第71話 ローラ

 脳に電極を埋められ、少しでも反抗的な態度を取れば容赦のない電撃。両手足は鎖でつながれ、満足に歩くことも出来ない。そんな状態が何日続いたろう。いや、何年かも知れない。とにかく途方もない時間を苦痛の中で過ごし続けたナーガが狂わなかったのは、隣にナーギニーが居たから。もしかしたらナーギニーが狂わなかったのも、同じ理由なのかも知れない。


 でももう一つ、理由がある。ナーガたち双子がその能力を理由に実験体として扱われ、残酷な仕打ちを受けたとき、かならず目の前に現われて慈愛の眼差しを向け、傷ついた心を癒やしてくれた少女。双子はこう呼んでいた。『水色の髪のローラ』と。


 そのローラが二人に語り続けてくれたのだ。


「もう少しだけ頑張って。あなたたちを救う人が、すぐにやって来ます。その人のイニシャルは、J。あなたたちを本当に必要としてくれる人です。だから諦めないで」




「どうかした?」


 隣に立つナーギニーが不思議そうな顔で問いかける。グレート・オリンポス二百九十七階のジュピトル・ジュピトリスの部屋。ジュピトルはデスクで無数のデータファイルと格闘し続けていた。何せ新総帥の勅命で始まった事業がいくつもある。その判断を全部現場に丸投げする訳にも行かない。まずは誰を責任者にするのか、どれくらいの予算をどこから捻出するのかくらいは、ジュピトルが決めなければならないのだ。


 ナーガはコーヒーメーカーに目をやった。さっきスイッチを入れて、半分くらい出来上がっただろうか。それを確認した後、ナーギニーを見て、こうつぶやいた。


「ローラの事を思い出していた」


「水色の髪の?」


 ナーガはうなずく。


「夕方の記者会見、彼女もどこかで見ていただろうか、ってね」


「見てると思う。きっと、どこかで」


 ナーギニーは微笑んだ。ローラが実際にあの施設に居た少女なのか、本当のところは二人にはわからない。ただ彼ら双子にとって、彼女が運命の女神だった事は間違いない。水色の髪のローラ。いつかまた、どこかで会えるだろうか。双子はそれを願っていた。




 ローラの髪は薄い水色。少し垂れ目で、芯が強くて、強力なテレパスで、そして不老不死。だからだろうか、吸血鬼をちっとも恐れなかった。


 ドラクルは天井を見つめている。ビッグボス、ジョセフ・クルーガーは死んだ。ローラの血からも肉からも、不老不死の秘密を取り出すことが出来ずに、結局吸血鬼の血を輸血する事でそれを得た元医者は、不死のまま死んだ。


【おまえは不死のまま死ぬ】


 ジョセフの放ったその言葉の呪いにかかったのは、ドラクルではなくジョセフ自身だった。ドラクルはそう解釈していた。


 あのとき。培養液の中で不死の細胞を活性化され、その姿を失い、アメーバ状の細胞の集合体となったローラから、最後に残った心臓を取り出したとき。自分の腹を裂き、それを体内に押し込んだとき。その瞬間ドラクルは終わった。


 いまのドラクルは、ドラクルであってドラクルではない。もはや何者でもなくなってしまった。辛うじて残っていた戦う理由も、存在し続ける目的も、すべて果たされたのだ。もう何も残っていない。燃えかすほどの価値もない。ならば死ねば良いのだろうか。だが、どうやって? どうすれば死ねるのだ?


【おまえは不死のまま死ぬ】


 再びジョセフの言葉が頭をよぎる。ドラクルは跳ね起きた。この事か。まさかジョセフは、いまのこの状態がやって来る事を予想していたのか。いや、そんなはずはない。あの男には未来予知など出来なかった。目端は利いたが、それだけのヤツだ。3Jでもあるまいに。


 3Jか。


 ドラクルは再び身を横たえた。3Jならば何と言うだろう。どうすれば死ねるのか、その問いに何と答えるだろう。ドラクルの口元が上がった。3Jの言う事など、決まっているではないか。


「戦って死ね」


 あいつならそう言うだろう、そうドラクルは思った。そうとしか思えなかった。


「さて、これはどうしたものかね」


 つぶやいて、ドラクルは笑った。小さく吹き出し、やがて声を上げて笑った。まったく、笑ってる場合じゃないんだが。そんな風に思いながらも、笑い声は止まらなかった。




 世界はパニック寸前。スケアクロウの正体がジュピトル・ジュピトリスであった事は、まだ想定の範囲内と言えた。だからジュピトルが会見でイ=ルグ=ルの名前を出したときも、「それでもコイツだけだからな、こんな事言ってるのは」という気持ちがあったのだが、そこにエリア・アマゾンが賛同を示した事で、トドメを刺された。


 社会の上層の者たちは知っていたのだ、という、納得感と裏切られた感が半々同居する感情に、人々は揺さぶられた。ある者は「だから言っただろ」と言い、ある者は「許せない」と言い、またある者は頑なにイ=ルグ=ルの復活を否定し続けた。しかしそれでも、イ=ルグ=ルが覚醒する可能性がある事を前提として世界が動き出した事実は、誰しも認めざるを得なかった。


 そしてエリア・エージャンの日付が変わる寸前、エリア・トルファンもジュピトルに対し、賛同の意を表明した。もうこれで逃げようがない。イ=ルグ=ルは死んでいなかったのだ。人類は生き残るために戦わざるを得ないのだ。その絶望的な事実を、全人類は突きつけられた。もはや覚悟を決めるしかない、誰もがそう考えたとき。誰かが言い出した。


「イ=ルグ=ルと話し合えないのだろうか」


 それは、藁にもすがる思いであった人々の一部に受け入れられた。


「邪神といっても神様だ、願えば聞き届けてくれるかも知れない」


「百年前には誤解があったのでは。いまなら冷静に話し合えるんじゃないか」


 そんな声が物凄い勢いで勢力を増して行く。不信が、疑心が、恐慌が、世界に巻き起こりつつあった。




「ジュピトル・ジュピトリスは、イ=ルグ=ルに無用の戦争を仕掛けて、人類を破滅に導こうとしている」


 金星教団のアジトでは、言葉を音声認識装置が読み取り、ネットワーク上の様々な場所へと書き込んでいた。それは金星教団教祖ヴェヌの声。アシュラのボディに宿った『宇宙の目』ヌ=ルマナの、左後頭部から聞こえる。次いで右後頭部から聞こえてくるのは、オーシャン・ターンの声。


「人並み以上に利口だとは言え、まだ若い。ジュピトル・ジュピトリスめ、焦ったな」


「いや」


 正面のヌ=ルマナが言う。大きな両目にはまだ痛々しい傷跡が残っている。


「あの3Jが背後に居るのだ、この程度を想定していないとは思えない。だが」


 ヌ=ルマナは微笑んだ。美しい、天使のような笑顔で。


「わかっていても、止められなければ意味がない」




「ただ止めるだけでは意味がない」


 3Jは言った。夜明け間近、ダランガンの教会の礼拝堂。ダラニ・ダラが天井からぶら下がっている。


「俺たちはおくれを取っている。敵失を待っている訳には行かない。連中の動きに合わせて、一気に詰める」


「そりゃいいんだが、矢面やおもてに立ってるジュピトル・ジュピトリスの負担になるんじゃないのかい」


 ダラニ・ダラは心配げだ。しかし3Jは感情のこもらぬ抑揚のない声で、こう答える。


「あいつが世界を動かす中心になる。少しは負担を抱えて当然だろう」


「それでも大丈夫だってんだろ。聞き飽きたよ」


 いささか呆れた口調で、ダラニ・ダラは続けた。


「だけどね、いくら同じ遺伝子を持ってたって、同じ人間じゃないんだ。おまえに耐えられる事がジュピトル・ジュピトリスにも耐えられるなんて、思うのは大間違いだよ」


 しかし3Jは静かに反論する。


「俺に出来る事など求めてはいない。あいつにしか出来ない事を求めている」


「その方が厳しいんじゃないのかい」


「ジュピトルなら大丈夫だ」


「結局それか。おまえ、スパルタにも限度があるだろ」


 3Jは立ち上がった。


「俺は相手を見て判断している。負けるとわかっている勝負などさせない」


「ホントかねえ。アタシゃ冷や冷やするよ」


「俺をパンドラに送れ。次に備える」


「まーたタクシー代わりかい。まったく、威厳もクソもあったもんじゃないね」


 ダラニ・ダラのクモの脚が床に向かって伸び、その先に黒い空間を作る。中に入る3Jの姿が消えた。教会のステンドグラスに光が差す。朝がやって来たのだ。狂気と混迷の朝が。

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