第40話『Beautiful Garden』
包装されたお客の注文の品を持って、トールは春の日和の中を歩く。今日は晴れていてとてもいい天気だ。こんな麗らかに晴れた日に、この届け物を出来るのは幸運なことだ。
トールの手のなかの小包には、一つの丸く透明なガラスの霧吹きが入っている。
トールの行き先は植物園『エデン』。その名の通り美しい楽園のように、草花が息づく、温室のある庭園が見えてきた。
ここに入るのは少しコツがいる。温室の手前には、生垣で作った迷路があるからだ。
入るものを拒んでいるわけではない。ここの主人の趣味で、温室に入るまでの道から、お客に植物を楽しんでもらいたいという小粋な計らいだ。
生け垣は、手入れの手間はかかるが、中途半端に伸びたような枝は一本たりともなく、全部きっちりと美しい平面と直角を形出している。
生け垣いっぱいに咲いている花もある。白い鈴の形をした花、フウリンゲットウ。チョンと触ってみると、振り子のような黄緑色の雌蕊が花弁の中で揺れた。甘い蜜の匂いに誘われて、ちょうど蜜蜂が花の蜜を集めに来ていた。そんな姿も微笑ましい。
トールは道順を思い出しながら迷路を抜けると、ガラス張りの温室の全容が見えた。
―――ここはいつ来ても美しいな。
温室の外からでも、幾つも咲き誇る花たちが、ガラス戸越しに見えた。シクンシシス、サザンサンクチュアリ、オブフスファー、インパニチェニフス、チラトフクシ。その全てをトールは今回の仕事の依頼主から教わった。蔦の絡んだアーチ状の屋根の奥にある戸を開けて中に入る。外はまだ初春の寒さがあったが、中はホッとするような温かさがあった。
水の流れる音がした。植物園の中には、水路が流れている。太い水路から幾つも枝分かれして、小さい滝のように上から落ちたり、通路に沿ってカーブしていたりする。
水路だけでも十分に美しいが、水路の中には水草が浮いていた。水の流れの中で揺れる水草たちは、花のように主張はせず、植物園の空気を清らかにしている。
トールがしゃがんでそれを眺めていると、
「トールさん」
と、トールを呼ぶ、少女の声がした。少女は車いすに乗っていた。
「クレア。注文の品を持ってきたよ」
ここの館長であるクレアに、トールは持ってきた包みを上げて見せた。二人はお互いに近づき、クレアは車輪を回し、トールは踵から足がつくように、ゆっくりと歩を進めた。
「待っていたわ。いらっしゃい」
「今年もまた、えらく咲いたものだな」
にっこりと笑って、手を差し出すクレアの手を、トールはしゃがんで握った。良く来てくれました。クレアの手はそう言っている。
「約束の霧吹きを持ってきた。見るかい?」
「えぇ、もちろん。…………まぁ綺麗なガラス。キラキラしていて宝石みたい。金色の金具も、イメージにピッタリ」
「注文通り、持ち手がそのまま霧を吹きかけるレバーになっている」
「早速水を入れてみたいわ」
クレアは、友達とおやつのクッキーを焼く時みたいな、ウキウキワクワクした表情を浮かべた。
車輪を器用に反転させたクレアの車いすを、トールは後ろから押した。
霧吹きはクレアの膝の上で、行儀良くしていた。
「トールさん、今はハイカグラが見ごろよ。ピンクのヘルビアンヌも今年はとっても良く咲いてる。それからトールさんの好きなヴィンテージシェルフだって。やっと寒い冬が終わって、みんな元気に咲きだしてる。季節が変わっていくのを花たちと過ごしていくのはとても楽しいわ。トールさんも、もっと気兼ねなくいらしてくれていいのに」
「ははは。花を慈しむのは、俺にはちょっと乙女チックすぎる。桜を見ながら花見酒をしているくらいの方が性に合ってるよ」
「花より団子か。お花見はもう行ったの?」
「あぁ、心明と明明とで、ピクニックがてら山の方まで、足を延ばして見に行ったんだが、山桜だったから、見ごろには少し早かったな」
「でもいいね。私もピクニックしてみたいな~」
クレアの足は生まれつき悪く、立って歩くことは出来ない。
「爺やはいないのか?」
「トールさん、今日は時間ある? 実はお茶の準備がしてあるの」
「あぁ、大丈夫だよ」
「やったぁ! これで花に水をあげたら、お庭で少しお話がしたいわ。いい?」
「構わない。今日はここで心行くまで癒しをもらうよ」
「じゃぁ決まり! ミドラカモミールで作ったハーブティーがあるの!」
クレアは嬉しそうに振り返って、トールに言った。
花のように笑う娘だ。
水道の前で止まり、クレアが蛇口をひねって、霧吹きの中に水を溜める。太陽の光を通した水は、柔らかな光を、床に敷き詰めたオフホワイトのレンガに反射させた。
霧吹きのレバーを握って、噴き出る霧の調子を見てから、クレアとトールは、観葉植物の葉に水をやる。サボテンたちには少しだけ。ネズミの耳のようにぷっくりと膨れた稜や、青や紫、緑色の弾力のありそうな多肉植物が可愛らしかった。
水やりを終えたクレアとトールは、屋外にある蓮の群生する池の見える庭に出た。5月には、紙細工のような蓮の花が一斉に咲き、その池をぐるっと囲むアジサイも見ものだ。それが目当ててくる来場者も多い。
二人の視線の先には、池を見渡せるアーバーがあった。アーバーとは庭に作った草花を鑑賞したり、お茶を飲んだりする休憩場だ。このアーバーは、トールがクレアのために拵えた。クレアにとってそこは、草花をゆっくりとした時間の中で楽しめる、特別な場所だった。
そこに、先ほどの水やりを覗き見て、見計らったクレアの爺やが、お茶の準備をして待っていた。
「こんにちは、いいお天気ですね」
爺やは、トールを見止めて、にっこりと挨拶した。
「こんにちは。春らしい良い日和です。ここは気持ちがよくてつい長居してしまう」
「時間が許すなら、お好きな限りいてください。お嬢様も喜びます。トール様と話せる日を指折り数えているくらいですぞ」
「爺や。余計なことを言わないの」
「失礼いたしました。それではごゆっくり」
爺やは、そう言って一礼して、温室の方へ行った。
「もう、爺やったら意地悪」
クレアはプーとむくれて不満を漏らした。トールは苦笑しながらクレアを、車いすから抱えて降ろして、アーバーの椅子に落ち着けた。
ハーブティーのすっきりとした香りが急須から立ち込めていた。植物は見るだけではなく、こうして舌や鼻でも楽しめる。
女の子には花を。花と女の子は切っても離せない関係だ。
短い命の花たちは、それだからか、心を華やかにさせる。綺麗に咲いているのは僅かな時間でも、その間、空間を彩る。
花のある生活は、どこか気分を明るくさせる。花を生ける経験は、トールはあまりない。クレアには植物園の館長としての顔と、生け花教室の顔とがあった。
クレアの生ける花たちは、根を着けて咲くのとはまた違う顔を見せる。
花瓶に刺す花の中心を一つにして、全方向から楽しめるように、生ける基本の立花から、枝を矯めたり、曲がって伸びるように、針金を巧みに使って出した曲線を生かして、自然に生えてくる植物にはない形に、育てて魅せる作品は見事なものだった。
ハーブティーを美味しそうに一口飲んで、クレアは言った。
「今度温室の広場で演奏会のイベントを立ち上げているの。植物を音楽。眼で楽しみ音にも癒される。安らかな時間を提供する癒しの空間が作れたらいいなって始まったの」
「へぇ、それはいいな。去年の蛍をと触れ合う会も好評だったね。成功すると良いな」
クレアの考える植物園のイベントは街の人にも人気で、子供から大人まで心健やかな時間を過ごす。足の不自由さも発想次第で、補い余るほど、クレアは人との関わりを持つ。植物園は小学校の課外授業や、画家の卵たちがスケッチにも訪れる。
クレアが館長になった時、それはクレアの両親との別れの時だった。クレアの両親は旅行中の馬車で崖から転落事故に遭ってこの世を去った。酷く塞ぎ込んだクレアであったが、それを癒したのは、植物とそれに関わる人たちがいたからである。影を表に出さないクレアの度量の深さが、館長の座を継ぐことを皆に認めさせた。逞しく根を張り、太陽に向かって伸びるようなクレアは、花にも通ずる強さと儚さがあった。
「最近お店の方はどう?」
「ぼちぼちってところかな。心明と明明のためにも早く改装の準備をしたいところだけど」
「二人ともすっかり街に馴染んだね。嬉しいなぁ。そういえばこの間、明明ちゃんが売店で花を買っていったけど、店に飾っているの?」
「あぁ、そういうことには俺も気が回らないからね。女の子の気遣いがあるだけで、店が明るくなるよ。改装するにあたっても、ただ物を売るだけでなく、工夫を凝らして、思わず入ってみたくなるような店作りを考えている。これからはどれだけ客を思いやれるか、というのが商売の要になってくると思う。今みたいに好き者だけが集まる店じゃなく、広く愛されるようなそんな店にしたいと思っている」
「じゃぁ、車いすでも入れるお店だったらいいな。私だって、トールさんのお店に行ってみたいもの」
「そうだね。たくさんの人に店を訪れてほしい。計画があるんだ。これからは道具屋としてももちろんだけど、日用品や食料品も扱えるようにしたい。俺はもうこの街でずっと暮らしていくんだって考えているから、もっと街に馴染むように商売をしていきたいんだ。商売が出来るというのは、本当に運のいいことさ。初めは不安と無知で踏み出すのがおっかなかったけど、今は軌道に乗って新しいことを考えられるくらいになっている。歩みを止めないで、新しいことを考えられるうちは、俺もまだまだやれるなって思うんだ。そういう時に、クレアみたいな頑張っている人を見ると、本当に勇気づけられる」
「あら、それはちょっと侮っているのではなくて? 私だって皆に負けないくらい、自分には何が出来るかを考えてる。私だからこそ出来ることがあるから、皆もついてきてくれると思っているわ」
クレアは澄ましてそう言った。人間一人一人、自分と他人がどう違うのか、違うなら何が出来るかを考えて生きている。自分のことに蔑ろになれる人間はいない。その中で、チャンスを得る人間がいたり、能力が芽生えたりする人もいる。芽生えた力を生かすも殺すも自分次第なのが、世を渡っていく辛さでもある。それでも、踏み出した先にある人と人との縁を大切にして、自分の力に驕らず、魅力ある提案をし続けるから、人は集まってくるものだし、その積み重ねが出来るからこそ、それが自分にも他人にも信用となって根付いていく。習慣でしか人は変わらない。毎日コツコツ努力することの難しさ。常に発展していくことを、喜びに感じられる人こそが、何かを成し遂げることが出来るのだろう。それは、人は毎日自分自身に、新しいものを取り入れる努力をした、と納得することで、一日を無駄にせず過ごすことが出来たと安心する。その安心に何を据えるかで、その先の人生の方向性が変わってくる。
「毎日花に囲まれていると、寂しくないの。こんな私でもね、必要としてくれるこの子たちがいる。それを素敵って私は思いたい。世界が暗くならないように、この子たちは咲いているんだわ。花ってそういう力があると思うの。だからね、たくさんの人にその明るさを慈しんでほしいの。独りにならないでほしい。独りは寂しいから」
「店を改装したら、たくさんの花で改装祝いをするよ。そしたらその花を好きに持って行って貰って、家に飾ってもらう。花は消耗品になっちゃうけど、一日でも花のある生活を送った人には、そういう力を分けてもらえると思うんだ」
すると、クレアは力なく作り笑いをした。
「本当は、私のように不自由な人にも花を届けられたらなって思うの。塞ぎ込んでいる人もたくさんいると思う。トールさん、そんな人にどうやったら独りじゃないよって言ってあげられるのかな」
「難しい問題だね。誰もが等しく影響し合えるわけじゃない。分け隔てなく誰にでも意図が伝えられるなら、それは神様しか出来ない御業だ。幾ら文明が進もうが、幾ら発言に影響力を持とうが、受け手が塞ぎ込んでいるんじゃ思いは伝わらない。そんな人に出来ることと言ったら、優しくする、優しくなることだけだろうね。誰にも傷つけられない安心がこの世界を包んだ時、ようやっとその人は外に出て来られるかもしれない。本当は強くなんかなくたって生きていられるようになるといいのかもしれない。君は今途轍もないことを考えている。でもそれを考え続けることが、必要なことなんだ」
「私はもう、悲しくなんてならない。お父様とお母様はいつも傍にいてくれる。亡くなってからの方がむしろ、私の中で生きている気がするわ。それは私が二人に愛されていたから。そんな愛を知らない人もたくさんいる。その人の気持ちをどれだけ想像できるかが愛だと私は思うの。人が皆違っているのだから、その違いを認めて受け入れる努力を欠かしてはいけない。そんな人たちの為に、私はまだまだ強くなる必要があると思っている。それが私に出来ることなら、私がやらなきゃいけないことだと思うから」
「君には敵わないな。そうやって皆のことを大事に考えるから、君の周りでは花が咲き誇る」
「大人の狡さも身に着けられたら、トールさんも少しはこっちを見てくれるようになる?」
「十分、君は魅力的だよ」
「そういうところが狡いんだよなぁ。今にいい女になって見返してあげる」
そう言ったクレアは、儚さなど微塵も感じさせないくらい勝気に笑い、そんな彼女をトールは誇りに思った。たくさんの命が息づく楽園の午後は、時間が微睡んでいるようにゆっくりと過ぎていった。
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