第106話 無貌の民

 晴天に雨が降る。赤黒い雨粒が。リキキマはすぐその意味に気付いた。


「やべっ!」


 両腕を伸ばし、ズマとハイムの体をつかむと、大きく飛んで後退した。そして叫ぶ。


「おい、ずんぐりむっくり! おまえもさっさと逃げろ!」


 しかしウッドマン・ジャックは、なおも木やつるで編んだ巨大な緑の手で、狂ったようにイ=ルグ=ルを殴りつけている。


「ぬーっほっほっほっほっ!」

「あの野郎、聞いちゃいねえ」


 ヌ=ルマナの左右後頭部から噴き出した大量の血流は、細かなしずくとなってイ=ルグ=ルの周り、クレーターの中心部付近を黒く湿らせた。まるで暖かな春の雨の如く。


「ぬほーっ!」


 血まみれの己の姿に気付かないまま、ジャックは雄叫びを上げて巨大な手を操り、邪神に叩きつけた。だが。


 緑の手は、イ=ルグ=ルに届かなかった。いや、届いてはいるのか。イ=ルグ=ルのひしゃげた体から、小さな手が生えていた。神人の手ではない。それは人間の手。五本や六本ではない。数十本の手が、ジャックの巨大な緑の手を受け止めていた。


 そのうち二本が、手のひらをジャックに向けた。湿った土が蠢き、下から何かが持ち上がって来る。


 驚愕の表情で見つめるジャックの目の前に、音もなく浮き上がった二つの半透明の円盤。思念結晶は、一瞬キラリと輝くと、宙に空いた二つの穴となる。


 猛烈な風の音が、その穴に吸い込まれた。それはただの風ではない。振り撒かれた血を集める意思ある風。地面が、建物の残骸が、潰れたイ=ルグ=ルの体までも、血に濡れた部分を砕き、引き剥がし、すべて飲み込んで行くのだ。その風は当然、血にまみれた魔人ウッドマン・ジャックにも絡みつく。


「ぬおっ?」


 恐るべき力で穴に向かって引き寄せられるジャックは、足に根を生やした。比喩ではなく、本当に根を地面に食い込ませたのだ。しかしそれを引き抜かんばかりの勢いで風は吸い込む。より正しくは、ジャックの体表に染み込んだヌ=ルマナの血を引っ張っている。


「おおーっ!」


 ついに根が引き抜かれ、ジャックの体は宙に浮いた。だが穴に向かって飛んで行こうとしたその体に、絡みつく五本の紐。いや、それは紐のように長く伸びた、リキキマの指だった。振り返るとリキキマが、その後ろにはズマとハイムが、懸命に引っ張り返している。


「おまえ、ふざけんなボケ」


 リキキマが罵った。


「それでも魔人か。この程度で喰われてんじゃねえぞ。しゃんとしろ、しゃんと」


 ジャックは意外そうな顔を向けた。


「助けてくれるのかね?」

「うっさいわ殺すぞテメエ、さっさと逃げろよクソが」


 もはや言ってる事とやってる事がムチャクチャである。けれどジャックの顔には感動が浮かんでいた。何故だか理由はわからない。わからないが、心に勇気が湧いてくるのだ。ジャックは顔を上げ、叫んだ。


「年輪パージ!」


 するとジャックの表皮が弾け飛ぶ。血にまみれた肌が、服が千切れ、穴の中に吸い込まれて行った。後に残ったのは全裸の、まるで皮を剥いた大根のようなツルツル肌の魔人。もう風もジャックを引き寄せない。


「……あのな、おまえ」


 リキキマはジャックから手を放すと、冷たい目で見つめた。


「そういうこと出来るんなら、最初からやれ」

「これ、結構痛いのだけれど。獣人みたいにすぐ回復しないし」


 言い訳をするジャックの向こうで、風は止んだ。すべての血を飲み干した二つの穴は塞がり、再び思念結晶へと姿を変えた。そのさらに向こうでは。


 数十の手が伸びた。肘が、肩が生え出し、そしてイ=ルグ=ルの体の残骸から、数十の人間の頭が湧き出した。


「させるか!」


 リキキマが両手を剣に変えて走る。立ちはだかるのは、宙に浮く思念結晶。


「ウザいんだよ、鍋敷きが!」


 両手の剣が斬りつけたものの、火花と共に弾き返される。


「なっ」


 思念結晶が回る。二つの円盤が、お互いを追いかけるように回転する。リキキマはもう一度斬りつけたが、再び弾き返された。


 思念結晶は回る。二つの円盤が回転する真ん中に、新たな小さな光が生まれた。それは段々と大きく丸くなり、やがて第三の思念結晶となった。その瞬間、さっきまでイ=ルグ=ルの残骸が横たわっていた場所に、並び立つ数十の人影。同じような背格好、同じような服装の、どこにでも居そうな普通の人間たち。


「何だぁ?」


 さしものリキキマも、これにはちゅうちょした。自分たちの行動は、監視衛星で人間たちに見られている。人間のように見えるモノを迂闊に攻撃する訳には行かない。その心の隙をあざ笑うかのように、三つの思念結晶が回転しながら舞い上がり、上空で三角形を作った途端、数十の人影たちはそこに吸い込まれるように消えた。



 ヌ=ルマナは真っ直ぐ上昇している。そのスピードは宇宙速度に達していた。逃げる事に全力を振り向けた神を追いかけるのは、さすがに不可能と言える。


「未熟な」


 そうつぶやいて、ジンライは諦めた。



 聖域サンクチュアリの外れ、繁華街の反対側。小高い丘の上からクレーターを見下ろす、幾つかの人影があった。


「ほらね、避難しといて良かったでしょ」


 バー『銀貨一枚』のマダムが微笑む。ローラもウズメも呆気に取られている。ドレッドヘアーのリザードがたずねた。


「何でわかったんすか」

「そこはそれ、長年の勘ってやつ?」


「はあ」


 さっぱり意味はわからないが、たぶんこれ以上聞いても無駄なのだろうという事は理解出来た。


「お店は潰れちゃったけど、まあ、何とかなるんじゃないの」


 マダムはそう言うと、またおかしそうに笑った。




 世界政府大統領執務室でモニター越しに見た光景に、ジェイソン・クロンダイク大統領はしばし言葉を失った。


「……もしかして、勝ったのか」


 しかし振り返りもせずに3Jはこう言った。


「そう信じたいのなら信じておけ」

「いやいやいや、そんな言い方はせんでくれ。本当にわからんのだ。イ=ルグ=ルはいったいどうなったのか」


 可哀想に思ったのか、ジュピトル・ジュピトリスが説明する。


「イ=ルグ=ルは人間の姿を取りました。それはつまり、人間の中に紛れ込む可能性があるという事です」

「ええっ、そ、それは大変じゃないか! すぐに警告を出さないと」


 慌てふためく大統領とは対照的な、感情のこもらぬ、抑揚のない3Jの声。


「どんな警告を出すつもりだ」

「どんなって」


「隣にいるヤツがイ=ルグ=ルかも知れないと言うつもりか。それとも怪しいヤツは皆殺しにしろとでも言うのか」

「あ……」


 ようやくジェイソンにも状況が理解できたようだ。その視線はジュピトルに向けられる。オリンポス財閥の若き総帥はうなずいた。


「いま警告を出せば、疑心暗鬼がパニックを生み出します。それはイ=ルグ=ルの思う壺でしょう」

「では、ではどうすればいい。放っておくのか」


 焦れた様子の大統領を、突き放すように3Jは言う。


「本当にどうにかしたいなら、質問する前に知恵を出せ」

「いや、しかしだな」


「考える気がないのなら黙っていろ。邪魔だ」


 ジェイソンは、しゅんと黙り込んでしまった。



「考えてなかったな、これは」


 エリア・アマゾンのセキュリティセンターで、マヤウェル・マルソはつぶやいた。黒髪の少年カルロもうなずく。


「イ=ルグ=ルが人型を取るときには、黄金の神人が出るものだとばかり思っていたが」


「うん、そう思ってた。でも結局それは、ただの思い込みだったって事。先入観は持たないようにしていたつもりだったけど……やっぱり神様相手は一筋縄じゃ行かないな」


 マヤウェルは小さくため息をついた。


「アマゾンにも侵入しているだろうか」


 カルロの言葉に、マヤウェルは微笑む。


「それは前提条件ね」

「どうする。アルフレードを使うか」


 後ろに控える虚ろな目のアルフレードは、ピクリとも反応しない。しかしマヤウェルは首を振った。


「それはまだ。まずはイ=ルグ=ルが何をしたいのか確かめないと」


 そして椅子に深く座り直すと、監視衛星のチャンネルをアマゾン上空に切り替えた。


「物量戦なら面白い事になるけど、さあ、どう仕掛けてくる?」



 地下街に向かう三列のエスカレーターには、びっしりと、どちらを向いても人、人、人でいっぱい。エリア・エージャンの中心部からは域外のシェルターまで距離があるため、みな地下街に避難しているのだ。少年はその様子を、面白そうに眺めていた。


 まだ十歳にはならないだろう男の子。避難用のリュックを背負って母親の後をついて行く。けれど母親は、乳飲み子の妹を抱いて前だけを向いている。彼にはそれがつまらなかった。


 母親は不安で胸が潰れそうだった。夫は職場から直接こちらに向かっていると連絡があったが、果たして再会できるのだろうか。もしや自分一人だけで娘と息子を守らねばならないのではないか、そう考えると目の前が真っ暗になりそうだった。だから息子が何をしているのかまで気が回らなかったのも、やむを得ない。


 エスカレーターは間もなく終わる。それに気付いて、母親はようやく息子の事を思い出し、後ろを振り返った。


「ほら、降りるから……」


 少年はエスカレーターの手すりの上にまたがって座っていた。それを見て母親の顔色が変わる。叱られる、そう思った少年は慌てて飛び降りようとした。しかし元より不安定な場所に座っていたのだ、バランスを崩して頭から落下した。だが。


 すぐ後ろに居た男性が、咄嗟にリュックをつかんでくれたため、少年は頭を打ちつけずに済んだ。


 母親はエスカレーターを降りると、男性に向かって何度も頭を下げた。男性は何も言わずに笑顔だけを向けると、数人の仲間と立ち去った。


 いい人だった。母親は少し、心の中が暖まったような気がした。世の中あんな人ばかりなら、もっと不安も小さいのに、と。だが彼女は気付いていない。息子を助けてくれた人がどんな顔をして、どんな服装をしていたか、すでに記憶の中に残っていない事に。

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