第84話 正しい秩序
珍しく、エリア・エージャンに雪が降った。
この一週間は何事もなく過ぎ去った。寒気団が南下し、平年を下回る気温になった事以外には、特筆すべき出来事はなかったと言って良い。疲れ切った者たちには休息が与えられた。
ネットワーク上では議論が
人々はジュピトルの存在に希望を見ていた。理想の英雄像を当てはめようとする者も多かった。それはジュピトルには重荷であったが、この先に起こるであろう事を考えれば、必要な負担と言えた。いまは積み重ねるべき時なのだ。
エリア・エージャンに雪は積もらない。すべて溶けて流れてしまう。人の心の
北米大陸の中央部、荒野の中に廃屋がある。しかし放棄された時期は、外見ほどには昔ではない。ボロボロの見た目と異なり、内部にはついこの間まで使用されていた様子が見て取れた。エリア・レイクスを中心に活動していたテロ組織『ブラック・ゴッズ』のビッグボスが設立したツォハノアイ研究所、その実験施設の一つがここだった。
がらんとした室内には、黒いスーツに黒いネクタイを締めた初老の男が一人。先般エリア・レイクスの空に巨大な天秤を浮かべたあの男である。背後から聞こえた足音に振り返った。
大人も居る。子供も居る。男も居れば女も居る。カオスを構成する九人のメンバーたち。
「テンプル、どういう事」
メンバーの一人が不審げな顔で男を質す。
「全員の招集は、危険だからやらないって事になったじゃない」
「全員ではない。ウズメとカルロが居ない」
テンプルと呼ばれた黒服の男は、不満そうに言い返した。
「ウズメはもう来ない」
メンバーたちから少し離れた場所でそう言ったのは、水色の髪のローラ。
「アマゾンに行ったカルロとも連絡が取れない。二人に関しては諦めるしかないと思う」
「そうか、それは残念だ」
心底残念そうにテンプルは答えた。
「それで。招集をかけた理由を言えよ、テンプル」
別のメンバーが面倒臭そうにたずねる。テンプルは少し勿体を付けて、こう切り出した。
「……我らはカオス。何者でもなく何もない、空っぽの存在」
言われなくてもわかっている。そんな空気の中でテンプルは続けた。
「故に我らは秩序に背を向け、世界に混沌をもたらすべく活動を始めた」
「だから何だよ」
ため息と失笑。メンバーたちはいい加減、
「さっさと用件を言え」
しかしテンプルは、何かに取り憑かれたかのように言葉を紡いだ。
「それは間違っていたのだ。我らは間違っていた。本当は我らにこそ秩序が必要だったのだ。それも正しい秩序が」
そんな最初に議論した事をいまさら蒸し返すつもりか。その思いは皆の視線に浮かんだ。けれどテンプルはそれに気付かない。暑苦しそうに黒いネクタイを外した。
「我らは不幸だ。不幸なのだ。なればこそ、幸福にならねばならない。いや、違う。私はすでに幸福だ。真の幸福を知ったいまこそ、皆にそれを伝えねばならない。皆が知らねばならない。皆が受け入れねばならない!」
テンプルはワイシャツを左右に引き裂いた。ジャケットのボタンが飛ぶ。胸元が
「みんな逃げて!」
それはローラの叫び。だが遅かった。光の中から飛び出した九本の黄金の触手が、カオスのメンバーたちに絡みつく。ただ一人、ローラだけが倒れ込んで身をかわした。ローラは見た。仲間たちの目から、みるみる輝きが失われて行くのを。
「ローラ」
テンプルは微笑んだ。
「君も来るんだ。イ=ルグ=ル様の正しい秩序の世界に」
ローラは走った。しかしドアまであと一歩のところで、ドアノブに触手が巻き付く。即座にホルスターから銃を抜くと、警告なしで迷わずテンプルの頭と胸を撃った。けれど十発の弾丸を受けてもなお、顔の原形を失ってもなお、テンプルは微笑んでいた。
「ソンナモノハ、ツウジナイ」
弾丸は口も喉も撃ち抜いている。それでも声が聞こえる。地の底から響くような笑い声が。胸の黄金の光は消えない。その中からまた這い出てくる触手。ローラはナイフを抜いて構えた。そのナイフに触手が巻き付く。が。
突然触手が凍り付いたかと思うと、砕け散った。
ローラの視界の中に、いったいどこから湧いたのか、人影が一つ増えていた。左腕のないワイシャツにスラックス姿。青白い顔に銀色の髪。口から吐く息が白かった。
「オマエハ」
テンプルは動揺したかに見えた。青白い男は首をかしげる。
「おや、ボクの事を知ってるのかな。どこかで会ったっけ」
そして鼻先で笑った。
「ああ、飼い主がボクを知っているのか」
男はローラに向き直った。静かに見つめる。
「君はどうしたい」
「えっ?」
困惑するローラの前にゆっくりと男は歩いて来る。彼女とテンプルの間に立ち、こうたずねた。
「君がここに居たいのなら、ボクは引き下がろう。ボクと一緒に来たいのなら、責任を持って連れて行こう。ただし、ボクと一緒に来たところで、君は幸せにはなれないけれど、どうする」
一瞬
「一緒に行きます」
「そう」
「ソウハサセヌ!」
テンプルの胸から無数の触手が飛び出し、二人を包み込むように襲いかかる。しかしそれらが触れる直前、二人の姿は消えた。
次の瞬間には二人はデルファイに居る、はずだった。
「ドラクルが?」
3Jはハイムの入れた紅茶を飲む。
「こないだウッドマン・ジャックのとこに使いにやったんだが、それ以来しょっちゅう西の森に顔を出してるらしい。今日は断りもなしにデルファイの外に出やがった。どう思う」
「俺も断りなしに出ているが」
「おう、そうだよ。だからテメエに言ってるんだよ。イヤミってもんを理解しろ」
3Jはしばし考えてこう言った。
「どこに何をしに行ったか、ウッドマン・ジャックは知っているのか」
「あぁ? んな事ぁ聞いてねえよ。ジャックは何か苦手なんだよな」
ピンクの髪をクシャクシャとかき回すリキキマを横目に、立ち上がる3J。
「何だよ、帰んのか」
不満げなリキキマに「また来る」とだけ言い残して、3Jは応接室を出た。
ドラクルとローラが姿を現したのは、さっきの建物から数キロと離れていない荒野。よろめくローラを、ドラクルの右腕が支える。
「ありがとう」
「どういたしまして」
微笑むドラクルにローラも微笑み返す。
「ここが目的地なの」
「いいや、全然」
そしてドラクルは一つため息をつく。
「どうやら捕まったらしい」
そのとき燦然と天空に輝く黄金の光。ドラクルはローラをかばうように立った。
「久しいですね、ドラクル」
聞き覚えのある声に、ドラクルは笑顔で応える。
「やあ、その声はヴェヌじゃないか。何年ぶりだろうね」
「一週間前に会ったばかりですよ」
「ああそうだっけ。どうでもいい事だから忘れてたよ」
光は中央に集束し、やがて人の姿を取った。三つの顔と六本の腕を持つ人型に。
「あなたの愚かしさは変わりませんね」
「そりゃどうも。そちらも相変わらず余裕がないようで何より」
荒野に笑い声が響く。三面六臂の正面、目の大きな美しい顔が高笑いをしていた。
「なかなか面白い男だな」
ヌ=ルマナはその両目をきらめかせた。
「そなた、いまからでもこちら側に付かぬか」
「ヌ=ルマナ様?」
左後頭部のヴェヌが驚く。
「お
右後頭部のオーシャンも困惑している。しかしヌ=ルマナは本気のようだ。
「構わぬ。使えるコマは多いほど良い」
そしてドラクルに迫る。
「どうだ、働き次第では何でも望みを叶えてやるぞ」
ドラクルはローラを振り返った。ローラは見つめている。その目に恐怖や不信はない。ドラクルはまた一つ大きくため息をつくと、ヌ=ルマナに向き直り、こう告げた。
「神様ごときに叶えられる望みなんてないね」
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