第73話 スズメバチ

 今日は娘の七歳の誕生日。母親は仕事を早めに上げてもらって、約束通り二人で夕食に出かけた。親子二人の暮らしは楽ではないが、助け合って生きている。今日、街は賑やかだった。大勢のデモ隊が大通りを埋め尽くしてシュプレヒコールを上げている。


 大昔の怪物が蘇るという。その怪物と戦争になると。戦争はイヤだ。せめてこの子が大人になるまで平和であって欲しい。母親はそう思っていた。そういう意味ではデモの趣旨に賛同は出来る。ただ、何が本当に正しいのか、それはよくわからなかった。


 予約しているレストランが見えた。娘が母親の手を引いて駆け出そうとしたとき、空に黄金の十文字が輝いた。あれは何だろうと思って見上げていると、急にデモ隊が騒ぎ始めた。


「イ=ルグ=ル! イ=ルグ=ル! イ=ルグ=ル!」


 その尋常ではない様子に、母親は危険を感じた。嫌がる娘を引っ張って、その場から離れようとする。直後、不意に街を包む静寂。すべてが凍り付いたように動かない。そして。


 顔を無数のイトミミズに覆われた数千人のデモの集団が、人食いの化け物となって襲いかかってきた。


 母親と娘は悲鳴を上げて走った。だが人混みが前を塞ぐ。同じ方向に逃げようとする集団と、まだ騒ぎに気付いていない集団がぶつかっているのだ。化け物たちはもうそこまで来ている。母親は人混みに割って入った。しかし押し返される反動で、娘とつないでいた手が引き離されてしまう。


「メイリン」


 母親は娘の元に戻ろうとするが、身動きが取れない。人混みの奥に飲み込まれて行く。


「ママ!」


 人垣の向こう、娘の声が徐々に遠くなる。母親は必至に手を伸ばす。でも届かない。人と人の間に娘の姿が見えた。その後ろに立つ、顔をイトミミズに覆われた、口が耳まで裂けた化け物たちと共に。振り向いた娘の悲鳴が響く。


「メイリン!」


 娘の名を叫ぶ。そこに母親は見た。宙を舞う鮮血。斬り落とされた頭。首を撥ねられた化け物たちの体が、次々に倒れ込むのを。


 街灯の光を照らし返す四本の刃。グレーのポンチョをまとった銀色のサイボーグが、つむじ風のように舞う。化け物たちの首は、面白いように斬り落とされて行った。


 ようやく人混みから抜け出た母親が、娘の元に駆け寄った。抱きしめ合う二人にサイボーグが言う。


「可能な限り、ここから遠く離れろ」


 母親はうなずき、娘の手をしっかり握って立ち上がった。




 人々は逃げた。人食いの化け物から。どこに向かっているのかは知らないが、とにかく前を走る連中の後について行った。その結果、まとめて袋小路の奥で身動きが取れなくなってしまった。


 後ろからは人食いの群れが迫る。顔をイトミミズで覆った化け物たち。


「ひいいっ」


 誰かが悲鳴を上げた。


「もうダメだあっ」


 絶望の声が聞こえる。化け物たちまでの距離はもう三メートルとない。と、突然。


「ちっくしょう!」


 一人のガタイの良い男――三十代くらいだろうか――が飛び出し、叫びながら先頭の化け物に殴りかかった。


「うおおおおっ!」


 その、ついさっきまでは少女だったと思われる服装の、ウネウネと顔面をうねらせる化け物は、男の拳をまともにくらう。しかし微動だにしない。それどころか、拳を片手でつかんで握り潰した。


「いででででっ!」


 男の叫び声に、化け物の耳まで裂けた口が歪んだ。わらっているのだ。男の周囲には何体もの化け物が集まっていた。何本もの手が男に伸びる。もう彼は終わりだと誰もが思った。しかし。


 ぶおん。


 重い物が風を切る音。天から降ってきたそれは、稲妻の速度で化け物たちを叩き伏せた。長い棒。いや、その太さは柱と言うべきか。先端には道路標識を付けたままの、金属製の柱。根元はねじ切られている。肩に担ぐのは、毛むくじゃらの大きな両手をした、獣人の少年。呆然とする男を見つめて、ニッと笑う。


「オッサン、根性あるじゃん」


 そして人々に笑顔を向ける。


「おいらが逃げ道を確保してやる。死にたくないヤツはついて来な」


 化け物たちが続々と袋小路に押し寄せて来る前に、少年は一人で立ちはだかる。


「さあ行くぜ」


 唸りを上げる標識の柱。まるで小枝のように、軽々と振り回される。


「よっ! こいっ! せいっ!」


 次々に化け物たちが宙に舞う。そこでようやく人々は思った。もしかしたら助かるのかも知れないと。




 倒された人食いからも血が流れる。だがその血もまた、地面を濡らす事はない。霧のように舞い上がり、ヌ=ルマナの手に持つ思念結晶に吸い込まれる。


「ようやく来たか、人の子らめが」


 ヌ=ルマナは微笑んだ。人食いが三、四十人ほど潰されたようだが多勢に無勢。人食いの総数は五千を超える。百や二百潰されても何の影響もない。毒が体に回るように、この地域全体に広がり殺戮を続けるのだ。


 無論、衛星軌道からのビーム攻撃もあり得る。魔人を連れてくる可能性もあるだろう。それでも街の隅々に入り込んだ五千の人食いを、どうやって排除する。逃げ遅れた人間もろとも消し炭にでもしなければ、簡単には排除出来ない。だがそれをやれば。


「おまえたちが人類の敵となる」


 ヌ=ルマナは嗤った。どちらに転んでも損はない。つまりこの策ならば、先手を取った時点で勝利は確実。あとは世界各地で繰り返すだけ。イ=ルグ=ルの覚醒を待つまでもなく、人類は滅びる。




 斬っても斬っても、殴っても殴っても、人食いの化け物は一向に減らなかった。ハサミで草原を刈り取ろうとするが如く、まるで際限がない。


「3J、まだか」


 ジンライはつぶやく。


「兄者、早くしてくれ」


 ズマの振るう柱もボロボロになっていた。


 しかしそのとき、人食いの群れの真ん中に突如黒い空間が生じ、中からマントの集団が現われた。先頭に立つのは、マントにターバン、片足片目の3J。その背後にずらりと並ぶ、黄色いマントに目深にかぶった黄色い帽子、そこにベッコウ色の羽根飾りを差した女たち、総勢二十名。


 人食いの化け物たちが手を伸ばして寄って来る。だがそれには目もくれず、3Jは振り返った。


「頼む」


 女たちはうなずいた。そして次々にマントを広げる。


「さあお行きなさい、我らが娘たち!」


 一斉に叫ぶその声に応じたのか、女たちのマントの内側から、羽音と共に小さな影が、雲霞の如く飛び出した。その一つが人食いに取り付くと、尻から出した針を刺す。すると苦悶の声を上げながら、人食いの肉体が溶けて行く。これがデルファイオオスズメバチの猛毒。


 デルファイ四魔人の中で、軍団を保有しているのは獣王ガルアムと魔女ダラニ・ダラ。そのうち数を誇るのが、ダラニ・ダラの昆虫人インセクター軍。中でも最強と謳われるのが通称『キラー・ホーネッツ』、蜂人部隊である。


 彼女たちはデルファイオオスズメバチを操り、女王蜂として各自の体に住まわせる。その数、一人当たり三百。この場に来た蜂人は二十名、すなわち直接攻撃を行う六千の兵力をいま投入したのだ。


 スズメバチたちは人食いのニオイを嗅ぎ分け、あらゆる空間に侵入し、追い詰め、刺す。反撃のいとまは与えない。3Jの周囲からは、あっという間に人食いが駆逐された。


 しんと静まりかえった、異臭に満ちた世界。そこにドローンの小さなローター音が近付いてきた。


「タイミングはこれで良かった?」


 ドローンから聞こえるベルの声。


「ああ、丁度いい」


 3Jは何を思ったのか、ターバンを取ると、顔を覆う布も外した。


「左側から撮ればいいのね」


 それに3Jはうなずく。


「そうだ」




 人食いの反応が、凄まじい勢いで消滅して行く。ヌ=ルマナは困惑した。


「何だ、何が起こっている。何をした、3J」


「ヌ=ルマナ様、あれを!」


 ヴェヌの声に空を見る。そこには巨大な人の姿が投影されていた。それはオーシャン・ターンがよく知る顔。


「ジュピトル・ジュピトリスだと。何故」




 上空に投影されたジュピトル・ジュピトリスの顔を、人々は見上げる。人食いの化け物たちが突然溶けて消えた事と関係しているのだろうか。いや、無関係なはずがない。その思いは生き残った報道スタッフとて同じ。上空にカメラを向ける。




「ジュピトル様が?」


 エリア・トルファンで起こった事態を報道の情報で追っていたジュピトルたちは、モニターに映し出されたその顔に驚愕した。いや、驚愕しているのはナーガとナーギニーの双子である。ジュピトルは目をみはりこそすれ、落ち着いていた。


 少し離れたソファからその様子を眺めていたムサシは気が付いた。


「なるほど、そういう事か」




 上空のジュピトルの顔は言う。感情のこもらぬ、抑揚のない声が夜空に響く。


「ヌ=ルマナ、おまえの負けだ。イ=ルグ=ルに伝えるがいい。人類は必ず生き残るとな」


 ヴェヌとオーシャンは困惑している。


「これは、いったい」


 しかしヌ=ルマナは理解した。


「どうという事もない。見たままの話だ」


 そして六つの手を空に向ける。その瞬間、黄色い閃光が走った。パンドラからのビーム砲撃を手のひらで受けている。拡散されたビームが周囲に大穴を空けた。ヌ=ルマナは腕が二本ダメになったが、攻撃を受け切った。


「愚かな、ビーム如きで……」


 ヴェヌがそう口にした直後には、ヌ=ルマナは上空高くに飛び上がっていた。


 ばくん。


 何かが閉じる音。振り返れば、さっきまでヌ=ルマナが居た場所に、ケレケレの口があった。


「ビームは陽動か」


 オーシャンのつぶやきに、ヌ=ルマナは微笑んだ。


「驚く事でもない。そうだろう、ケルケルルガの化身」


「そうだな、我ももう驚かなくなった」


 ケレケレがそう答える。


「デルファイの3Jに伝えるがいい。おまえの挑戦状、確かに受け取ったとな」


 そう言い残し、ヌ=ルマナは姿を消した。ケレケレを地面に叩きつける衝撃波を残して。

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