第86話 五つの戦い

 固い地層の中を時速五、六メートルで進む、直径十五メートルのシールドマシン。回転するカッターで地中を掘り、同時に穴の内側へ枠を組み、コンクリートの壁面を貼り付けて行く。二十四時間フル回転で作業して、毎日生み出すトンネルの長さは百二十メートル前後。神魔大戦以降の百年でシールド工法は飛躍的に進化したが、いまの状況を考えると、これでも遅いと感じる。


 通常、シールド工法に使われるマシンはオーダーメイド。掘り抜く地層の状態、必要とされる穴の大きさ、その他諸々の条件が工事によって異なるからだ。しかし、いまエリア・エージャンの外周で延々とトンネルを掘る何台ものシールドマシンは、すべて他の工事で使われた設計図面で造られた物。地質調査や専用設計の時間を惜しんで突貫作業で組み立てられ、大急ぎで作業を始めた。


 結果として、地下水脈にぶつかったトンネルもある。途中で曲がってしまったトンネルも、想定していた距離を掘れずにマシンが壊れてしまったトンネルもある。だがそんな事は気にしていられない。いまはとにかく穴を掘るしかないのだ。エリア・エージャン八千万人の住民を避難させる地下シェルターを用意しなければならない。一日も、一刻も早く。




 そんなシェルター工事現場上空に、突如出現した火球。太陽を思わせるほどに燃えさかるそれは、周囲の酸素を瞬時に消費しながら、音もなくエリア・エージャン域内へと進んだ。時刻は午前二時。眠る街が襲われた。




 同時刻、現地時間も午前二時、ペルシャ湾に面したエリア・アラビアの沖合に、海中から浮かび上がったのは、巨大な氷山。周囲の海水面を氷結させながら、ゆっくりとエリア・アラビアに近付いて行く。




 また同時刻、こちらも午前二時の深夜、アフリカ大陸最高峰キリマンジャロの麓が急激な隆起をしたかと思うと一斉に崩落し、ヴィクトリア湖南東に広がるエリア・バレーに大量の土砂が生き物の如く押し寄せた。




 さらに同時刻。現地時間は午前九時、オーストラリア大陸の上にどこからともなく、何の予兆も伴わずに出現した巨大なサイクロンが、エリア・エインガナに急迫した。地上では竜巻がいくつも発生し、無数の雷光がきらめく。




 デルファイの南の街、聖域サンクチュアリの中心にそびえる巨大な黒い立方体、迷宮ラビリンス。夜の闇に溶けるが如きその前に、正装の年老いた執事、ハイムが立っていた。そこに稲妻の速度で、しかし音もなく舞い降りて来る黄金の三面六臂。六本の戦斧を構え、大きな目の美しい顔は、見下ろすようにハイムに告げた。


「魔人の下僕か。用件はわかっていよう」


 ハイムは深々と頭を下げる。


「申し訳ございません。生憎とただいま主は不在でございまして、本日はお引き取り願いたく」


 それに対しヌ=ルマナは鼻先で笑った。


「不在か。それは好都合」


 ひらめく戦斧は六つの光芒を描き、迷宮に打ち込まれる。だがそれが壁面に届く事はなかった。ハイムが全身で受け止めていたからだ。ヌ=ルマナの目が冷たく輝く。


「下僕如きが神に刃向かうつもりか」


 全身に刃を食い込ませながら、ハイムは微笑む。


「使用人にとっては主人こそが神。あなたは敬うにあたいしません」


「ぬかせ!」


 戦斧が振られると、ハイムの体は宙を舞った。けれど地面には落ちない。受け止めたのは、毛むくじゃらの両手。


「爺さん、大丈夫か」


 小さな獣人は呑気な声をかける。


「おやおや、これはズマ様、みっともないところをお目にかけました」


 ハイムはよろめきながら立ち上がった。体の傷は消えて行く。さすがに服は破れたままだが。


 そこに飛んでくる戦斧。それを跳ね上げたのは超振動カッター。戦斧は空中で軌道を九十度折り曲げ、ヌ=ルマナの手元に戻った。


 銀色の戦闘用サイボーグはズマをかばうように前に立つが、後ろから文句が飛んで来る。


「そこ立つなよ、見えねえだろ」


「ヌ=ルマナは貴様には荷が重い。子供は守りに徹していろ」


「兄者ならともかく、おめえに言われる筋合いはねえわ、このポンコツ」


「随分と余裕だな」


 少し呆れたようなヌ=ルマナの声。


「それともこれも策のうちか、人間」


 その視線はズマの背後に立つ、ターバンとマントに身を包む一本足へ。3Jは感情のこもらぬ、抑揚のない声で答えた。


「そういう事だ。おまえは俺の手のひらで踊ればいい」


「神を恐れぬ勇気は褒めてやろう」


 ヌ=ルマナの両目が輝く。


「蛮勇だがな!」


 まさに一瞬、まばたき一つの間に3Jの目前に迫るヌ=ルマナ。ジンライの速度でなければ割り込む事など出来なかったろう。六本の腕の動きを四本の超振動カッターで抑える。


「それで防いだつもりか」


 ヌ=ルマナの口元が歪む。意識が腕に向いているのだろう、それでいい。ジンライは耐えた。その意味をヌ=ルマナが見通したときには、すでに。


「ヌ=ルマナ様!」


 オーシャンの警告の声も遅かりし。針金の如き剛毛の生えた太い指が、ヌ=ルマナの両足首をつかんでいたのだ。戦斧を向けようにも、いま力を抜けばジンライの刃が襲いかかる。その僅かな躊躇ちゅうちょが隙を作った。


「離さぬか、この……」


 言葉は最後まで聞こえない。ズマの野獣の咆吼がとどろき、ヌ=ルマナの体は地面に叩きつけられた。大地がえぐれ、吹き上がる土煙。つかんだ足首を高く持ち上げ、大きく振り下ろす。再び叩きつけられるヌ=ルマナ。


「がっ!」


 声とも言えぬ声が口から漏れる。大きく見開かれた両目に映るのは、迫るジンライの超振動カッター。目を潰す。目が潰される。稲妻の速度で二つの意思が接触しようとした、そのとき。


 音が消えた。




 眠りに落ちていたエリア・エージャンの人々を叩き起こした警報サイレン。慌てて窓を開けた彼らが見た物は、空へ伸び上がるいくつもの火災旋風と、その上に燦然と輝く巨大な火球。街頭のスプリンクラーはフル稼働しているが、火球の熱量に対し、水量がまったく足りていない。


「南に逃げてください! 南側に安全な場所があります! 南に逃げてください!」


 あらゆるスピーカーから響く、ジュピトル・ジュピトリスの声。具体性に欠ける指示だが、いまは適切と言えた。皆は逃げた。とにかく炎の渦から逃げ出した。命からがら逃げたほとんどの人々は、後ろを振り返る事すらなかったが、好奇心が抑えきれなかったのだろうか、ごく一部は振り返る者も居た。そこに彼らは見た。


 迫り来る炎に立ちはだかる、大きな人影を。




 深夜のアラビア半島に雪が降る。降り積もるだけではなく、猛吹雪となった。白銀の闇の彼方から、迫り来る氷山。それは接岸したかと思うと、悲鳴の如き音を上げながら上陸した。


 鳴り響く避難警報、パニックになるエリア・アラビアの民衆。それを追いかけるように氷山は、林立するビルをガリガリと削って行く。陸上を歩く氷の山塊に向かって攻撃ドローンがミサイルを放つものの、まるで効果が見られない。それどころか、降り続く雪を吸収して、その体積を増やし続けていた。


 街は寒気に支配され、氷が網の目のように浸食して行く。もはや万事休す、手の打ちようがない。誰もがそう思いかけたとき。


 ばくん。


 何かが閉じる音と共に、氷山の上、三分の一ほどが消失した。動きが止まる。停止した青白い壁の手前に、小さな子供が立っていた。おかっぱ頭の、五、六歳の子供が。


「やっぱり味はないのだな」


 そう言いながら。




 夜中の地震。隆起する地面と、それに続く崩壊。土砂はまるで意思を持つかのように、アフリカのエリア・バレーを襲った。その量と勢いに、建物は倒壊し、飲み込まれて行く。道路が、路地が、土砂に埋没する。


 敵が見えない。派手な恐怖感こそないものの、ただひたすらに押し寄せる土砂には、抵抗する手段がない。逃げ出した人々は手に手にライトを持ち、蠢く土砂を照らす。そして地震が起こるたび、少しずつ少しずつ東に向かうのだ。その後を追うように、土砂が延々と流れ込んで来る。ビルが崩壊し、街の機能が死んで行く。だがどうしようもない。諦めのため息が街を包んだ。


「ぬほほほほっ」


 突然、珍妙な笑い声が響く。顔を見合わせる人々を掻き分けるように、ずんぐりむっくりの人影が歩いて来た。


「さあてさて、これは厄介だね。とは言え、何とも出来ない訳ではないのだけれど」


 右手に持ったパイプをふかす。タバコのニオイが辺りに満ちた。




 朝の九時だが空は暗い。黒雲に覆われたオーストラリアのエリア・エインガナには強風が吹き荒れている。予兆なしの突然のハリケーンの襲来に、人々は困惑しながらも避難指示には従った。避難所で待ってさえいれば、いずれハリケーンは通り過ぎる。そう思ったのだ。


 しかし、避難所に向かう彼らは見た。車を巻き上げビルを破壊する、いくつもの強烈な竜巻と、間断なく光り続ける無数の雷光、そしてそこに浮かび上がる巨大な黒雲の壁を。それは世界の終わりを思わせた。


 そんな人々の頭上を小さな影が飛んで行く。黒いフリルのドレスをはためかせ、鷹の翼で真っ直ぐに雲の巨壁へと向かう。


「こんなすぐに使う事になるとはね」


 面倒臭そうにため息をつくとスピードを落とし、両手を天に向けた。


「さあ、出て来な!」

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