紙の上で逢おう
那月
紙の上で逢おう
去年は見に来られなかった花火を、ひとり、送電塔の上から眺めている。
俯瞰する街並みは夜祭に賑わっていて、その雑踏は唸る風に希釈され、ここまで届いた。
祭囃子の喧噪はきっと、直上の星空からありとあらゆる光を剥ぎ取る役割を背負っている。そうして月でさえ顔を逸らす黒檀の夜空に、火薬で打ち上げられた極彩色の染料が乱舞していた。
夏の風物詩。青春の象徴かもしれない。幼い頃は、隣町に遠出してまで夏祭に出かけたものだった。頭にいけ好かないお面を括りつけて、片手に綿あめかなんかを握っていた。なけなしのお小遣いをがま口財布に入れて肩からぶら下げていた。今の私は手持無沙汰で、ビール缶もおつまみも何も肴にするものがないので、渇ききった眼で、茫洋とした視線を宙に投げるばかりだった。
大玉の打ち上がる甲高い音がする。遠慮もなく全天に火華が咲いた。
確かにそれは見惚れるほど壮麗で、けれど私にとっては終ぞ、それ以上の意味を持つことはなかった。なんだかとうに感傷ってやつを、余すことなく使い切らしてしまったみたいだった。
フィナーレを待たずに、家に帰ることにする。腰かけていた鉄骨ががたがたと揺れて、名残惜しそうに駄々をこねた。随分と遠出してしまったもので、川を七つか八つは渡らなくちゃいけないだろう。
空の向こうが薄明に染まりゆく。
寝静まった通りを牛歩して、誰もいなくなった世界に取り残された気分を味わった。
それでも生き残ったらしい数羽の小鳥が、地面をしきりにつつきまわしている。早起きの鰻屋のお婆ちゃんが、店先を掃除しているのがはす向かいに見えた。どうやら人類が滅びるのは、もう少し先のことらしい。
やがて、一般的にいう朝が拡散する。家々に明かりが灯り、階段を駆け上がる物音や、準備された食器のかちあう澄んだ音や、そういう生活音の重奏が流れてくる。
それがひと段落つく頃合いになって、一様に身なりを正した人の群れが、ぞろぞろと道に姿を現した。近場の駅舎に向かって、まるで一秒たりとも無駄にできないというように、脇目もふらずに競歩に徹している。
それがどことなく、棺と並進する葬列を彷彿とさせて、あながち間違いでもないか、と苦笑した。やつれきって血の気のない顔がいくつもいくつもすれ違って、それぞれにとって大切な何かの死を悼んでいるようだった。
それはとても健気で、けれど、弔うものがあるというだけで、少しばかり羨ましいような気がした。
通り抜けようとした児童遊園では、年端もいかない双子が駆けずり回ってはしゃいでいた。彼らを連れてきたらしいお母さんがベンチに腰かけていて、私はちゃっかりその隣にお邪魔する。
いつかは森の中のログハウスに住んでみたいとか思っていた。当然、安普請のアパートに妥協したけれど、それを不満に思ったことは一度もなかった。
家具も調度品も乏しい角部屋。一年前はもうちょっと生活感があった気がする。窓の外はカーテンに遮られてさえこんなに眩しいのに、部屋には照明の一つもついておらず、ほの暗い室内に舞う埃が煌めいている。
寝室に向かうと、案の定、皺ひとつないベッドが、もう数週間前に整えられたきりでそこに鎮座していた。はあ、全く、またあそこで寝ているのかと、私は嘆息を漏らさざるを得ない。
隣室には書斎がある。とは言えイメージするほど洒脱なものじゃなく、人ひとりが身体を強引に捻じ込んでやっと通り抜けられる隙間を空けて、オーク材の本棚がぎゅうぎゅうに詰め込まれている窮屈な部屋なのだった。それでも入りきらなかった書籍が床に平積みになっているのだから、呆れるというより、その偏執的な収集癖には頭が下がる。
つまらなかった本はもはやカーペット代わりに敷き詰められていて、ちゃんとしている本好きが見たら卒倒すること請け合いですね。そんな、手入れの雑な人智の密林に分け入っていくと、最奥部にはちっぽけなデスクがあって、その上に突っ伏している男の、同じくらいちっぽけな背中があった。
寝息をたてる君のうなじをつついてみても、全く反応がないほどの熟睡っぷり。枕がわりになるとでも思っているのか、ぐしゃぐしゃに丸められた大量の原稿用紙を下敷きにしている。私の自慢の物書きさんは、今日もまた随分と長引くスランプに四苦八苦した挙句、ウイスキーのボトルを片手に不貞寝していた。
私は本の山の一角に腰を下ろして、足をぶらぶらさせつつ、君が自力で目を覚ますのを待った。
私たちにとって朝餉とは昼餉であり、また逆も然りなのである。
起き抜けの君がのろのろと冷たいシャワーを浴びに行って、髪を濡れ細らせたままバスローブ姿で戻ってくる。その間私は、居間のテーブルに寝っ転がってごろごろしていた。
君は私を叱りつけることなく、そのままの格好でキッチンに向かう。別に構ってほしかったわけではないけれど、存在を蔑ろにされたような気がして、私は軽い悪態とともに君のもとへ向かった。
二切れの食パンを開封して、トースターに放り込む。その間に熱したフライパンの上で卵を割って、スクランブルエッグを炒め始める。君の肩越しにその調理の様子を眺めつつ、随分手際が良くなったものだと感心した。天才講師によるマンツーマン指導の賜物だ。
出来上がったそれらを、君はプレートに盛り付ける。些か健康に支障を来たしそうな分量のバターとケチャップをトッピング。そうして完成したクラシカルな朝食をリビングに運ぼうとしたところで、――ふと、俄に足を止めた。
うっかりその背中に追突しそうになった私は、不服の声をあげる。
君はそれにも無反応で、棒立ちになったまま、ただじっと、皿の上の料理を見つめていた。
私が怪訝な顔をしていると、君はくるりと踵を返してシンクに向かった。ちょっと、と私が咎めるのも間に合わず、流しにプレートを突っ込んだ。
そして、そのままパンをつかみ上げて乱暴に齧り取った。
私は憮然とした面持ちで、その様子を見つめている。居間まで運ぶのがめんどくさいからって、何もそこで食べることはないでしょう。まあ確かに、食事を済ませてすぐに食器を洗えるから、二度手間を省けるのかもしれないけれど。
君は結局、ごちそうさまとさえ言わなかった。
ここ最近になって、奇行とまではいわずとも、彼の粗暴な行動がやたら目につくようになったと思う。何かを思い出したかのように、突如として苛立ち、発作のように自暴自棄に陥る。私を振り回して心配させたいのだったら、彼の目的は凡そ叶っていることになる。構ってほしがっているのは君の方なのかもしれない。それにしては、やけに寂しそうな顔で、君はじっと、窓の外を眺めている。
今日は二人で外出する日だった。
君は、ほんとうに最低限の身支度しかしなかった。安っぽい絵柄のプリントTシャツに、くたびれた浅い青のデニムパンツ。肩口から提げた薄っぺらい帆布のトートバッグ。理容室に行くことすら億劫らしく、自らカットした前髪の毛先が、目蓋のあたりでばらばらに揺れる。
まあそんなにお洒落な用事でもないしね、と思いながら、部屋の施錠をして非常階段を下りていく君のあとに続いた。私の方は、いい加減新しい服が欲しいものなのだけれど……純白のワンピースは、ほんとに、もう飽き飽き。
横並びで歩くこと数分、近所の駅に到着した。社会の授業で習うベッドタウンの典型例とも言えるのがこの地域で、真昼間のこの時間帯は専ら閑古鳥が鳴いている。衆人の監視はほとんどなし。それをいいことに、君が切符を挿して改札を通り抜ける背後にぴったりとくっついて、私一人分の運賃をちゃっかり誤魔化してしまうことに成功した。
幾度か路線を乗り換え、幾度となく目で追いかけた車窓の景色が流れて、満を持して私たちが降りるのは、とある古書街の中心なのである。
けれども軒を連ねる古本屋には、これっぽっちも用はない。フォーマルスーツのビジネスマンが行き交う中に混ざると、酷く肩身が狭いような空気を感じて、できる限り君に寄り添って歩いた。むっとする人いきれが鼻につくようだった。
暫くして、私たちはお目当てのカフェを見つける。個人営業の寂れた老舗だ。
店内はヴィンテージランプの淡い明かりが満たしていて、なんというか、知る人ぞ知る隠れ家といったその装いに反して、お昼時を外してもごった返すほどの盛況を見せていた。見知った老店主と会釈し合う君の後ろで、私は全力で飛び跳ねながら両腕を振って、久々に伺った彼の顔色が良好なのを喜んだ。
君がついたテーブル席の向かいに座って、ほっと一息ついた。女子高生のアルバイトがお冷を一つだけ持ってくる。私に要らないのですか、と訊ねるぐらいしてもいいだろうに。気怠げに戻ろうとする彼女を君は呼び止めて、カフェオレを注文した。私はとんでもなくカロリーの高そうなチョコレートパフェが運ばれて行くのを見ただけでもう、お腹がいっぱいだった。
程なくして、店先のベルが軽快に鳴った。入店した男の横幅の広い風袋に、なんだか妙な既視感を覚えていると、彼はすたすたと歩み寄ってきて、君に声をかけた。慇懃に、どうも、お待たせしました。いえ、平気です、君がかすれた声で返す。それじゃあ、口に出しながら彼が、あろうことか私の上にすとんと座ってしまおうとしたので、慌てふためきながらすんでのところで飛び退いた。私に乗っかられて喜んでいた椅子が、今度は大きく軋んで息苦しさに泣いた。自然とウェイトレスみたいな立ち位置に追いやられて、直立不動の待機姿勢を取らざるを得なくなる。
さて、と男が前置きもなく切り出した。執筆は順調ですか。今度はちゃんと終わってるんでしょうね。
君は無言で、バッグからポートフォリオを取り出した。ぎっしり詰め込まれていた原稿用紙を、男に手渡す。皺くちゃだった。枕からのリサイクル品だ。それを受け取って、男の顔が顰められる。やにわに思い出した。このひと、君の担当編集さんだ。
いかにも渋々といった雰囲気で、編集さんはページをめくっていく。その間、君はカフェオレの液面をじっと見つめていて、暇を持て余した私もそれを凝視してみた。波紋の一つもないんじゃ面白くないと判断したところで、編集さんが厳めしく顔を上げた。
今回ばっかりは、期待していたんですけどね。
投げつけるような言い方だった。
前と一緒ですよ、全体的にこれでもかと歪んでいる。プロットを踏み躙るなんて言語道断だ。語り口がつっけんどんすぎる。それにだ…………どうしたって、あんたはこう、ヒロインについてだけ執拗に描写するんだ?
しかもその描写が優れているならまだしも、文体そのものがぐちゃぐちゃになっている。まるで一行ごとに多重人格が入れ替わっているみたいだ。もはやこれは小説じゃない。狂気的な文章の羅列だ。児戯にも等しい。
…………すみません。君はそう一言だけ言った。
なあ、ほんとうにどうしちまったんだあんたは。男が身を乗り出して、君に切迫する。恋愛小説の麒麟児って、帯に書かせた俺の眼は節穴だったのか? 違うだろ、あんたは去年からどうかしちまってる。ただのスランプじゃこうまでならんよ。あんたどうしたいんだ? あんたのファンは、あんたの新作が世に出るのを今か今かと待ち望んでいるんだぜ。
もういいでしょう、私はそう声を荒げようとした。なにもそんな責める言い方しなくたって。
それを遮るように、編集さんがまくしたてる。俺はそろそろ限界だ。今まであんたに、可能な限り全力で支援してきた。あんたに賭けてたんだ。あんたの才幹を信じてた、なあ、それをこんな風に唾棄するのって勿体なさ過ぎるよ。
君は俯いたまま、もう一度書き直します、と訥々と返した。もう少しだけ待ってもらえませんか。落ち着いたら、またちゃんとやり直しますから。
編集さんは憤慨した顔でしばらく君を見つめ、やがて席を立って、これが最後ですよ、なんて通告した。
君は頭を下げるばかりだった。ひとことも言い返すことはなかったけれど、編集さんが言葉を紡ぐたびに、疼痛に耐えるかのようにテーブルの下で両の拳をきつく握りしめていたのを、私は知っている。
精一杯睨みつける私を押しのけて店を出ようとした編集さんは、去り際、一つだけ君に問いかけていった。
あんたさ。何のために小説書いてるんだよ。
帰り道の君は見るからに悄然としていて、私には声のかけかたがわからなかった。
昼間に降りた駅はとうに通り過ぎた。私たちは当て所なく逍遥している。ひたすら地面を見つめながら道をたどる君を追いかけた。視界の外で、知らない街の風景がうつろう。
君が両腕をさすった。肌寒いのだろうか。夏は、とうとうさよならを告げようとしていた。
それにしたって君というやつは、本当にしけてしけまくってしけ切った面をしていやがるものだ。あんな乾涸びたおじさんの戯言なんて受け流して好きにやればいいんだよ。出版社なんて変えたっていいじゃない。
私は快活に破顔してみせ、君の背中をなぐったり、膝の裏を突っついたり、横っ腹を蹴っ飛ばしたりしてみる。元気出せよって不良みたいな口調で声をかけた。突然目の前に飛び出して出鱈目に大声を出してみたり――いや。出そうとして、それができなかった。
君が私を見つめていた。
紛れもなく。私はその場で硬直して、時間が流れを止めたようにさえ思われた。意識が不意打ちを食らって凍結する。状況の把握に、かなりの時間が必要だった。
視線が交差している。立ち止まった君は、私と至近距離で顔を突き合わせていた。その双眸は見開かれていて、虚を突かれたような表情をしている。
私はそんなこといつぶりだったか思い出せないくらい久しぶりで、前触れもない恥ずかしい出来事に、心臓がありえないほど早鐘を打った。思わずさっと目を逸らして、恐る恐る見返してもなお、君は私を見つめていた。ずっと探していたものを、ようやく見つけたかのように。君は――私のことを認識していた。
しばし無言で見つめ合う。唇が震える。目蓋の裏が濡れた熱をともす。吃りながら、空気みたいな声を絞り出す。
…………見えるの?
そう、訊ねた。
君の返答はなかった。なんだか嫌な予感がして、わずかに身体をずらしてみると、君の視線は固定されたまま追ってこなかった。ああ……なんだ……。なんだよ。それ。いつまでたっても相変わらず憎らしい奴なんだな、君は。完全に、早とちりの勘違いだったわけだ。
だって絶対にそんなはずはないんだから。一瞬でも、期待した私が馬鹿だった。当の昔に諦めたのに、理由もなく成就するわけがない。恥辱で頬が紅潮するけれど、失意みたいな倦怠に包まれて、それを手で覆い隠すことはなかった。
君には、私が見えないんだ。
知ってたよ。それは私が一番知ってるんだ。今更悲しくなんてあるものか。
私は気を取り直して君の隣に並び、君が私を透かして見つめていたものを探した。
それは有名ブランドのセレクトショップで、軒先のショーウィンドウにはマネキンが並んでいた。
正確には、そのうちの一体に、偶々似通ったデザインの服が飾られていただけだったのだろうけど、あまりにもそっくりだったから、私も君も、目を釘付けにされた。純白のワンピース。肩回りのシースルーがアクセントのAライン。アッシュブラウンでボブカットのウィッグの上から、鍔が狭めの麦わら帽子をかぶっている。
☨
花火大会の前日だった。
私は君と浴衣を買いに行った。けれど道中で、物凄く他愛もないことで喧嘩した私たちは、別々の帰り道を辿った。
あとから情けなくなって、泣き腫らした目を拭いながら夜道を歩いていた。そうしたらいつの間にか私は死んでいて、痛かったような痛くなかったような、記憶の齟齬を訝りながら立ち上がると、辺り一面が地獄みたいに真っ赤に染まっていた。
どれくらいの間だったか覚えていないけれど、とにかく泣き叫びながら街中を彷徨って、けれど知らない場所だったから帰り方がわからなくて、ひたすらに、君の名前を呼んだ。道行く人に手当たり次第に取り縋って、何度も舌を噛みきりながら、助けて以外の言葉が思いつかなくて、助けてください、助けてくださいって、何度も、何度も何度も何度も何度も何度も――
誰も気づいてはくれなかった。私のことをみんなは無視した。道の真ん中にうずくまって泣きじゃくる私を、みんな避けもせずに蹴りつけていった。
心が擦りつぶされて欠片さえなくなってしまって、もう一度死ぬ方法を求めて放浪していたら、ほんとうにたまたま、葬儀場の前を通りすがった。
私の名前が看板に書かれていた。その場に崩れ落ちてひとしきり泣いてから、私は場内へと足を踏み入れた。
葬儀はあらかた終わっていた。弔問客たちは帰りがけで、思い思いの立ち話に興じていた。私のことなんかどうでもよさそうに。みんな笑い合っていた。よく見知った顔も、親兄弟すら余すことなく私はひとりずつぶん殴って回ったけれど、身体が透けるなら手応えすらないのだと、自分の惨めさを理解しただけだった。
奥のほうまで行くと、空席だらけの会場の奥に、数多の献花に囲まれた高校時代の卒業写真があって、その袂には、明るい色の木棺が横たわっていた。
それを覆い隠すようにして、身を挺して誰かから庇うような格好で、君が座り込んでいた。
後から知った話では、私の遺体はトラックに轢かれて交差点に投げ出され、さらに複数の車両に蹂躙されて、文字通り跡形もなくなってしまっていたらしい。復元すら不可能で、だからその時棺桶の中には、私の亡骸すら不在だった。私という女の夭逝は、ただの事実でしかなかった。何一つ残らない。
やつれきった君は呼びかける係員を無視して、何時間もそこに留まって、時折涸れ切った嘆きを漏らして肩を震わせ、そしてただ譫言のように、言葉を繰り返していた。
お願いだ。
お願いだ――どこにも行かないでくれ。
君だけが私を必要としていた。君には私が見えないけれど、だけど、君の傍に永遠に居てあげられるし、君は、私の傍に永遠に居てくれる。
幽霊になった私は、もう二度と、君から離れないと決めた。
☨
帰宅するや否や、君は鞄を壁に叩きつけた。どすどすと居間まで歩くと、ソファに身を投げて、顔を押し付けてくぐもった嗚咽を漏らした。
私は静止する気力もなくて、その哀れな様を眺めるしかなかった。知らなかった。もうじき一年が経とうとしているのに――君は、どうしたって、私のことを忘れてくれないのだろう。
わかってるんだ。君は大声を張り上げている。わかってんだよそんなこと!
玄関には、鞄からあふれ出した原稿用紙が散らばっていた。“彼女は嬉しそうにほほ笑んだ”“彼女は神妙に頷いて見せた”“彼女は泣きながら笑った”――そんな一文が繰り返し繰り返し並べられて、最終的に殆ど二重線で打ち消されていた。
けたたましい音が響き渡り、私ははっと振り向いた。君がテーブルの置物を投げつけたらしく、部屋の隅っこの物置がガラガラと崩れていくのが見えた。積み上げられていた箱やら筒やらが床に転がっていく。全身の震えが止まらなかった。最悪の事態だけは、絶対に起こってはならない―――君が、
それを阻止することが、私にはできない。何一つしてやれない。それを傍観するなんて、私には耐えられない。
私が息を呑んで見守る中、けれど君はふらふらと、掃き溜めから姿を現したそれに近づいていった。ピアノだった。型落ちの、機能性に乏しい電子ピアノ。生きていた頃の私が、毎朝、日課として弾いていた。君はその横のテーブルで、万年筆を原稿用紙にたのしそうに滑らせていて、先が行き詰まるたびにやってきては、私の演奏に耳を澄ませていた。
埃をかぶった鍵盤蓋が開かれ、そっと、白鍵に君の指が下りる。押下した。消え入るようなメロディ。打鍵。最初の三音で、ベートーヴェンの月光だとわかった。
……そこはド、だよ。
しばし手を止めて、ふと、君がそう言った。
ああ――覚えている。そんなこともあったね。かつて私が告げた言葉を、君はなぞらえていた。
私は、頷いてみせる。確か、その時、そうしたような記憶がある。
この記号は休符だから、鍵盤から、指を、離す。君が訥々と言い、指をぎこちなく滑らせてゆく。
……その記号は休符だから、鍵盤から指を離す。私は繰り返した。
よく見て、シャープって、書いて、あるでしょ。
よく見て……シャープって書いてあるでしょ。
思い出を再現するように、時間をあの頃に戻していくように。
指はもっと立てないと。
指はもっと立てないと。
君と私の声が重なった。
……じゃあ、
「じゃあ、通しで弾いてみてよ」
「じゃあ、通しで弾いてみてよ」
余韻のように、ピアノの高らかな音色が尾を引いている。
いつかのように、私は君の傍らに立っている。
いつかのように、君は鍵盤に両手をかけていた。
掛け時計の音が聴こえなくなっていた。夕闇の鮮烈な橙色が差し込んでいる。
私の影法師の中で、君は、鍵盤から指を下ろして、ずっと俯いている。
「……わかってるんだ、お前がもういないことなんて」
そんなようなことを、ぼろぼろと零した。
「わかっているけど――俺の記憶の中では、確かにお前はそこにいて、休むことなく息をしていて、俺がくだらない冗談を言えば笑ってくれるし、俺が泣いているときは、一緒に泣いてくれるんだ。
だから、そうやって俺の声を聞いてくれるお前を描けば、そこにお前がいるのだと思った。俺なら、お前をもう一度この世に呼び戻せると思った。どこかでお前がへそを曲げているなら、連れてきてやろうと思った。だけど、駄目なんだ。どうしても」
そうやって、私の影を探しながら、この一年を生きてきた。
こんなに、こんなに近くにいたのに―――
「お前のことなら何でも知っていると思い込んでいた。だって、俺は誰よりもお前を知っているはずなんだ。でも、そんなのは傲慢で、虚栄で、嘘っぱちで、俺がどんなに必死になって語りかけても、そのあとにお前がなんて言うのか、どうやって表情を変えるのか、わからなかった。その度に、世界中が、俺に、お前はもうどこにもいないんだって諭してきて、その度に気が狂いそうになるのを、ずっと耐えてきたんだ……」
震えながら、君が両手で顔を覆う。
その両肩に、そっと、私の両手をのせた。
「私は、ずっと傍にいたんだよ」
届け。今なら。
「ずっと君を見守ってきた。片時も君から離れなかった。ほとんど執念で、妄念で、君のことを一生苦しめてやろうなんて思ったりもしたよ。君が私と決別する日が来ないことを祈った。君が他の人と幸せになっても、絶対に最後まで追い縋ってやろうって決めてた。でも、君は忘れないでいてくれたんだね」
「何があったって……」ほとんど絶叫のような君の言葉を、私だけは聞き取ることができる。「お前のことを絶対に忘れないって、決めたんだ」
「ありがとう」伝わらなくてもいい。ただ、届いてほしい。「傍にいてくれたのは、君のほうなんだね」
君はしゃくりあげながら、止まらない涙を何度も何度も拭った。私は寄り添いながら、そんな君に、微笑み続けた。涙をこらえるのは、とうに諦めていた。
「ごめん……ごめんよ…………」
私のほうこそ、とか月並みに返そうとして、形にならない声が漏れるのを、口を塞いでこらえた。悲痛を喉の奥に飲み込んで、最後に君に伝えたいことを、形にした。
「だからさ、もういいんだよ」
ひどく小さく見えるその背中を、ゆっくりとさする。
「完璧じゃなくていい。君が覚えてくれている限り、私は君の傍にいる。ずっと一緒だよ」
君は何か言おうとして、けれどもう、悟性は感情が押し流してしまって、ただ、嗚咽を漏らして慟哭し続けた。
私は、君を後ろから抱き締めた。首元に腕を巻き付けた。頬を君の顔に添えた。
小刻みに震えるぬくい体温を、肌に感じた。私の腕に、君が触れ返した。そんな気がした。
せめて、君が落ち着いて心を取り戻すまでは、私が覚悟を決めるまでは、いつまでもそうしていよう。
一年と二日、幽霊と物書きが暮らした部屋が、夕空と同じ色に染まっていた。
朝になる。
人間が消えてなくなってしまっても、まるでそんなのは最初からいなかったよというように、同じ軌道を巡ってくる朝だ。
元々実体を喪って透けていたこの身体だけれど、今度こそは色そのものが透き通って、つまりはそういうことなのだろうと私は結論付けた。思えば死んだ瞬間から、私が抱いていたのは現世に対する未練ばかりで、無意識下でここに留まり続けようと、確固たる意志を決め込んでいたらしかった。
だから精々、行くべき場所に行く前に、できるだけ遠くまで、他愛もない旅をしてみようと思う。ご存知の通り私は幽霊なので、あらゆる代金を払う必要もなければ、他人に一切構う必要はないのだ。
そうしてみたら案外、別の幽霊なんかにも会えたりするんじゃないだろうかと、淡い期待を抱いている。というか、本来そうあるべきなのだ。私と同じような経緯をたどって成仏しきれない魂なんて、普遍的に存在してしかるべきだなのだから。
軽やかな足取りで、朝焼けの天蓋の下に踏み出した。秋は別れの季節だなんて言うけれど、そんなものはデマゴギーに過ぎないし、根も葉もない出鱈目だし、けれど、物寂しい季節であることは仕方ないから認めよう。
私は君の部屋を後にした。たくさんの忘れ物をしたけれど、それは全部君にあげてしまおう。
それでも当分の間は、君は私の小説を書き続けるのだろう。
君が抗いをやめるまで。私のことを忘れてしまうまで。
下手くそな回想でも、それでも、きっと私はそこにいるんだ。
その度にまた、何度でも、紙の上で逢おう。
紙の上で逢おう 那月 @na2key61
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