマズいな」


 ドラクルは振り返ると、横穴の闇の中に戻った。


「マヤウェル・マルソに伝えてくれないか」


 闇の中の視線に向かって告げる。


「害虫が巣を張っているぞ、とね」

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